▼コンプレックス・ヒーロー 
短編にしては長いですが、さくさくと読め……ると良いなあと思って書きました。
当初ラブコメを書き始めたつもりでしたが、気づけばテーマは友情のようだ……。




 俺のポケットで携帯が振動した。
 その瞬間、数学教師が解説していた方程式が俺の脳裏から消し飛んだ。
 全神経が右の太ももに伝わる感触に集中する。
 見たい。
 いや、見ちゃいけない。
 授業中だぞ。バレたら説教だぞ。あと五分もすれば授業が終わる。解放だ。解放されるんだ。五分耐えろ。今見なかったからと言って、メールは消えるものじゃない。
 だけど、だけど今俺の右ポケットに届いているのは間違いなく……。
 欲望に抗いきれず、俺はポケットをまさぐった。机の下で携帯を開き、分厚い眼鏡のレンズ越しに視線を落とす。予想通りの名前を着信表示に見つけた途端、顔が溶解した。
 まあったく、学校が終わるまでメールは駄目だって言っただろぉ? しょおがない奴だなあ、もうへっへっへぇ。
『まだ学校? サトルが帰って来ないとつまんないよぉ。待ってるからネ。早く帰って来てネ』
 三日前の夜から俺の『彼女』であるエリナからの、ハートの踊る文字列に完敗。俺の顔は、きっと夏場のアイスクリームも真っ青な溶けっぷりだろう。
 携帯のディスプレイを見つめてにたにたする俺に、隣の席の女子から容赦ない視線が向くのを感じた。ふっ、見たければ見ろ。俺は今幸せだ。大方、薄気味悪いとでも思ってるんだろうが、お前ごとき雑魚に何を思われたところで痛くも痒くもないわ。
 何せ生まれて十六年、初めての『彼女』。女の子からメールが来るのだってエリナが初めてだ。
 さあて、今日のデートはどんなプランにしよう。今日はどんなカオを見せてくれ……。
「ぬぉあっ?」
 全細胞が携帯のディスプレイに集中している無防備な俺の首に、突然強烈な衝撃が襲った。襲撃者の目論見通り机に撃沈した俺の背後から、呆れ返った声が聞こえる。
「また二次元からメールもらって喜んでんのかよ」
 俺がトリップしている間に授業は終わったようだ。
「平岡、もっと平和的に声をかけてくれ」
 机に顔をめりこませたままじっとりと呟くと、「悪ぃ悪ぃ」とケタケタ笑う声が返った。ようやく頭を起こして振り返る。
 小学校から見慣れた、と言うより見飽きた端正な顔が想像通りのニヤニヤ笑いを浮かべていた。
「早く帰ろうぜ」
 携帯のディスプレイを伏せて帰り支度を始めながら、俺は先ほどの言葉に小さく反論した。
「二次元って言うな」
「だって二次元だろ? ギャルゲー。何だっけ? 『放課後天使』のエリナちゃんだっけ? エア彼女からメールもらって楽しい?」
 楽しいよっ。
 胸の内だけで反論して立ち上がると、さっさと教室を後にする。前方にたまっていた女の群れが笑顔になるのを見て、平岡が追いかけてきているとわかった。
「平岡くーん。真っ直ぐ帰んのー?」
「あたしらとどっか寄ってかないー?」
 俺はその誘いの対象に入っていない。
 なぜなら彼女たちにとって、俺は平岡の添え物……いや、影や亡霊と言った類に分類される。見えていない種類のイキモノだ。
 学年でもかっこ良くて目立つ平岡と、逆の意味で目立つ俺の組み合わせは、どう考えてもアンバランスだからだろう。
 実際平岡と仲が良くなければ、暗くてノリも悪くてダサくて勉強も運動も出来ない俺なんてきっと、『二次元オタクのギャルゲー中毒』とか呼ばれて汚物のように扱われるに違いない。そして、それほどタイプが違うにも関わらず平岡が俺に構い続ける理由は、俺にもわからない。
 メス共を撒いて来た平岡が隣に並ぶ。
「お前ん家、寄ってって良い?」
「嫌だ」
「何つーつれない発言。まーた、本当は嬉しいくせにっ」
「駄目。俺、今からエリナとデートだから」
 ふざけて俺をツンツンしていた平岡が、その気色悪い態度をやめて、ガクリとコケる真似をした。
「デートが行われるのはお前の部屋のパソコン内部だろ。俺がいたって関係ねえじゃん」
「気が散る」
「気にすんなよ。俺がお前のデートを指導してやるから」
 ふふん、と偉そうに腕組みして上から目線を注ぐ平岡に、嫌な顔を向けてやる。
 その間も平岡には、ちょいちょい女の子から「カラオケ行かない?」だの「おいしいカフェが出来たよ」だのとお声がかかっているが、平岡は「またねー」と軽い調子でかわしていく。
「何で俺ん家寄るんだよ」
「今朝買った漫画読んでこうと思って」
「自分家で読めよ」
「俺の家よりお前の家の方が若干近い」
「ホントに若干だよっ。五分も変わる距離じゃないだろっ?」
 家に帰るのが退屈なら、お誘いに乗りゃあいいのに。女からの誘いだけじゃなく、男からの誘いだって幾らでもあるのにさ。
 そう思いながら、隣に並ぶ横顔をちらっと見上げる。全く、母親の腹ん中でどんな芸当をすればこんな造作が整うのか。常日頃から疑問だ。こういう奴がいるから、世の中は住みにくい。
 俺は『生まれ持った根っからのイケメン』やら『少女漫画から抜け出してきたヒーローのような男』だとかは死滅を推奨する。
 推奨するが。
「お前ん家の方が居心地良いんだもん」
 ま、平岡だけは別扱いしてやっても良い。一応、幼馴染だしな。
「しっかし、最近のゲームは携帯にメールまで来るのかよ」
「ゲームにメールアドレスを登録しとくと、ゲームの進行にあわせて送信されてくるんだよ。リアル彼女っぽいだろ?」
「現実乖離を促す政府の策略だな」
「何で政府がそんな策略を練らなきゃなんないんだよ……」
「アメリカの陰謀だっ。日本人男性を妄想に浸からせて腑抜けにし、侵略を……」
「するならとっくにしてるよ」
 日本の軍事的防衛力なんて高が知れてるんだから。
「二次元って言うけど、結構難しいんだぞ。間違った対応すると振られるかもしれないし。あ、そうだ。そろそろ家に誘っても良いと思う? まだ早いかな」
「二次元女よりナマモノに目を向けろって」
 もてる奴からこういう説教をくらうほど、殺意をかき立てるものはない。
「ナマモノなんか、何がいーんだよ。うるせえわ、わがままだわ、金はかかるわ、時間はかかるわ……」
「感触」
「は?」
「ナマの良さは感触だ」
 そう言ってわきわきと右手の指を動かしてみせる平岡に、俺はぐっと言葉に詰まった。
 ナマ女に触れる機会なんざ、小学校のフォークダンス以来巡って来た験しがない。当たり前だが、おかんは範囲に入らない。
 ゆえに、反論の材料がない。
「うるさいな。お前にエリナの良さがわかるもんか。二次元オタと言われようと、キモいと罵られようと、いーんだ。俺はエリナが好きなんだ。二次元でも、存在しなくても。エリナの良さがわからない奴の方がよっぽど哀れさっ」
 多少の負け惜しみはあったかもしれないけど、リアルの恋愛にそれほど興味を持てなかったのは嘘じゃない。
 傷つくのは怖いじゃないか。俺なんか本当に好きになってもらえると思えない。俺みたいに平岡の添え物として日々を生きてるような奴、本気で相手にしてくれる女の子が現実にいるわけがない。億が一そんなことがあり得たとしたって、多分自分を本気で好きになってくれるとは信じられないだろう。疑心暗鬼になったりして、自分で自分を痛めつけたり疲れたりするのなんか、ごめんだよ。
 それに、現実にはなかなかいないじゃないか。理想とするような女の子なんて。
 ゲームの方が、よっぽど楽だ。
 ゲームのキャラクターは、俺のことを知らないから。

 ***

 二学期が終業式を迎え、クリスマス・イブと重なる聖なるその日、俺は完全過疎の図書室に閉じ込められていた。
 素直に言えば、図書当番と言う奴だ。
 だけど、街も浮かれ人も浮かれる今日のこの日、図書室番をしていたところで誰訪れることがあるだろう。否、ない。
 予定のある人はさっさと帰り、予定がない奴はない奴同士でつるんでさっさと帰り、いずれにしてもさっさと帰り、図書室に来るような酔狂がいるもんか。図書室の完全閉鎖を要求する。
 もてもての平岡も、今日ばかりはメス共に攫われるように帰ってしまった。ペアであるはずの当番相方は、姿を見せる気配もない。
 俺だって早く飛んで帰って、家でゆっくりエリナと会いたいのに。こんな聖なる日には、早くパソコンをオンにして部屋に篭りたい。
 悶々とエリナからもらったメールを携帯で眺めていると、静まり返った図書室にドアを開く音が響いた。同時に澄んだ声が室内に響く。
「長谷川くんっていますか?」
 顔を上げたその瞬間、俺の心臓が弾け飛んだ。
 ドアのところからこちらを窺っているのは、ついぞ見たことがないような美少女だ。
 ――――――キタ。
 俺の頭の中で鐘が鳴り、世紀の出会いに祝福の脳内パレードが開催された。ストライクゾーンど真ん中。幻覚か? 何だこのけしからんほどの愛くるしさは。こんな生物がこの校内に存在していたとは迂闊だった!
「あ、え、あ、お、俺?」
「あなたが長谷川くん?」
 愛らしい仕草で小首を傾げると、背中に届く長い黒髪がさらっと揺れた。くりっとした黒目がちの大きな瞳が俺を見る。小さな顔にジャストサイズの唇が、微笑を象った。
「う、うん」
 なぜかカウンターの内側で中腰になりながら、カクカクと頷いた。軽やかな足取りで美少女が近付いてくる。制服に示された学年章は、三年生だった。……さんねんせいっ? 俺が一年生じゃなかったら絶対年下だと思ってたところだぞっ? あどけないにも程がある。
「あのね、落し物」
「へ?」
「これ、拾ったから。良かった。まだ帰ってなくて」
 そう言って彼女が差し出したのは、見覚えある俺の定期入れだった。安っちぃペラペラのそれの内側には、定期と共に学生証と一緒にギャルゲのラミカが詰まっている。
 うあああああああ。こ、これを見られたのか? 今すぐ死ね、俺。なぜ念じただけで消滅出来ないんだ、俺の馬鹿!
「学生証でクラスがわかったから教室に行ってみたんだけど、多分図書室だよって残ってる人が教えてくれたから」
「あああああありがとう……」
 彼女のセリフなんて、半ば以上耳に入ってこなかった。学生証を見たってことは、見たんだな? 俺のラミカの集大成を見てしまったんだな? その可愛らしい顔の下で、『何コイツ、キモいギャルゲヲタ』とか思ってるんじゃないのか? ち、違うんだ。違わないけど、ハマってる奴なんか俺以外にも山といるはずで……。そう、俺だけじゃないんですよっ?
 顔面火事で俯きながら受け取ると、俺はそろっと上目遣いで彼女の様子を窺った。視線に気づいたのか、彼女が目を瞬く。
「あ、ごめんなさい。中は、そのう、見ちゃったけど……」
 それそれそれ! そこそこそこ!
 あああああ。ですよねっ、やっぱ見ちゃいますよねっ。ってか見えちゃいましたよねっ!
「は……見苦しいモノをすんません……」
 何で俺、謝罪してるんだろう。
 別に俺が俺の定期入れに何を入れていようが責められる謂れはないはずだが、とにかくリアルで初めて出会った超絶タイプの女の子に「気持ち悪い」と思われてるんじゃないかってことが俺を縮めていく。
「見苦しい?」
「や、その、定期とか学生証以外に、いろんなモノ入ってたでしょ……」
 ああ、と彼女は小さく笑った。その笑いが嘲るようなものではなかったので、俺はそろーっと顔を上げる。
「男の子って、いくつになっても、そういうカードとか好きだよね。みんな子供の頃からよく集めてるじゃない?」
 スポーツ選手とかじゃなくて、うふんなポーズのギャルゲキャラですけどね……。
 だけど、そう言ってくれたことに救われた。幾分ほっとして、俺もぎこちなく笑う。
「そ、そうそう」
「誰でもそういう要素ってあるんじゃないかな。男の子って感じだよね。それより、無事定期入れを返せて良かった。なかったら帰る時、困るもんね」
「あの、落ちてたって、ドコに?」
 とりあえず「キモっ」と思われていなかったみたいで良かった。それを本心だと俺は信じよう。そそくさと定期入れをポケットに押し込みながら、おずおず尋ねる。
「校門を出て少ししたところ。他の人も見つけただろうに、みんな結構冷たいのね」
「げえ。そんなところに落としてたの?」
 じゃあ他にも見た奴はいるんじゃないだろうか。ぐは。致命傷。明日から冬休みで良かった。三学期が始まる頃には、みんなの記憶から抹消されていますように。
 あれ? ってことは……。
「わざわざ戻って来てくれたんですか」
 まじまじと見返すと、彼女は驚いたように目を見開いた。ただでさえ年上と思えないようなあどけない顔が、一層幼くなる。
「それはそうでしょ。持って帰るわけにいかないもん。これでも急いで戻って来たのよ。万が一、まだ残ってるかもって思って」
 そりゃあ当たり前かもしれないけど、彼女が見つけるまで放置されてたってことは、「面倒臭い」って見ぬ振りをする人がどれだけ多いかを語っていると思う。そりゃあ落とし主が俺だとわかったからって奴も中にはいるだろうが。
 当たり前のことを当たり前に出来ない奴だって多いはずなんだ。俺も含め。
 可愛いだけじゃなくて、良い人なんだな……。
「それじゃあ、使命も無事果たしたし。図書当番頑張ってね、長谷川くん」
 もう一度にこっと笑って踵を返しかけた彼女に、俺は慌てて声を上げた。
「ありがとうっ。あのっ……」
「うん?」
「あ、いや、その……」
 名前を聞いたら変だろうか。変だよな。変だよ。
「ありがとう、ございました」
「どういたしまして」
 そう微笑んで軽やかに図書室を出て行く姿を、俺はただ見送ることしか出来なかった。





「高遠弥生じゃない? それ」
 冬休みに入って三日目。
 我が家に来襲した平岡に終業式の日のことを話すと、平岡は少し思案顔でそう答えた。
「知ってるの?」
「腰の辺りまでさらっさらのストレートで、身長がお前の顎辺りで終わってて、三年生の童顔な女子だろ。多分高遠弥生じゃないの。今まで顔も知らなかったお前の方が不思議。可愛いって、男の間では結構有名らしい」
 そう言いながらコーラを飲む平岡の背後には、等身大ギャルゲキャラのポスターが貼ってある。先日まで俺の最愛の彼女だったエリナだ。
 だけど今は少し色あせて見える。
 平面の中のエリナは、動いてくれない。
「有名なのか」
 そうか……そうだよな。
 あれだけ可愛けりゃ、男の間で話題にならない方がおかしい。しかも学年超えて口端に上がるってことは、相当高嶺の花だと思っても良い。まして俺みたいに友達も平岡しかいないような男じゃあ尚更だ。
 せめて友達になれればいいなって思ったけど……。
 壁際にある鏡にちらっと視線を注ぎ、ため息。ぼさぼさの陰気くさい髪型。伸び気味の前髪で、目の辺りは見えない。コストパフォーマンスだけを追及した、安物の黒ブチ眼鏡。どんよりした目付き。
 何だか改めて話しかけたら、気持ち悪がられるような気がする。定期なんか届けるんじゃなかったとか思われそう。俺なんかに好意持たれたら、薄気味悪いですよね。そりゃあそう、そりゃあそうだよ、うん。全女子の常識だよ。
 俺が、平岡みたいなんだったらともかく。
 真向かいに座る、今時の俳優かよと突っ込みたくなるような甘い顔立ちにさらさらの茶髪、適度に締まった体つきを持つ男から目を逸らす。
「……何でもない。今の話は全部忘れてくれ」
 一瞬にして意気消沈し、もぞもぞとクッションを抱き締める。眼鏡がずり落ちた。
「せめて話せるようになりたいなって思ったけど……俺に話しかけられても、嬉しくないだろうし。気持ち悪がられるくらいだったら、このまま忘れてもらった方が……」
「お前、諦めるの早くねえ?」
 コーラの缶をローテーブルの上に置き、平岡が呆れ顔になった。
 その顔をぼんやりと見返して、こいつはいつからこんなに社交的になったんだっけなと思う。小学生の時は、もう少し大人しかったような気がした。そして俺も、ここまで内向的じゃなかったように思う。あの頃は、俺と平岡のレベルは今ほどかけ離れていなかった。だからこそ仲良くなったはずなんだけど……。
 今では、別次元の人間に見える。
「何かチャレンジしてから諦めろよ。話しかけるくらい、してみりゃいーのに」
「お前はもてるからそういうことが言えるんだよ。大体、高遠さんのことを何も知らないし」
「今まで全く興味のなかったお前が好意を持ったってだけでも、十分前進じゃん。このチャンスを逃す気か?」
 何のチャンス?
「よし。ここは一つ、『長谷川サトル改造プロジェクト』を立ち上げようじゃないか」
 嫌だ、そんな人造人間みたいなプロジェクト。
「恋愛の一つもした方が絶対いーって! 彼女だって欲しいだろ? 平面じゃない、実際触れる女」
「い、い、いらないよっ」
「嘘つけ。そんな奴、俺は男として認めない」
 お前に認められなくても、生物学が証明してくれるから別に良い。
「じゃあさあ、どうすればいーわけ? 何をすればいーの? 俺」
「知らん。自分で考えろ」
 プロジェクトを立ち上げたんじゃなかったのかっ? 無責任だ。断固として抗議する。
「とりあえず、女子から避けられないようにした方が良いんじゃね? 高遠弥生だって、女子から避けられてる奴に好かれても嬉しくないだろ。髪切って爽やかクンになるとかさ」
「俺、女子から避けられてる?」
「避けられてるだろ、思いっきり」
 そうか。薄々そんな気はしてたが、やはりそうだったか。
 なぜだ。俺の何がいかんのだ。なぜ一滴の油を水溜りに落とした時のように、女子は俺を避けるのだ。
 現実に気にかかる女の子が存在すると、途端にそんなことが気になりだした。
「髪切ったら爽やかになる?」
「少しはマシになるんじゃない? 髪型で人の印象って結構変わるもん。別に元の顔はそれほど悲惨なわけじゃないんだしさ。平凡だけど、悪い意味で非凡ってわけじゃないし。優しそうに見えなくもないし」
 褒めてないよね? つか、元の顔って……別に俺、顔を変形させてるわけじゃないんですが。髪と眼鏡で隠れてるだけで。
「お前、これでも読めば?」
 そう言って平岡は引き寄せた鞄からメンズファッション誌を取り出した。俺に差し出すのかと思いきや、自分でパラパラと捲り始める。
「お前、ファッション誌なんて読んでるの?」
「雑誌は結構手広いぞ、俺。男性ファッション誌とか青年誌はもちろん、総合エンタメ誌から経済誌やら女性ファッション誌やら果ては少女漫画やら。何でも来い。目に付いたものは片っ端から。結構読んでて面白いぞ」
 こいつの雑多な知識の供給源を垣間見た気がした。
「女性ファッション誌なんか読んでどうすんの? 何か役に立つの?」
「別に興味あるから読んでるだけだけど……そうだなあ。何かあげる時に役に立つかもなあ。あと、女性ファッション誌の方がエロいって言うかエグいことを書いてて面白い時もある」
 何っ? じゃあまあ、それは良いとしよう。
「少女漫画まで読んでんのかよ……」
「読んだことないの?」
「あるかよっ」
『いるわけねえじゃん』としか言えない、キラキラのサラサラの男が跳梁跋扈する世界に耐えられない。まともに読んだことはなくても、想像はつく。漫画のドラマ化とかは見たこともあるし、本屋で並ぶ表紙やら何らやだけでも十分ご馳走様。
「ふん。馬鹿め」
「何だよ」
「少女漫画的行動を応用しながら地でイケる奴は、モテるぞー? 加減しないとキザとか言われるだけだけど」
「嘘だあ。マジでやる奴なんか存在……」
「甘ーいっ」
 何だよっ。
「モテる奴は、人目のないところで歯の浮くセリフを言っている」
 ……。
「女子の話聞いてると面白いよ。『うわ、そんなことマジで言う奴いんの?』ってこと、うっとりしたように話すからな。みんな『そんなこと出来るかよ』って言いながら、陰でやるこたやってんだよ。それを本気でモテない奴が真に受ける」
 てことは、お前もそうってこと? 俺は真に受けてる『本気でモテない奴』ってこと?
 何だよ。隠れてそういうことやって女にモテてるのかよ。くそ、だったら俺だって……出来ねえっ! 絶対に出来ねえ! 顔が噴火するか、全身に寒イボを患うか、いずれにしても成立しないで終わることだけは確実だ!
「少女漫画が少女の夢――これ即ち、恋愛必勝マニュアルじゃねえか。モテたい男の必読書だぞ。出来ることと出来ないことはもちろんあるけど、そういう意味では女性誌の投稿なんかも大変に興味深いな、うん」
「だ、大体、そういう少女漫画の展開ってのは、女好みの男がやってナンボだろ? 俺がやったって気持ち悪がられるだけってことはないわけ?」
「ある」
 参考にならねえ。
 憮然と黙り込むと、平岡がけらけらと笑って読んでいた雑誌から顔を上げた。
「まあまあ。とりあえずイメチェンしようぜ。せっかくサトルがその気になってんだから」
「その気って、別に……ちょっと可愛いなって思うコが出来たってだけで」
「それが大事だろー? お前がこのままギャルゲ界の住人になったらと思うと、俺、心配で卒業も出来ねえもん」
 卒業まではまだたっぷり二年あるから、卒業しないのが正しい。
「ギャルゲを馬鹿にすんなよ? あれがどれほど精密な調査の元に作り上げられてい……」
「はいはい」
「もてない男が仮想恋愛を求めてハマるとか思ってるだろうっ? 違うぞ、そうじゃないぞ、あれは崇高な芸術の一つで……」
 何言っとんぞ、俺。
 ムキになる俺にひらひらと片手を振った平岡は、あっさりと言った。
「別にみんながみんなそうとは言ってないだろ。ただのゲームなんだから、ハマる奴くらい普通にいるさ。女だってやってるくらいなんだから」
 そうそう。
「だけど中には、仮想恋愛を求めてハマるもてない男がいるのも事実で、そんでもってお前の場合はそれだもん。お前みたいな奴がいるから、他のギャルゲファンが迷惑するんだよ」
「うるさいよっ」
 手加減と言う美しい言葉をお前は知らないのかっ?
 ぐるぐる唸りながら目をランランと光らせる俺に怯える様子もなく、平岡は先ほど床に放り出したメンズファッション誌を俺に投げた。
「いろいろ読んで勉強しとけ」
 つーか俺、高遠さんともう一度話してみたいなあって言っただけで!
 言っただけでそんな大改造が必要なんですかっ、俺っ?
「センスない眼鏡もやめれば? 別の眼鏡にするか、いっそコンタクトにするとかさ。あと、ドラマとか映画とかももっとたくさん見ろよ。少なくとも『女が喜ぶことをやって気持ち悪がられない男』はたくさんいるんだから。お前もそうなればいーだけじゃん」
 くそ。簡単に言いやがる。なれるものなら生まれた時からなってるよ。
「高遠弥生と友達になりたいんだろ? だったら最低限、女子に受け入れられることから始めるんだな」

 ***

 好きなコが出来たから雑誌や少女漫画を手当たり次第読む――なんて、聞いたことがない。
 聞いたことがないが。
「あ、長谷川様ですね。お待ちしておりました。コンタクト、出来てますよ」
 なぜか平岡の言いなりになっている俺。
 年明け早々、親に頼み込んで買ってもらったコンタクトレンズを受け取りに来た俺は、店員に指示されるままカウンターに腰を下ろした。
 眼鏡を外し、出来立てのコンタクトレンズを装着。
「痛くないですか?」
「あ、はい」
 目に激しい異物感。だけど痛くはない。
 慣れないものを装着したせいでぼやけていた視界は、次第に涙の量が調整されて輪郭を為していく。
 目の前に置かれた鏡を覗き込み、久々にぼやけていない自分の素顔を見た気がした。今までの俺は、眼鏡があるか、ぼやけた素顔かの二者択一だ。
 見慣れた眼鏡付きの顔より、幾分物足りないように思う。美容院に行って髪を切ってもらったせいもあるかもしれない。
「よくお似合いですよー」
 いや、似合うとか似合わないとかじゃなくて、地顔になっただけだから。
 どうコメントしたものかわからない店員の絶賛に見送られ、店を後にする。世界が異様にはっきり見えるようになった気がして、少し気持ちが悪かった。乗り物酔い的不快感。慣れの問題だろう。
 ――まずは見た目だよ、見た目。何はさておき、その陰気くさい見た目を整えろ。漫画やドラマでお前みたいなヒーローが出てくることは、皆無だ。
 皆無な俺。
 存在価値ゼロの烙印を押された気分。
 先日の平岡の言葉に改めて落胆しながら、俺は近隣で最も大きい本屋へ向かった。
 ――普通にしてりゃ避けられるはずないんだよ。小綺麗にしろ、まず。清潔感があれば、話しかけただけで気持ち悪がられることはないんだから。
 じゃあ俺って清潔感がなかったってこと? 風呂にも毎日入ってるのに?
 がっくりしつつ、本屋に足を踏み入れる。まだ冬休み中と言うこともあってか、結構な混雑だ。
 とりあえず、一般雑誌コーナーをぶらぶらする。わかりやすそうな総合エンタメ誌をとりあえず手に取ると、そのまま目に付いた少女漫画のコーナーに足を向けてみた。みたものの……並んでいる本の表紙効果か、その空間だけキラキラしてるように見える。無理だ。居心地が悪すぎる。
 結局ゲーム攻略本の棚に足を向けてしまった。最近エリナに構ってやる熱意が減ったから、彼女はご機嫌斜め気味だ。このままだと振られてしまう。そう思いながら攻略雑誌を手に取った俺は、何気なく顔を上げて目を見開いた。
 高遠さんだ。
 ちょうど本屋に入ってきたばかりのようで、何かを探すようにきょろっと辺りを見回している。
 こうして見ていると、とても高校三年生には見えなかった。良く言って高一。下手すりゃ中学生。何てツボなあどけなさなんだろう。
 ああいうコが現実に俺の彼女になってくれたら、毎日がもっと楽しく感じられるのかなー。
 ゲームじゃなくて、現実に両思いになるって、どんな感じなんだろう。
 恋に恋するオトメのような心持で、高遠さんを見つめる。彼女は俺の視線に気づくことなく、山積みの参考書に手を伸ばしていた。
 ああ、そうか。受験生なんだ。このシーズンと言えば、まさに受験真っ盛り。彼女にとっては、恋愛どころじゃないかもしれないな。
 まして……俺みたいな奴じゃあ一層。
 物悲しい気持ちになって雑誌を元に戻した俺は、最後にもう一度高遠さんの方を見て、動きを止めた。視線が合う。
「あ」
 そのまま言葉が出ない。
 高遠さんは一瞬きょとんとした顔で俺を見ていたものの、やがてじわじわと目を丸くした。「あれえ?」と小さな声で呟く。そして手にした参考書を平積みの中へ戻した。
「もしかして、ええっと、長谷川くん? だっけ?」
「は、はい」
「今日は眼鏡、どうしたのー?」
 驚きの表情のまま、高遠さんは小さな手をパーの形に開いて口元にあてた。そんな仕草がまた、ぐっと来るほどキュートだ。
「はは、あの、やめて」
「眼鏡やめたの? コンタクト?」
「はい」
「髪も随分切ったね。何か爽やかになった感じがするよ。うん、似合う似合う」
 うぉあー。髪切って良かったっ。似合うっ? 爽やかっ? 好きになっちゃうっっっ?
 距離を開けたまま会話をするのもナンなので、勝手にデレデレしたまま彼女の方へ足を向ける。たっぷりのマフラーで首元をぐるぐる巻きにして顎を埋めるような私服姿も、堪らなく保護欲をそそった。
「この前はありがとうございました」
 話したい、でも話すことが思いつかない。脳内マニュアルに『美少女との会話篇』が存在していない。
 完全ホワイトアウトの脳味噌から、辛うじてお礼の言葉を引っ張り出す。高遠さんは大きな目を優しく細め、顔を横に振った。
「ううん。全然、大したことしたわけじゃないし。今日は買い物? いつからコンタクトにしたの?」
「今日からです。ってゆーか、今さっき。出来たコンタクトを取りに来てて、ついでに本屋に」
「じゃあコンタクトにした長谷川くんを見たのは、あたしが初めてかな? いっちばーんっ」
 そう言って白い歯を覗かせた高遠さんは、「あっ」と思いついたように小さく口にした。それから慌てたように「あけましておめでとうございますっ」と頭を下げる。それにつられて、俺も慌てて頭を下げた。
「あけましておめでとうございます」
 今年は宜しくお願いしたいんです……と胸中だけで呟くが、口に出せずに終わる。
 しまった、このままでは会話が終わってしまう。いかん。せっかく千載一遇のチャンス、俺という存在を改めてその記憶に留めるチャンスだ。何か、何か、何か話題――!
「あの、参考書ですか?」
 ……つまんねえ男、俺って。
「ん? うん。この後に及んでるんだけどね。今から必死になっても、もうしょうがないって言うか。でも、足掻くだけ足掻いてみないと後悔しそうだし」
 無理矢理搾り出した俺のセリフに、高遠さんは少し照れ臭そうに笑った。
「合格したいし。やれることはやっといて、頑張って、それで駄目ならしょうがないんだけど……。ま、ジタバタですよ。ジタバタ」
 そこで高遠さんは、なぜかふっと目を伏せた。口元だけは笑みの形を作ったまま、小さく付け足す。
「浪人するわけには、いかないし」
「え?」
「ううん。別に。ほら、女の子で浪人ってかっこ悪いじゃない?」
 先ほどの妙に沈んだ感じのセリフと、その後の取って付けたような言い訳に違和感を覚えるが、何となく追及しにくくて俺は黙った。
 代わりに励ます言葉を探す。
 大変なんだろうな、受験って。
 再来年の今頃は俺も他人事じゃないんだろうけど、まだ先の話だから今ひとつ現実味はない。
「あの……」
「うん」
「頑張って下さいとしか言えないけど、でも俺、高遠さんが合格するよう祈ってます。その、本気で」
 こういう時、思う。平岡だったらどんなふうに励ますんだろう。俺に出来ることは、型通りの言葉をもつれる舌に乗せることくらいだ。
 だけど高遠さんは、そんな俺の言葉に、本当に嬉しそうな笑顔を見せてくれた。
「ありがとう。うん。頑張るね」





 足掻くだけ足掻く。
 そんな高遠さんの言葉を胸の中で噛み締めて、俺は残りの冬休みを平岡の言葉に忠実に、雑誌や漫画や映画に耽溺して過ごしていた。
 平岡がまた面白がって「これも読め」「あれも見ろ」と持って来るものだから、課題が山積みだ。
 馬鹿らしいとは思うけど、ドラマや映画や少女漫画ってのは、女性の憧れも事実混じっていたりするんだろうしな。こんなことでも、やらないよりやった方がマシなのかもしれない。それを読み取れなきゃ意味がないが。
 俺は、高遠さんともう一度話してみたい。出来れば友達になりたい。彼氏にしてくれとは言わないよ。控えめな望みじゃないか。
 そして少なくとも、「こんな奴に気に入られて最低」とか思われたくない。
 ならば俺は、女子に気持ち悪がられない人間にならなくてはいかんのだ。だけど普通に生きていてこのザマなんだから、どうしたら変われるのか考えなきゃ……高遠さんに話しかけるのさえ悪い気がする。改めて残念な奴だよ、俺って奴は。
 身だしなみってのは重要ポイントなんだろうけど、ファッションセンスなんかは制服姿じゃ大してわからないはず。
 とくれば、後は立ち居振る舞いやら、滲み出る嗜好やらってところだろう。んなもん急に変えられるわけじゃないが、しない方が良い言動、取らない方が良い態度と言うのはあるはずで。
「うおおおおお、寒っ。寒っ。寒っ」
 で、少女漫画を読みながら七転八倒する羽目になっている。
 結局自分で購入すると言うハードルを越えることは出来ず、平岡から親戚だか何だかの所持物を借り出した。却って良かったんだろう。好んで買っている人間の女が現実に存在しているってことなんだから。
 頑張れ、俺。もてるようになりたいとは言わない。せめて気持ち悪がられないよう女性心理を学ぶ取っ掛かりとして、鳥肌が立っても、寒気が走っても、俺は、俺は少女漫画を熟読し、恋愛ドラマに熟知するんだ……!
 我ながら何に燃えているのかよくわからないが、ともかくも俺はギャルゲに時間を割くのをやめて、恋愛映画や恋愛ドラマを見、少女漫画に没頭した。少女小説と言うのも一つのテだとは思うが、生憎と興味の持てない世界を文字で羅列されても想像出来る自信がないので却下だ。
 そうしてオトメの世界を味わうこと四日。
 早くも俺は、一つの結論に達していた。
 出来ねえ。
 俺にはなれねえ。
 これほど、女心を察していないと言いながら手のひらで転がすような真似を出来るはずがねえ。
 だけど、僅かながらわかったことがある。
 女はとにかく一途なのが好きなんだな。それは男もそうだろうが、これほど男の本能に反している要求もないと思う。可愛けりゃ目が行くんだよ! 出るトコが出てりゃ、触ってみたくなるんだよ! なのに一人だけで我慢し続けろと言うのが無茶だとは思わないかっ?
 あと『優しいけど、ちょっと× × 』とかな。
 優しいけど、ちょっと意地悪。優しいけど、ちょっと冷たい。優しいけど、ちょっと強引。優しいけど、ちょっとエッチ。優しいけど、ちょっと鈍感。優しいけど、ちょっとワル。優しいけど……。
 ちょっとって何だ、ちょっとって! そんな加減を教えられずに習得出来る男が実在するなら、俺はそいつを崇拝する。
 無理だ。三学期の始まりと共に爽やかクンになるなんて、不可能だ。「あいつデビュー?」とか笑われんのがオチだ! なぜだ、俺は単に高遠さんに話しかけたいだけなのに、なぜ人知れずにこんな訓練をせねばならんのだ!
 自分でも少々わからなくなっていると、勉強机の上の携帯がメールの着信を告げた。着信ランプの色で、未だやめられずに続いているエリナからのメールだとわかる。
『最近冷たいね。あたしに飽きちゃったのかな。他に好きな人でも出来たの?』
 文面に視線を落とすと、何がしか虚しさを覚えた。ベッドに携帯を放り出す。
 実在しない女からの求愛のメール。どれほど愛されていると勘違いさせてくれようと、そんな人間はこの世に存在していない。発信元を辿ればゲームのスタッフがいるだけだ。いや、それさえもいなくて、ただプログラムだけが存在するんだろう。
 何だよ。今更、こんな虚しさを感じるなんて。
 平岡の言う通りだよ。
 ゲームだと割り切ってる奴は、そんなこと考えもしないんだろう。だって最初からゲームの一環なんだから。
 だけど俺の場合は、平岡の指摘通り、多分ちょっと違った。
 人付き合いが苦手で、恋愛なんかもってのほかで、だけど多分それは寂しくて、勘違いでもそんな気分になりたかった。だから今、こうして虚しさを覚える。
 あの人がいい、と思ってしまったから。
 平岡にはきっと、こんな気持ちはわからないんだろうな……。

 ***

 新学期が始まった。平岡と一緒に登校した学校は、正月気分を引き摺ったような浮かれた空気が漂っている。
「おはよーっ」
「あけおめーっ」
 そんな挨拶が飛び交う中、俺は全身を激しい緊張に襲われていた。
 髪を切っただけならともかく、眼鏡をコンタクトに変えたりして、しかも新学期スタート。いかにも「新学期から俺デビュー」みたいじゃないか。いや、みたいじゃなくて、そのものなんだけど。
 必要以上におどおどする俺に、隣の平岡が苦笑を浮かべる。
「平気だって! 似合ってるって! 絶対好感度アップだから、まじで。何をそんなにびびってるんだよ」
「だって」
「ぐっと明るい雰囲気になってんのに、お前が表情で陰気ムードを盛り上げてどうすんだよ馬鹿。なあ、慣れたらさ、次は茶髪にしようぜ。少しだけ」
 通りすがりに声をかけてくる奴に挨拶を返しながら、平岡がバシバシと俺の肩を叩く。
 くぅ、どうせ小心者さっ。眼鏡をコンタクトに変えるだけで周りの反応が気になる小物なのさっ。ああ、笑ってくれ。高らかに笑ってくれよ!
 教室まで来ると、中からまずは平岡に「おはよー」「久しぶりー」「今年もよろしくねー」などの定番挨拶が押し寄せる。平岡もそれに「おーう。久しぶりー」「はよっす」「あけおめー」などと挨拶を返し、中へ入っていく。
 そして俺がおずおずとそれに続いて行くと、一瞬教室が静まり返った。
 ……な、何でだよおおおおおおおう。やめてくれよおおおおお。いいんだよ、いつも通り、俺なんか平岡の影か空気でいいんだよ!
「は、長谷川くん?」
 俺とろくに口を利いたことがない連中だけに、どう突っ込んだものか迷っているんだろう。これで俺が素直にクラスの省かれ者なら、コケにするなり、笑いの種にするなりの反応もあったんだろうが、何せ俺には平岡がいる。平岡に嫌われたくない連中は、俺を下手にいじれない。
「お、はよ……」
 蚊の鳴くような声で細々と挨拶をする。平岡が、またもバシバシと俺の肩を叩いた。
「似合うだろっ? コンタクトにしろよって俺が言ったんだけどさっ、結構雰囲気変わったよなっ」
「平岡くんが勧めたの? いい感じになったよね」
「う、うん。そうだね。何か明るくなった感じ」
「いいじゃん。うん、良くなったよね、何か」
 平岡の言葉に助けられ、何人かがぎこちなくコメントする。それに曖昧に笑って見せると、クラスの連中も何人かほっとしたように笑った。
「自分の気分が変わるんじゃない? コンタクト、もう慣れた?」
 いつになく気安く話しかけられて、俺は軽く舞い上がった。
「う、うん。少し。最初は気持ち悪かったけど」
「だよねー。あたしも最初は変な感じしてさー」
「ソフト? ハード?」
「ソ、ソフト」
「いーなあ。俺、ソフト駄目って眼鏡屋のおっちゃんに言われてさあ」
「あれって何で? 涙の量がどうとかって聞くけど」
 俺を話題の中心として、かつてないほどわき合い合いと周囲が言葉を交わしている。
 それは味わったことのない感動で、俺はドアの前に突っ立ったままでいた。ここから動いたら、あっと言う間に俺の存在が元に戻ってしまう気がした。
 人の関心を集めるのは、こんなに心地良いものなのか。
 いろんな人が気兼ねなく交わす話題の中にいるのは、これほど居心地が良いものなんだ。
「どこで買ったの?」
「え、と、駅前にある、『眼鏡のヨシダ』、って、ちっちゃい店、で」
 慣れないから途切れ途切れになりながら答える俺に、話しかけてきた女子たちが「あたしもコンタクト、そろそろ買おうかなー」「後ろだと黒板キツいって言ってたもんね」などと話を続ける。それに男子が「馬鹿、女はぜってー眼鏡だって!」などと茶々を入れ、その場に笑いが広がった。
 ……俺。
 変われるのかな?
 とりあえずやったことは髪の毛を切ったことと、コンタクトにしたことだけだけど。
 それだけのことが、こうして話題の一つになる。
 平岡がいてくれるおかげで、馬鹿にされることもなく、受け入れられ始めてる。
 嬉しいと感じ、変われるような気持ちになり、そして反面、心のどこかが微かに痛んでいることには気がつかない振りをした。
 ――俺の力じゃない。平岡の力だ。平岡がいなきゃ、こんなふうには受け入れてもらえなかったに決まっているんだから。
 心の片隅でなけなしのプライドが小さく呟く。
 その声に俺は、意識的に耳を塞いだ。





 図書室は、相変わらず静かだ。
 新学期が始まって二週間が経過したその日、俺は先生に頼まれて図書室で書庫整理をしていた。毎日誰かが代わる代わる頼まれているようだ。
 言われた通りに十七時まで出来るところだけをやると、俺は図書室を施錠した。鍵を返しがてら報告をしに職員室へ寄ってから、校舎を後にする。
 一月も中旬となれば、まだまだ寒さは続きそうだ。真っ白な息を吐き出して、濃紺の空を仰ぐ。マフラーを巻き直すと、俺はぶるっと体を震わせた。
 寒いなあ。心の中で呟きながら、高遠さんは何をしてるか考えた。
 追い込みだからな。予備校かな。それとも家で受験勉強? 彼女はどこの大学を受験するんだろう。頭良さそうな感じだなあ。難しいところかな。
「はあっ……」
 もう一度話したい。
 だけど来月になれば、三年生はほとんど学校に来なくなる。
 いくらちょっとはかっこ良くなろうと努力したって、話せなきゃ……会えなきゃ仕方がないじゃないか。
 せめて卒業しちゃう前に、何とか連絡先くらい聞けるようになりたいけど、とにかく時間のなさが致命的だよなあ。
 人の姿のない暗い道を駅の方へとぼとぼと歩く。駅へ続く大きな通りに出ると、道沿いに飲食店などが立ち並ぶようになり、人の姿も急に増えた。先日俺が寄った本屋のあるデパートの前を通り過ぎると、駅前はロータリーと噴水のある小さな広場のようになっている。
 そこまで来て、俺は足を止めた。
 高遠さん?
 噴水を囲うため池の壁に寄り掛かるように、高遠さんが立っている。
 信じられないような気持ちで、俺は高遠さんの姿を見つめた。うわ、嘘。本当に? こんな偶然って、もう運命なんじゃ?
 話しかけても良いかな? 良いよな。この前は向こうから声をかけてくれたんだ。それに、そうだよ、顔見知りと言ってもおかしくないのに、何も言わずに通り過ぎるのは変だよ、うん。
 自分に言い聞かせながら近づいていくと、やがて俺は彼女が一人ではないことに気がついた。並ぶように噴水に背中を預けているのは、すらっと背の高い男だ。
 それを見て、足が止まる。
 手のひらに汗がじわっと滲む。
 心臓が、今し方の高鳴りとは種類の違う嫌な音を立てた。
 よく知っている男だった。
「平岡……」
 彼女と親しげに言葉を交わしているのは、確かに平岡だった。高遠さんが、無邪気さの覗く気を許した笑顔で平岡を見上げる。じゃれるように平岡の腕を軽く叩く。
 それを呆然と眺め、心の中で呟いた。
 何この王道的状況。
 親友と、初めて惚れた女の子が親しげにしている姿を偶然見る羽目になっている俺。
 どういうことなんだ? どう考えても、昨日今日知り合った空気感じゃない。もっとずっと親しい感じだ。
 平岡が何か言い、高遠さんがそれに答える。その、甘えたような拗ねた顔つきを見て、胸に痛みが走った。
 ……ともすれば、付き合ってるんじゃないかと思いたくなるような。
 何でだ? 前から知り合いだったんなら、どうして平岡は俺にそう言わなかったんだ?
 簡単じゃないか。あの時――俺に彼女の名前を教えてくれたあの時に、一言「俺、知ってるよ」と付け足せば良い話だ。
 なのにどうしてそれをしなかったんだ?
 立ち尽くしてぼうっと二人を眺める俺に気づく様子もなく、高遠さんが噴水から体を起こす。
 それを眺めていて、一つ気づいたことがあった。
 俺が話した彼女の外見的特徴から、平岡がするっと名前を口にしたのは、知り合いだったからなんだ。だからすぐに彼女のことだとわかったに違いない。
 小さな体を弾ませるようにして、高遠さんが平岡から離れる。ばいばいと手を振る姿も可愛らしく、それに優しい表情で応じる平岡がひどく癪に障った。
 自分でも驚くほどの動揺。動揺? いや、それだけじゃない。何だ? この真っ黒い靄のような感情は。嫉妬? 嫉妬なんて出来た立場かよ。
 何にそんなに憤っているのかわからないが、制御しきれない感情が込み上げていた。
 何だよ……何で言ってくれなかったんだよ。知り合いだって素振りなんか、微塵も見せなかった癖に……!
 苦々しく胸中で吐き捨てる。立ち尽くすしか出来ない俺に、やがて平岡が気がついた。
 何気なくこちらへ顔を向け、一瞬虚を突かれたような間抜けな表情を見せた後、じわじわと目が見開かれていく。
 そこまで見て取って、俺はようやく足を動かした。近づいていく俺に、平岡はぎこちなく笑った。
「サトル……お前、今頃どうしてこんなとこ……」
「図書委員の仕事があってね。まさか俺に見られるとは思わなかった? 残念」
 棘だらけの言葉に、平岡が作り笑いを飲み込む。硬い表情で俺を見返した。
「言わなくてごめん。やよ……高遠は」
「面白がってたのか?」
 高遠さんを弥生と言い掛けてやめたことが、一層俺の神経を逆なでする。切り込むようにきつく遮った俺に、平岡は意味がわからなかったようだ。
「え?」
「俺みたいなしょぼい奴がさ、あんな可愛いコにのぼせ上がって、馬鹿みたいだっただろうな。からかって面白がってたんだろ」
 何でこんなに感情的になってんだろう、俺。理屈が飛びすぎている自覚はある。具体的に何を見たわけでもないじゃないか。ただ、親密そうな空気で話す二人を見ただけ。それだって、俺が勝手に親密そうだと思ったに過ぎず、勘違いの可能性は否定出来ない。
 なのに、言いようのない衝動的な苛立ちを抑えきれない。
「お前、何言って」
「どうせ俺はお前みたいにはなれないんだよっ!」
 陳腐過ぎるセリフが口から飛び出した。けれど、平岡の顔色を変えるには十分だったようだ。強張った顔で、平岡が俺を見返している。
「お前の適当な言葉を真に受けてさ。髪切ってみたり、コンタクトにしてみたり、映画やドラマ見てみたり、少女漫画読んでみたり。馬鹿だよな。さぞ滑稽だっただろ。そんなことしたってかっこ良くなれるわけじゃあるまいし。何も知らないで言いなりになってる俺、面白かった?」
 平岡が、強張った顔に怒気を孕ませた。端正な顔の中、鋭い瞳が俺を睨みつける。
「本気で言ってんのかよ、それ。本気で、俺がお前をコケにしてからかってただけだと思ってんのかよ」
「思ってるよ!」
 論点がどんどんずれていっている。我ながら、すっかり高遠さんのこととは無関係のことを責め始めているような気がしなくもない。
 だけど自分でも収拾のつかない感情は暴走し、口から取り返しのつかない言葉を撒き散らす。
「恋愛しろって? 出来ると思うのか? お前がいつも隣にいて? 出来るわけないじゃないか。俺が好きになったって、相手の視線はみんなお前に持ってかれんだよ。だったら関係ないって開き直る以外、俺にどうしろって言うんだよっ」
 人目も関係なく怒鳴る俺に、ちらほら野次馬が足を止め始める。
「お前が俺に構うから、俺はいつも惨めだったよっ。放っといてくれよ!」
「わかったよっ!」
 今までほとんど言い返さなかった平岡が、腹の底から吐き出したような声で力一杯怒鳴った。
「お前が俺をどう思ってたのかはよくわかった。知らねえよ、お前なんか。望み通り放っといてやるよっ」
 おお、と周囲の野次馬が小さく応じた。うるさい、野次馬。関係ないんだから黙ってろ。
「ついでに俺も教えてやるよ。俺はなあ」
 俺みたいにヒステリックではないが、平岡も十分感情的になっているようだ。声が微かに怒りで震えていた。
 そのまま、射抜くような視線を逸らさずに言葉を吐き出す。
「俺は、お前のそういう卑屈なところが、ずっと大っ嫌いだったよっ!」
 平岡の言葉が、俺の心臓を貫く。
 卑屈……ああ、そうだよ。卑屈だよ。俺はお前と違って卑屈なんだ。
 唇を噛み締め、無言のまま踵を返した。遠巻きにしていた野次馬を押しのけて、駅の方へ早足で向かう。
 今、わかった。どうしてこんなに感情的になったのか。
 やけに似合いに見えた二人の姿を見て、平岡に感じ続けてきたコンプレックスが爆発したんだ。
 何であいつが俺に構うのかわからない、俺なんて面白くも何ともない奴なのに、高遠さんが俺を見てくれるはずがない、平岡と知り合いなら尚更だ、俺が平岡のようだったら、俺なんかに好かれたって、俺なんか、俺なんか、俺なんか――……。
 惨めだった。
 俺は、最低だ。

 ***

 ゴロンと仰向けに転がったベッドの上で、顔を微かに傾けると、壁のエリナが微笑んでいる。
 思えば、前は前で幸福だったのかもしれない。
 誰にも相手にされず、俺も、逃げ込んでるとは言え二次元だけで楽しんでるつもりになれてて。
 ゲームのキャラクター相手に恋愛気分を味わって。
 平岡が俺のバリケードみたいになっていたから、周囲の目を気にせずに自分の好きな世界にだけ耽溺していても、いじめられる心配はなかった。代わりに誰も近付いては来なかったけど、俺はそれに慣れていて、ある意味整合性がとれている状態だったと言えるのかもしれない。
 だけど、高遠さんとはそれじゃあ嫌だと思ってしまった。
 もっと近付きたいと思ってしまった。
 それが恋愛と呼べるものなのかは、実は俺にもよくわからない。恋愛と言えるほど、彼女のことを知っているわけじゃない。だからそう呼ぶにはきっとまだ早いんだろう。
 でも、もっと知りたいと思い、話がしたいと思ってしまったことは、その第一歩とだけは言えると思う。
 ま、でもそれももう終わりだな。彼女が平岡のことを好きでも驚かない。あの様子を見る限りじゃ、ただの友達とは思いにくかった。
 さっきの出来事を思い出して、俺はゴロンと寝返りを打った。エリナが俺の視界から外れる。
 平岡に言ったのは、きっと俺の本心でもあるんだろう。コンプレックス――劣等感と言う奴だ。あいつに比べて劣っている、と言う意識。
 あいつが俺に構う理由なんてない、高遠さんと知り合いだと言うことを隠していた理由がわからない。だから理由付けをすると、あいつにとって俺は面白い暇つぶしで、だから知り合いだと言うことも敢えて言わずにからかっていた。それが一番筋が通る。
 でも本当に? あいつってそんな奴だったか? 残る違和感は、この筋書きに沿わないキャスティングだ。平岡はそんな奴じゃないと、俺が一番良く知っている。
 俺は何か大きな間違いをしているんじゃないか。
 俺は、言ってはいけないことを言ってしまったんじゃないだろうか。
 後悔したところで、言ってしまった言葉はなかったことには出来ない。
 ただ一つだけはっきしりしているのは、俺は、たった一人の友達を失ってしまったんだと言うことだ。



 5

 週末は何もする気になれず、ただひたすらベッドの中でごろごろして過ごしてしまった。
 ゲームもしないで過ごした休日は、久しぶりだった気がする。
 月曜日が来て再び始まった一週間を、俺はいつもより一層重い気分で過ごした。
 平岡はもちろん俺の顔なんて見ようともしない。新学期になってから口を利くようになった奴も何人かいるけど、見知らぬ街にいるような頼りない気持ちになる。
 やっと金曜日を迎えてほっとし、来週もまたこれかと思うと、どっと疲れた。ともかくも一週間の苦行はこれで終わったんだ。さっさと帰ろう。
 校舎を出ると、意味もなくマフラーをぐるぐると首に巻きつけながら、深くため息。
 平岡と口を利かない日が続くのが、結構堪えるんだ。今までにないことだったから。来週もまたこんなのが続くのかなあ。再来週も、この先も。
 いや、だけど黙ってた平岡だって悪くないか? 言えば良かったんだよ、言えば。だけどあいつ、煽るようなこと言ってさ。どういうつもりだったのか全然わかんねえよ。
 吐き出したため息に埋没しそうな気分になりながら、顔を上げる。と、校門のところで小さな人影が動いた。門に寄りかかっていたらしい。俺を見るや、小柄な体を弾ませて両手を振る。
「おーいっ。長谷川くんっ」
「高遠さん」
 先日の一件があるから、鼓動が速くなるのは一概に嬉しさだけとは言えなかった。一抹の痛み。多分彼女にとって俺は圏外なんだろうという予感。
「こんにちは。誰か、待ってるんですか」
 平岡?
 マフラー越しにもそもそと尋ねながら足を止める。高遠さんは、こくこくと忙しく顔を縦に振った。
「長谷川くんを待ってたの」
「へ? お、俺?」
 なぜ俺。
 幻聴かと疑わずにいられず、まじまじと見返す。高遠さんはそんな俺ににっと白い歯を覗かせて、「ちょっと話したいことがあって。駅まで一緒に行こ」と促した。
 え、ええ? 本当に? 俺? 俺で良いんですか?
 別に付き合ってくれと言われたわけじゃないが、俺にとっては女の子と一緒に駅まで帰るだけでも大事件だ。ましてそれが超タイプの美少女と来ると、今後あるかないかと言うほどの俺史上に残る出来事だ。
「は、話したいこと?」
「うん」
 ぎこちなく並んで歩き出しながら、言葉を押し出す。これだけで既に喉がからっからだ。声も干からびていた気がするが、俺の言葉は無事彼女の耳に届いたらしかった。
「長谷川くんって、シンの友達だったんだね」
 シン……。
「平岡真一?」
 掠れた声で問い返すと、高遠さんは屈託なく「うん」と頷いた。瞬きに合わせて長い睫毛が上下するのが見える。
「平岡と、な、仲が良いんです、ね」
「あたし?」
「だって、シンなんて呼んでる人、他にはいないと思うし」
 聞きたくないのに、なぜ確認してしまうのか。これも自虐の一種なんだろうか。
 高遠さんは、何がおかしかったのか、俺の言葉に吹き出した。それから「やれやれだなあ」とぼやく。
「やれやれ?」
「シンちゃんってば、長谷川くんにも言ってないのか。……ねえ。長谷川くんって下の名前、サトルって読むんだね」
「は? ああ、うん。そうだけど、何で?」
「『学』って書いて『サトル』って読むだなんて初めて知った。あたし、長谷川くんの下の名前って『マナブ』って読むんだとばっかり思っちゃったから、気がつかなかった。シンの幼馴染のサトルくんだったなんて」
「え? どういうこと?」
 半ば独り言のような彼女の言葉に付いていけず、眉根を寄せる。俺の顔を見て、高遠さんはいたずらっぽく舌を覗かせた。
「改めまして、真一の姉です」
「……………………ふぁ?」
 何だ今の声。
 言っている意味がさっぱりわからずに変な声が出た。
「お姉ちゃん?」
「そう。正真正銘、血の繋がった実の姉」
「えっ? いやだって、あいつにお姉さんなんて」
「いたんです。実は」
  姉? 姉上? シスター? 誰が? 高遠さんが? 誰の? 平岡の? いや、苗字違うし、普通に。小学校から見てるけど、あいつに姉なんてあの字もねえし。何? 何の話?
 うまいストーリーを頭の中で組み立てられずにいる俺を見て取ったのか、高遠さんがくりくりした目で俺をじっと見上げて口を開いた。
「親が離婚してるって、シンから聞いたことない?」
「ないっす」
「幼稚園の時にね、離婚して。まあ、あたしがお母さんに引き取られて、シンがお父さんに引き取られたんだけど」
 幼稚園ってことは、俺と平岡はまだ会ってない。小学校三年生の時に平岡が転入して来て、それからの付き合いだ。
「で、でも俺、小学校の時とかしょっちゅう平岡の家に遊びに行ってたけど、普通にお母さん、いましたよ?」
「うん。シンが小学校に入る頃には、お父さんは再婚してたから。それから家を買って、今住んでるところに引っ越したらしいんだけど」
 初めて聞く話に、返す言葉が見つからなかった。黙ったまま、転入して来た当時の平岡を思い出す。
 容姿が整ってるのは今と同じだけど、どこか沈んだ、寂しげな目付きをしていた子供の姿。
「言えなかったんじゃないかなあ。ほら、シンって転入した頃、いじめられてたでしょ? 『疫病神』とか言われてたんだって? 離婚・再婚なんて話したら一層いじめのネタになっちゃうって思ったんじゃないかなあ」
「あ、や、いじめって言うか……」
 口篭る俺に、高遠さんは遠い空を仰いで深く息をついた。
「あたしも後から聞いたんだけどね。当時はほら、あたしもシンも子供だったから、今みたいに自力で連絡取り合って会うようなことも出来なかったし」
 ――同じクラス、だよね? 家、こっちの方なの?
 平岡が転入して来て数日後、学校帰りにたまたま方向が同じだった俺に話しかけた平岡のおずおずとした声が耳に蘇る。
 今の溌剌とした姿からは考えにくい、控えめで窺うような声だった。
 それまでクラスの誰とも口を利いてなかったから、最初の挨拶以来初めて平岡の声を聞いたような印象を受けたのを覚えている。
「たまたま、クラスメートに不幸が続いてたんですよ」
 当時を思い返しながら、歯切れ悪く口を開く。高遠さんが黙って俺を見上げるのを感じた。
「親が交通事故に遭ったとか、大怪我して入院したとか、何かそう言うのがたまたま続いてたんですよね。平岡が転入して来る直前から始まって、それから二、三件続いたから……」
『疫病神』が転入して来た、なんて噂になっちゃったんだよな。誰が最初に言い出したんだか知らないけど。
 小学生の言うことだから他愛ない迷信交じりのようなもので、ってゆーか思いつきに過ぎない噂だったんだけど、それが蔓延して、平岡は転入早々孤立する羽目になった。今思えば、あいつの容姿がいやに整ってることも拍車をかけてたのかもしれない。女の子なんかは変に意識し始めたりする頃合だろうし。
「他愛ない噂に過ぎなかったんだと思うんだけど」
「だけどシンにとっては、新しく入った学校で誰とも友達になれないって言う現実しかなかったのよ」
 あー、まあ、それはそうか。そんな噂があるなんて、当時の本人は知りようもなかっただろう。
「家庭がいろいろ変わって落ち込んでた時期でもあるし、凄く悩んでたみたいよ。俺がいけないのかなって。それで何人かに頑張って話しかけてみたけど全然駄目で、サトルくんに声をかけたのは、最後の賭けだったみたい」
「最後の賭け?」
「これで友達になれなかったら、もう友達なんかいらないって」
 あの一言がそんな大きな決意の表れだったとは。
 じゃあ、もしも俺があの時、噂を真に受けてみんなのように遠巻きにしてたら、今の平岡はいなかったんだろうか。
 いや、それより……あの平岡がそんなふうに考えるほど、あの時の俺たちは平岡を追い詰めてたんだ……。
「でもサトルくんが気持ち良く笑ってくれて、一緒に帰るようになったり、遊ぶようになったりして。あの頃、しばらくはサトルくんだけが友達だったって聞いてる」
「あ、いやー、それはその、当時も俺、あんまり友達が多い方じゃなかったし。噂とかも、何かよくわかんなかったって言うか」
 そう言やあの時、何人かにこっそり聞かれたな。「何も起こらない?」って。
 あほな俺は何聞かれてんのかわからず「何もないよ」って普通に答えてたけど、今思えば「『疫病神』と仲良くしてて平気?」って聞かれてたんだ。つまりクラスメートは、ある意味俺を毒見的な役割に見立ててた、と。
 ただ、当たり前だが疫病神でも何でもない平岡と一緒にいて何かが起こるはずもなく、様子を見ていたクラスメートも次第に平岡と友達になりたがった。頭の回転も良くて機転が利き、人に親切で見た目も申し分ない平岡だ。噂の効果が薄まってしまえば、人気者の素質を備えた転入生の姿だけが残った。気づけば誰もが、最初に敬遠してたことなど忘れたかのように平岡の周囲に集まるようになった。
 俺が何かを助けたわけじゃない。全部平岡の力だ。平岡が、自分の力で脱出したんだと思う。
「俺なんて、何の役にも立ってないですよ」
 そう言うと、高遠さんは緩やかに顔を横に振った。
「違うよ。サトルくんが仲良くしてくれたから、あの子、吹っ切れたの。俺にはサトルがいるから大丈夫って。どんなシンを見てもサトルくんがいつも変わらない態度でいてくれるから、誰とでも、どんな場所でも自分を出せるようになったのよ。……誰に否定されたとしても、サトルだけはいなくならないからって」
 心臓を抉るような言葉だった。
「シンはサトルくんに救われたんじゃないかなあなんて、外野は勝手に想像してます」
「や、そんなご大層なものでは」
「でもね」
 コケティッシュな仕草で首を傾げて見せた高遠さんは、もごもご言う俺に目を細めて続けた。
「そんな理由もあるだろうけど、本当はあの子、サトルくんのことが好きなのよね、単に」
「え?」
 直球。ストレート過ぎ。恥ずかしい。女の子って何でこういうこと平気で言えるんだろう。
 でも本音を言えば嬉しい。嬉しくて、嬉しいから、自己嫌悪が深まる。
「あの子と話してると、サトルがどうしたこうしたって言ってる確率が圧倒的に高いんだもん。楽しいみたい。それに、他人のことをあれこれ陰口叩いたりしないから、一緒にいて気が休まるんだって。親が揉めてるのを見てるでしょ? だからそういう陰湿なの、大っ嫌いなのよね」
 陰口言いたくなるほど他人のことを知らないんですよ。
「サトルくんの名前だけは昔から聞いてたけど、何せ会う機会がなかったでしょ。この前シンと会って、長谷川くんのことだってわかってびっくりしちゃった。これからもシンのこと、よろしくね」
 高遠さんの顔を直視出来ず、俺は俯いていた。何たる居心地の悪さ。
 平岡に対して俺が先日投げつけた暴言が脳裏に蘇る。こんな俺が今『平岡の姉さん』に返せる言葉があるだろうか。
 言葉の出ない俺に対して、高遠さんもしばらく無言だった。大通りに出て、駅が近付いてくる。周囲に人の姿も増え、前方にこの前の噴水が見えてきた。
 高遠さんが、ぽつんと口を開いた。
「シン、最近元気ないみたいなのよね。サトルくん、何か知ってる?」
 原因は、俺……?
 唇をきつく噛んで顔を上げる。
「俺、学校戻って良いですか」
「へっ?」
「あ、あの、忘れ物、しちゃって」
 回答も何もせずの唐突な申告に、彼女は一瞬ぽかんとした。俺を少しの間見つめていたが、やがて柔らかく目を細める。平岡から何か聞いてるんだろうか。わからないけど、俺の言葉に言葉以上の意味があることを察してくれたように見えた。
「そう? わかった。じゃあ、あたしは帰るね」
 本気かよ、俺。せっかく向こうから与えてくれたチャンスなのに。今なら「せっかくだから、マックでも」とか頑張れば言えるかもしれないのに。
 でも……。
「はい。すみません。受験、頑張って下さい」
 ぺこりと頭を下げて、踵を返す。
 学校へ戻る為に走り出しかけた俺の背中に、高遠さんのエールが聞こえた。
「今度三人でごはんでも食べようね」
『三人で』。
 もの悲しくなるはずのその言葉は、今の俺にはとても幸福な約束のように感じられた。
「はい! 楽しみにしてます」
 本当に、そうなれば良い。

 ***

 学校に戻ると、部活のかけ声なんかが遠く聞こえてくる。校舎にもまだ人の気配が感じられた。
 念の為、平岡の下駄箱を覗く。俺が教室を出る時にはまだ全然帰る様子がなかったけど、もしもう帰った後だったら家まで行ってみよう。電話でも良い。今日中に一言謝らなければ気が済まない。
 蓋を開けた下駄箱に見慣れたスニーカーがそこに収まっているのを見て、俺は小さく吐息をついた。まだ残っているようだ。良かった。
 そう思ってから、急に緊張した。
 思えば、平岡と喧嘩をしたのは初めてだ。俺はずっと自分に自信がない奴だったから、ぶつかるほど自己主張をしたことはなかったし、平岡は不思議と腹の立つことをしない奴だった。
 そして平岡と喧嘩をしたことがないと言うことは、他に友達のいない俺にとって『喧嘩の経験がない』ということとイコールでもある。
 こんな俺が、上手く仲直りなんて出来るんだろうか。それも……あれほどの信頼を一方的に踏み躙って。
 そこまで考えて、俺はぶるぶると顔を横に振った。いかんいかん、それがいかんのだ。卑屈になるな、俺。明るく陽気に、レッツ「ごめん」。……いや、へらへらして言ったところで逆効果としか思えない。
 感情に駆られてここまで駆けてきたは良いものの、自分の態度を決めかねてうだうだ考えながら、教室へ向かう。廊下にはほとんど人の姿はなかった。ホームルームが終わってから二十分ほど経過してるから、部活のない奴なんかは帰ったんだろう。
 先ほど出てきたばかりの教室が見えてくると、俺の緊張のボルテージが高まった。告白でも控えてるかのようだ。
 なぜか手のひらにじんわりと滲み出る汗を制服のズボンに擦りつけながら、開けっ放しのドアの前に立つ。中を覗くと、想像に反して誰の姿もなかった。あれ? 拍子抜け。
「平岡?」
 小さな声で呼んでみる。けど、教壇の後ろに隠れてるんでもなけりゃ、どう見てもいない。隠れる理由ももちろんない。
 中に入ると、平岡の席にはまだ鞄が残っているのが見えた。学校にいるのは確かなようだ。帰るには必ず鞄を取りに戻るだろうから、ここで待つことにする。
 手持ち無沙汰なので、窓際の奴の机に腰を下ろした。いつかと同じ濃紺の空に星が瞬き始めている。
 田舎の星は瞬かないんだぞ、と子供の声が聞こえた。瞬きは空気の汚れに原因があるから、星が瞬くのは汚染された都会の空だけなんだと。
 得意げな幼い平岡の笑顔が記憶に蘇る。
 理科の授業を聞く限り、実際にはそんなことないんだろうけど、あいつが読んでた児童小説か何かにそう書いてあったんだよな、確か。
 考えてみれば、ガキの頃から何でも観たり読んだり、好奇心の強い奴だった。一つのものにとことんハマる俺とは違って、いろんなことに広く興味を持つ奴なんだよな。
 ――誰に否定されたとしても、サトルだけはいなくならないからって。
 あいつと俺は、お互い違う方向に成長して行ったんだな、きっと。
 高遠さんの言葉通りなら、平岡は俺のことを『そのままの自分を受け入れてくれる存在』と信頼して、それを拠り所として外へ外へと社交的になっていった。
 だけど俺はどんどん外へ輪を広げていく平岡を見て、ついていけない自分を感じてますます内向的になり、挙句「どうして平岡は未だに俺とつるむんだろう」と疑問に思うほど卑屈になった。
 あいつの中では俺と平岡の関係は変わっていなかったのに、俺が勝手に変わったと思い込んでいたんだ。
 馬鹿だよなあ。本当。……本当に、サイアクだよなあ。
 謝れば修復出来るんだろうか。自信がない。だけど修復出来ると信じたい。
 自業自得、わかってるよ。だけど……そんなふうに信頼してくれてるなんて、わからなかったんだ。
 取り留めのないことを考えながら、平岡が戻るのを待つ。時折人が教室へ戻っては来たが平岡は姿を見せず、窓の外はどんどん日が沈んでいった。濃紺だった空は、いつしか夜の闇に染まっている。冬の夜は早い。
 電話してみようか。まさか鞄を置いたまま帰ったなんてことはないだろうけど。
 そう躊躇い始めた時、平岡が姿を現した。
「平岡」
 口の中で小さく呟く。平岡は本当に聞こえなかったのか、聞こえないフリをしているのか、ちらっと俺を見たが何も言わずに自分の席へ足を向けた。不貞腐れたような顔で鞄を掴む。そのまま出て行くつもりだろう。俺はもう一度、今度は声を張り上げて呼んだ。
「平岡っ」
「話しかけるなよな」
 仏頂面に似合う声で速攻答える。けど、一応足は止めてくれた。
 ええと、最初にまず「ごめんなさい」だろ? 「ごめんなさい。俺が言い過ぎました」、次いで「本心じゃなかったんですが、高遠さんと親しそうに見えて、逆上してしまったようです」とあんなことを口走った理由を納得させ、「どうして知り合いだと教えてくれなかったのか混乱してしまったのです」と。
 そう順序良く話せば平岡だってきっとわかってくれるさ。
「あの、俺」
「俺といるのはもうごめんなんだろ。だから放っておいてやってんだから、お前も自分の言ったことに責任取れよ」
 ふいっと平岡が背中を向ける。出て行きそうなその姿に焦った俺は、全身全霊全力で叫んでいた。
「お前じゃなくて俺なんだっ!」
「……は?」
 何がですか? 言ってて自分で意味不明。
 カクンと平岡が膝ゴケしたのが見えた。
 ま、待て。今のは我ながらナシだ。やり直せ。まずは今の意味不明発言を詫び、そして先日の非礼を詫びだ。仕切り直せ、俺――!
「お前を否定したかったわけじゃないっ。俺が俺を信じられないんだっ!」
 全然仕切り直してないけど。俺の口。ってゆーか、掘り下げてますけど。いくら話の組み立てが下手とは言え、あんまりだ。
「お前の言う通り、俺は卑屈なんだよっ。卑屈界のスーパースター並だよっ。いっつもお前と俺を自分の中で比べてたさっ。だからわけわかんなかったよ、お前が俺と一緒にいるワケがさっ」
 卑屈界ってドコだよ聞いたことねえよ。仲直りしようと思って待ってたのに、喧嘩の叩き売りしてどうすんだよ。
「だけどっ……」
「うるせえよ、もういいよ」
 ああ、もうここまで脈絡のないこと言ってんだ、もう脈絡なんかどうでもいいや。
「ちゃんと俺に言えよっ! 家のこととか、姉ちゃんのこととかっ! そんなことも話せないで信頼してるって言えるのかよっ!」
 平岡が振り返る。目を見開いて「お前、何でそれ」と呟くのが見えた。
「何で俺の姉ちゃんだってはっきり言わなかったんだよっ! 言えば済む話だったんじゃないのかよっ。俺だってお前にあんな美人の姉ちゃんがいるなんて知らなかったよっ! しかも同じ高校にいるってどういうことだよっ! 何で小学校から一緒にいるのに、今更そんなこと知る羽目になってんだよっ……」
「ああああ、もう良いから黙れっ!」
 逆上して子供返りでもしてるかのような脈絡不在発言の連発に、平岡が「しょおがねえなあ、もう」と言うように頭を抱えた。
「姉ちゃん姉ちゃん連呼すんな。どっかの教室に人が残ってたらどうすんだよ。誰にも言ってないことなのに」
「あ、ごめん」
 急に素に返る俺。
 俺が静かになったのを見て、平岡がふうっと深くため息をついた。それから教室の中へ戻って来る。適当な机に腰掛けて、口をへの字に曲げた。
「お前、もう少し日本語を学ぶべきだと思う、俺。言ってること滅茶苦茶なんだけど」
 同感です。
 勢いを失って無言の俺に、平岡は改めてため息を繰り返しながら口を開いた。
「弥生と話したの?」
「……うん。さっき」
「今まで家のことを話さなかったのは、俺がもう気にしてなかったからだよ。離婚とか再婚とか、外に実の母と姉がいるとか。別にいちいち言わなくたって、今の家が俺の家族だって今は思ってるから。同じ高校なのは、本当に偶然。隠してたわけじゃないけど、わざわざ言うほどでもないかって軽く考えてた。だから、それはごめん」
 簡単に謝られて、一瞬答えに詰まる。いやだけど、俺が高遠さんの話をしたのは立派なきっかけだったんじゃないのか?
 そう尋ねると、平岡は少し言葉を選ぶように黙った。それからちらっと俺を見る。
「お前さあ、あん時に弥生が俺の姉貴だって知ったらどうしてた?」
「え?」
 質問の意味がわからずにきょとんと見返すと、平岡は真っ直ぐ俺を見詰めたまま言葉を続けた。
「お前のことだから変な遠慮つーか、妙に気ぃ使って『やっぱりやめよう』とか言い出してたんじゃないの」
「やめようって?」
「今みたいに、何とかして仲良くなってみたいとか言わなかったんじゃないかと思ってさあ」
 言われてみれば、そんな気がする。
 あの時点で「ああ。それ、俺の姉貴」とか言われてたら、『憧れの先輩』とかじゃなくて『平岡の姉貴』だと認識していきなり腰が引けまくってるかもしれない。
 もしくは平岡に頼りっきりになって、どうしたら仲良くなれるかとかいろいろ考えたりしなかったかもしれない。
 いずれにしても、変わろうと思わなかった可能性は限りなく高い。
「お前が好きなコが出来たら、俺は応援してやりたいわけじゃん。二次元だのギャルゲーだのじゃなくて、実際に悩んだり傷ついたり喜んだりさあ。上手くいってもいかなくても、それがきっかけでお前も変わるかもしんないじゃん。いろんな人と友達になれるように努力するかもしんないとかさ、俺も考えたわけよ」
 俺は返事をしなかったけど、顔を見てちゃんと聞いているのが伝わっているんだろう。平岡は構わず続けた。
「そりゃいずれはバレることだし話さなきゃとも思ってたけど、協力も出来るだけしようとは思ってたけど、今はお前、自分が変わるよう自分で努力する段階じゃないかと思ったんだ。だから言わなかった」
「変わるようって」
「意識の問題だよ。内側にどんどん篭ってんじゃなくて、人にどう見られるかとかさ、そういう意識持つのって大事だと思うぜ。そうやって外にお前が意識を開いたら、周りも変わるじゃん。そうしたらもっと楽しくなるんじゃないの? 内側に篭ってくから卑屈になってくんだよ。少なくとも俺はそう思う」
 まるで息子の成長を願う母親のようだ。
「前にも言ったろ。お前がギャルゲ界の住人になっちゃうんじゃないかって。別にゲームが悪いとは言わないし、趣味は趣味でやってりゃいーけど、そこに閉じ篭るみたいになってってんじゃん。実際の友達や彼女は別問題だろ。なのに何かお前、目に見えて『俺なんか』って発想になってってんだもん。現実には誰にも相手にされないとか言ってさ、『じゃあ聞くけど現実じゃなかったらお前ってドコで生きてんの?』って感じじゃん」
 まさかそんなことを本気で心配されているとは思わなかった。
「そのうち俺にも壁作るようになるんじゃないかなーって思ってたら、まんまと予想通りだもんな。参るよ。ま、そんな程度だってことなんだろうけど」
「違っ……」
 咄嗟に否定しかけて、俺が平岡に言った言葉はまさしくその通りだったと気が付く。
「ごめん」
「別に。本音なんだろうから、文句言ったってしょうがねえよな。友達だと思ってたのは俺の方だけだったってことで」
 自分への自信のなさが、自分を大事にしてくれる人間を傷つけるとは思わなかった。
 当たり前だが、俺は平岡を友達だと思ってなかったわけじゃない。先日俺がぶつけた言葉は、裏返せば『平岡のようになれない自分へのストレス』を平岡に向けてぶちまけただけなんだろう。深く考えるのを避けてきた自虐的思考を、半ば八つ当たり的に吐き出しただけなんだ。
「違うよ……。俺自身へ向けた苛立ちの、八つ当たりに過ぎなかったんだ、きっと……」
 もっと何かを伝えたいけど言葉が見つからず、平岡もそれきり口を閉ざした。いつの間にか外から聞こえていた部活の声もなく、教室の中は静かだった。
「何でそんなにコンプレックス感じてんのか、逆にわかんねえよ。何でそんな俺と比べる必要があんの?」
 やがて沈黙を破ったのは、平岡の方だった。何でって……。
「俺みたいなのといても面白くないだろうなって思ったりするし」
「思ってたら今まで続いてねーよ」
「友達いない俺が可哀想で一緒にいんのかなって思ったりするし」
「慈善事業かよ。あほか、お前」
 相変わらず卑屈全開のセリフに呆れ顔をしてみせた平岡は、やれやれと顔を横に振った。
「いちいち理由付けなんてしてねーの。そういうもんじゃないの? 友達って」
 そこへ校内放送が割って入った。まだ校内に残ってる生徒はさっさと帰れと言う放送だ。
「さあってと。俺、帰るわ」
 その放送が終わると、平岡は座っていた机から立ち上がった。すたすたとドアの方へ歩いていく。
「平岡」
「あんだよ」
「ごめん。……それを言う為に戻って来たんだ」
「あー? 聞こえねえなあー」
 平岡の背中が意地悪く問い返す。
 だけど、本当に怒ってたらこんな言い方にはならないだろう。
 平岡の背中が許し始めているのを感じて、俺は心の底からほっとした。
「俺が悪かったです! どうもすみませんでした!」
 本気で反省を込めて九十度に頭を下げると、ちらっと振り返った平岡が、ようやく笑った。
「帰るぞ。ぐずぐずすんなよな」

 *

 ――最初さあ、学校からの帰り道でお前と会ったじゃん。初々しい俺様と、ふてぶてしいお前様とで、ぎこちなーく会話しながら歩いててさあ。
 お前が初々しかったのはともかく、俺がふてぶてしいってのは何なんだよ。
 ――ははっ。まあまあ。そんでさ、クラスメートに声かけられたの、覚えてるか?
 覚えてない。誰?
 ――覚えてねえの? 梅原と柳沢。そんであいつらが『平岡といると疫病神が伝染るぞ』ってさ。俺からしてみりゃ『は?』って感じだったけど、だから避けられてんのかって何となくわかった。
 えっ? じゃあお前、当時から知ってたの?しかもそんな早くから?
 ――何が? 噂? 知ってたよ。……違うんだよ、今話したいのはそんなことじゃなくて。でな、あいつらお前に向かって『お前も実は疫病神なんじゃねーの?』って言ったんだよな。『明日っからみんなに言いふらそー』とかって。
 へえ。よく覚えてんね。
 ――馬鹿、繊細な俺はそれを聞いて、『ああ、僕のせいで長谷川くんも巻き込まれてしまう』と心を痛めたんだよ。したらお前、何て言ったと思う? ほけっとした顔でさあ、『神様が伝染するって発想が新しいよね』って呟きやがった。
 ……。
 ――そんで俺に向かって『俺たち神様だって。凄くない?』って言ったんだぞ、お前。
 ……真性の馬鹿だったのかな。
 ――俺も思ったよ。疫病神とか言われて避けられてる転入生と一緒にされてさ、嫌がるでも怒るでもなく、のほほんと笑ってられるこいつって真性の馬鹿か……。
 馬鹿か?
 ――……てめえで考えろ。
 何だよそれ。
 ――あ、お前ん家、寄ってって良い?
 今からぁ? 何でだよ。
 ――漫画読みに。お前ん家って居心地良いんだもん。
 しょおがねえなあ、もう……。



After

 携帯が鳴る。
 春の気配が見え始めた日曜の朝、俺は寝ぼけたままで携帯に手を伸ばした。着信表示を見て、一気に目が覚める。
「お、お、おはようございます」
「おはよー。起きてたー?」
 のんびりとした弥生さんの声が流れてきて、朝から刺激的だ。
「はい。あの、今日ですよね」
 どくんどくんと高鳴る心臓を押さえながら、なぜか寝癖を手櫛で直す俺。電話の向こうの弥生さんには見えてないとわかってはいるんだが。
「うん。そうなんだけど。シンがね、今日ちょっと具合悪くなったって言うから」
「えっ?」
 何ぃ? 平岡が来ないということはキャンセルかっ?
 せっかく以前約束した『三人でごはんを食べよう』が実現しそうだったと言うのに。
 弥生さんの受験終わりを待っていて伸び伸びになってしまった約束が、いよいよ今日だったと言うのにっ。
 先走って奈落へ墜落した俺の希望を、耳元の弥生さんが軽々と引き上げた。
「だから、とりあえず二人でも良い?」
 ……どころか、更に上空まで跳ね上げた。
「え、え、ええ? ふ、二人?」
「そんなに嫌ならやめるけど」
「いやいやいやいやっ!」
「そんなに嫌だって連呼しなくて良いけど」
「違いますって!」
 俺、もう必死。そんな誤解は堪らない。
「行きましょうよ。せっかく弥生さんの合格祝いなんだから」
 母子家庭で経済的負担をかけたくないという一心で勉強に勤しんでいた弥生さんは、ついに見事、国立大学に合格した。そのお祝いと言うのが、一応今日の建前だ。
 ようやく平静を取り戻したテンションで、何とか引き止める。携帯越しに笑う弥生さんの声が近くて、耳にくすぐったい気がした。
 今日の約束の時間と場所を確認して、通話を切る。予想外に二人でデートだっ。浮かれてベッドから飛び降りた俺を、再び携帯の着信音が引きとめた。
 受信したメールを開いて、思わず俺はにやにやした。
『せっかくチャンスを作ってやったんだから、うまくやれよな』
 恩に着る、平岡。
 上手くいくもいかないも自分次第だけど、少なくともゲームのようにはいかないだろう。それはそれで面白いと感じ始めている自分を最近発見した。
 出かける準備を整えて、平岡に借りた雑誌を読みながら時間が過ぎるのを待つ。待ち合わせの時間よりちょっと早めに家を出よう。遅れるのは避けたいし、ついでに買い物でもしてくれば良い。
 玄関でスニーカーに足を突っ込んでいると、ポケットでまた携帯が鳴った。ドアの前で足を止めて開く。
『デートの約束を一時間も過ぎてるのにっ。連絡もしないなんて最低だよ』
 あ。忘れてた。
 エリナからのメールを見て、小さく舌打ち。一度は振られてゲームオーバーになったが、最近になってまた再びチャレンジし始めたばかりだ。
 ゲームはゲーム、面白いものは面白い。
 だけどまた振られそうかな。今パソコンを立ち上げれば、まだ挽回できるかもしれないけどさ。
 まあ、ゲームオーバーになったら、またやり直すか。
 だけど今は……。
「行ってきますっ」
 やり直しのきかない現実の方が優先だ。
 ポケットに携帯を突っ込んで、俺は外へと飛び出した。




Fin.                        

2010/01/30
▼あとがき
◆一言感想フォーム◆
何ぞございましたら、宜しければ……<(_ _)>








◆一応あとがき◆

 某サイトに投稿した短編小説です。
 文章のノリでさくさく読めるようになりたいなあと思って、出来るだけ軽快な文章を目指したつもり……でした。
 まあ、深い意味は何もない作品なので、暇つぶしにさくっと読んでいただけたらそれで幸せです。
 友達相手でも、もしくは彼氏彼女相手でも、自分に自信がない時にはふっと「こんな自分とどうして一緒にいてくれるんだろう?」と思ったりすることありません?
 何かそんなことを考えながら書いたお話でした。
 ちなみに、この物語の中で最も作者自身が気に入っている点が……タイトルだったりしますw
 お読み下さった方、本当にありがとうございました。