▼ひと夏の残像 
物凄く淡々とした現代もの。微不思議交じり?w
いろいろと言いたいことはありますが……説教臭いww


プロローグ

 夏休みを明日に控えて、校内の空気はどことなく浮き足立っている。
 終業式とHRのみの一日を終えてまだ日は高く、窓の外はぎらぎらした日差しが照りつけているのが見えた。
 窓を開け放したままの教室は、人気が減ってもまだ茹だるような熱気を残している。短い生命を声高く主張する蝉の声に、なかなかその中を帰る気になれない。
「平岡」
 予定があるわけでもないし、どうしようかななどとぼんやりしていると、後ろのドアから呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、クラスメイトの福田だった。
「帰らないの?」
「暑いから、図書室にでも寄って行こうか迷ってて」
 寄りかかっていた壁際から体を起こして答える。部活へ向かうところなのか、ジャージ姿の福田は「相変わらず真面目だなあ」と呆れて見せた。
「じゃあ、昇降口んとこまで一緒に行こうぜ」
「うん」
 頷くと、鞄を片手に福田と並んで教室を出る。階段を下りていくと、昇降口の手前の壁には大きな鏡があり、僕は何気なく視線を向けた。
 鏡越しに、僕らの少し離れた後方を女子生徒が通り過ぎていくのに気がつく。クラスは違うけれど、僕と同じ図書委員だ。見覚えがある。
 意味もなく彼女を眺めていると、鏡越しに目が合った。少し驚いたように目を瞬いた後、にこっと笑うのを見て、僕は何となく振り返った。
「あれ?」
 そのまま足を止める。たった今、鏡の中に映っていたはずの彼女が、既に背中を見せて通り過ぎていることに気がついたからだ。
 奇妙な時差。彼女が今いる位置から考えれば、ほんの今し方、鏡の中で目が合っているはずがないのに。
「何? どうした?」
「いや……今、鏡に映っていたコが……」
 この違和感をどう伝えたものかわからずに口篭ると、福田は何を勘違いしたのかぞっとしたような顔で背後を振り返った。
「こ、怖いこと言うなよ。夏だからって怪談なんか頼んでねぇぞ」
「じゃなくて。今通り過ぎてったコが映ってたんだけど」
「じゃあ別に疑問はねえじゃん」
 そうなんだけどさ。彼女が通り過ぎただろう後に、鏡越しに僕と目が合わなければさ。
「誰?」
「他のクラスの女の子。何て言ったっけ。C組の図書委員だよ」
「C組の図書……ああ」
 少なくとも実在する人間とわかって現金に相好を崩した福田は、怯えた表情を消し去った。
「西城な。Bカップの、ちょっと可愛い」
 ……。
 ごめん。サイズ情報までは把握していなかった。
 沈黙で返す僕に、福田はわざとらしく舌をべろーんと出して見せてから、僕にもわかる情報を提示した。
「大人しそうなちっちゃいコだよ。髪が肩越しくらいまであって」
「ああ、そう。その人。今、西城と鏡越しに目が合ったような気がしたんだけど」
「ふうん? どの辺が疑問?」
 そう改めて問われると、さして気にするほどのことじゃないという気分になる。
 釈然としないのも確かだけど、別に深く考えるほどのことじゃない。実際、僕の気のせいと言うセンが最も強いんだし。どっちでも良いっちゃあ、その程度のことで。
 遠くグラウンドの方から野球部の掛け声を聞きながら、再び歩き出した福田に従って歩き出す。
「平岡、夏休みはどうすんの」
「どうするって? 別に……そうだなあ。夏期講習には行くことになってるけど」
「げえ」
 僕の言葉に、福田は思い切り顔を顰めた。僕らのクラスの下駄箱まで辿り着いたので、サッカー部の練習へ向かう福田が足を止める。
「受験勉強は来年だぞ」
「知ってるよ」
「さーすが。そうやって学年トップの成績を維持するわけだ。本当真面目だなー」
「そういうつもりじゃないけど。親がうるさいから」
 曖昧に笑うと、僕は「それじゃあ」と福田に背中を向けた。目的がさしてあるわけじゃないが、言った手前、図書室の方へと足を向ける。
 ――本当真面目だなー
 僕の耳にそれは、『つまらない奴だな』と変換して聞こえた。自虐的思考とはこのことか。
 渡り廊下の窓から差し込む光は眩しく、見上げた僕は微かに目を細めた。
 夏休みか。
 きっと今年もまた、何も始まらず、何も終わらずに過ぎていくんだろう。



1.

 毎日毎日、暑い日が続く。
 熱されたアスファルトからは陽炎がたゆたい、少し先の電信柱が微かに歪んで見えた。
 七月も残すところあと僅かと言う真夏日の昼間、することもなく来る人もいない中途半端な田舎町には、出歩く人影もない。
 みんな暑さに辟易しながら、エアコンの効いた家の中でテレビでも見てるんだろう。まさかと思うが、海外旅行なんてハイソサエティーな奴も中にはいるんだろうか。
「はい、三十円のお返しね」
 個人商店の店先で、ガキの頃から知っているオバチャンからお釣りを受け取る。買ったばかりのコーラの蓋を店先で捻りながら、停めてあったチャリに近付いた。
 夏休みに入って学校が休業に突入したって、僕にとってはそれが予備校になっただけとも言える。
 学校ほど早い時間じゃないけど、起きて、予備校に行って授業を受けて、帰ってくる。帰ってきてもすることがないから、何となく復習とかやってみる。
 それだけ。
 ああ、高二でまだ受験勉強ってわけじゃないから、学校に行くよりは少し休みが多いか。
 だけど、変化と言えばそのくらいのものだ。
 そして予備校が休みの日、僕は別段することもない。やりたいと思うこともない。友達がいないわけじゃないが、取り立てて遊びたいとも思わない。
 良く冷えたコーラを三分の一ほど一気に飲んでから、僕はため息混じりに空を仰いだ。炭酸で、喉が僅かにひりひりする。
 高く澄んだ空は一面の鮮やかな青だ。ペンキで描いたような白い雲がところどころに浮かんでいる。空気中を広がる蝉の声は、終業式の頃より増しているような気がした。
 立っているだけで汗の粒が額に浮いてくるほどの熱気。謳歌すべき十七歳の夏。
 でも現実の僕はこうして、やりたいことも遊びに行きたいところもなく、コーラを片手にぼんやりと空を仰いでいる。
「帰ろ」
 小さく口の中で呟いて、視線を下ろした。こんなところで、ただただ空を見上げていたって、何も良いことなんかあるわけじゃない。
 とりあえずコーラに蓋をして、チャリに片手を伸ばす。跨ろうとして何気なく店脇の路地に目を向けると、僕はそこで視線を止めた。
「あんなん、あったっけ?」
 路地の奥にある小さな看板に、小さく呟く。チャリをその場に置いたまま、僕はコーラだけを持って路地の奥へ歩き出した。
 路地は行き止まりで、壁の向こうには雑木林がある。
 僕が目を留めたのは、その手前にある二階建ての小さな建物だ。
 一階は僕も知っているうなぎ屋さんで、やってるんだかやってないんだかと言う寂れた風情は記憶にあるままだ。
 だけど、二階に続く鉄階段に括りつけられた木の看板には見覚えがなかった。僕の記憶では、二階はずっと空いたままになっていたと思う。
 そうは言っても、ここ数年は自分の家の近所で遊ぶこともなくなっていたから、もしかすると二、三年前からあったのかもしれない。わからない。
 『Live&Bar mazel tov』。
 手作りのような木の板にはそう書かれていた。何て読むんだろう。まぜる、とぶ。……これじゃ馬鹿だ。
 ふうん。ライブバーか。こんなしょぼい町に珍しい。
 そんなふうに思いながら看板を眺めていると、二階のガラス扉が開いてエプロン姿のおじさんが出て来た。
「もしかして、バイト希望者?」
「は?」
 年齢不詳の日に焼けた顔に、カリフラワーみたいなもじゃもじゃ頭。
 おじさんはにこにこと笑みを浮かべながら、階段を降りてきた。きょとんと再び看板に目を落とし、今更ながら看板の下に『バイト急募』の張り紙を見つける。
 『時給七百円 十六時〜 水曜休み』。勤務時間の終わりが書かれていないのが少し怖い。
「ああ、いや……」
「高校生?」
「はい」
「夏休みの間だけでも良いけど」
 すっかり階段を降りてきたおじさんは、ひょろりと背が高い。一六五センチの僕より、十五センチくらいは高そうだ。原色のTシャツに、すりきれたウォッシュドジーンズが妙に様になっている人だった。
「ええと……」
「近所の子?」
「まあ。川の向こうですけど」
「じゃあ自転車で五分くらいかな」
「はい」
 僕の住む町は川に分断されていて、町の隅っことも言える川向こうに僕の家はある。
 川向こうは狭く、近所にはコンビニすらない。とは言っても、川を越えるのにチャリですぐだから、大して不便とも思わない。
「良かったら、中、見てく?」
 僕をバイト希望者だと信じて疑わないおじさんは、はっきりしない僕の態度をどう受け取ったのか、二階を示した。つられて二階を見上げ、少し興味が湧く。音楽は人並みに聴きはするけれど、ライブハウスなんてところにはこれまでご縁がない。
 頷く僕を促して、おじさんが階段を上がっていく。それに続きながら、僕は背中に向かって声をかけた。
「店の名前、何て読むんですか」
「ああ」
 少し笑って、おじさんはその容姿からは想像もつかないほど流暢な発音で答えた。敢えてカタカナで書くなら、『マザル・トーヴ』と言うのが最も近いだろうか。
 何語だろう。
 僕の疑問を読み取ったように、おじさんが笑った。
「イディッシュ語だよ」
 笑いながらドアを引く。ドアベルなどはついていないらしく、ただ、蝶番の鳴るギィと言う音だけが蝉の声に重なった。
 イディッシュ語……イディッシュ語って、何語だろう。
 性懲りもなくそんな疑問を抱きつつ、おじさんに続いて中に入る。エアコンの効いた空気がひんやりと僕を包んだ。汗がすうっと冷えていく心地よい感覚。
 ドアからすぐのところにカウンターがあって、カウンターの壁には酒瓶の並ぶ棚がある。壁の一部がくりぬかれた窓のようになっていて、その向こうに見える部屋は調理場らしい。
 内装はロッジのようなウッド調で、カウンター席が四つと丸テーブルが三つ。壁にはべたべたとポスターが貼ってあるものの、僕がイメージするような『落書きだらけのコンクリの壁と煙草の煙でもくもくのライブハウス』とは少し、様相が違っていた。
 窓から差し込む陽で、店内は明るい。ダークブラウンで統一され、柔らかくしっとりと落ち着いた雰囲気はカフェバーのようだ。……ってそうだった。ライブ『バー』だったっけ、ここ。
 そう思いながら店内に足を踏み入れ、恐らくはステージだろう左手奥に目を向ける。そちらの壁は一面ガラス張りで、椅子やマイクスタンドが乱雑に置かれ……。
 僕は目を見開いて、動きを止めた。
「彼女は今日の夜の出演者だよ。気にしないで」
 椅子の一つに、ギターを抱えた少女が座っていた。
 窓からさんさんと差し込む陽を背後から受け、驚いたように目を丸くして僕を見ている。
 きっと僕の表情も、同じように驚きを浮かべたものになっていただろう。
「平岡くん?」
「西城」
 僕の声と彼女の声が、重なった。

 ***

「同級生だったのか」
 カリフラワー頭のおじさん――タケさんと名乗ったマスターがアイスティーを入れてくれると言うので、僕と西城は間に席を一つ空け、カウンターに並んで腰掛けた。
「同級生って言うか、クラスは違うんだけど」
「綾音ちゃんは、真野北高だったっけか」
「そう」
 綾音と言うのが、西城の下の名前らしい。
「じゃあ、君……ええと……」
「平岡です。平岡俊一」
「平岡くんも北高か」
 言いながら、タケさんは僕と西城の前にアイスティーのグラスを置いた。礼を言って口をつける。持参してきたコーラは、とりあえずカウンターの片隅に放置だ。
「でも、平岡くんの家が川の向こう側ってことは、中学も一緒だったんじゃないか? 綾音ちゃんの家の辺りと学区は一緒だろう?」
「いや……」
 咄嗟に否定しかけて口を開くと、西城が横からセリフを引ったくった。
「そう。同じ中学」
 えっ?
 それから、少し恨めしげな目つきで僕を見る。
「平岡くんは全然知らなかったみたいだけど」
「えっ、いやだって……僕、真野台中だよ?」
「そうだよ」
「西城は?」
「だから真野台中だってば」
 うわー。知らなかった。
 僕の沈黙の意味を正確に読みとって、西城はますます拗ねたような顔つきを見せた。テーブルに両手で頬杖をつくと、横目で僕を睨む。ただただ大人しいコかと思っていたけれど、こういう表情を見せると少しコケティッシュで可愛らしいかもしれない。いや、今の問題はそんなことじゃない。
「そりゃあ私なんて目立たないかもしれないけど。同じ中学で、高校も同じで、しかも委員会だって一緒なんだから、気がついてくれたって良いのに」
「すみません」
 謝罪をする以外にどうしようがあるだろう。
 居心地悪く謝ってから、アイスティーに口をつける。
「逆に西城は、良く気づいてたね」
「だって平岡くんって、あの頃から成績優秀で有名だったもん」
 ああ……それか。
 人知れず小さくため息をついていると、カウンターの内側で黙って話を聞いていたタケさんが目を丸くした。
「平岡くんは成績良いのかぁ。頭良さそうな顔、してるもんなあ」
「別に……」
 微かに感じた苦さを飲み下し、作った笑顔に代える。
「言うほどじゃないです」
 中学の時から常に学年トップスリーに入る成績を保っていては、下手な言い訳も嫌味になる。
 そう思えば言える言葉はさしてなく、僕はこの類の話題になるといつも口にする逃げ口上で話を終わらせた。
「それはともかく」
 続けて、強引に話題の転換を図る。僕が質問を口にしかけたところで、店の奥から電話の音が聞こえた。ちょっとごめんね、とタケさんが場を外すと沈黙が訪れた。
「えーと。あのー……あ、そう言えば西城。終業式の日、遅くまで残ってたんだね」
 余り口を利いたこともない女の子と急に二人にされても、何を話して良いのかわからない。咄嗟にそんな言葉が口をついて出る。
 言ってから「唐突過ぎたか?」とは思ったが、出て行ってしまった言葉は戻って来ない。
 誤魔化すように再びアイスティーを口に運んでいると、西城が顔をゆっくりこちらへ向ける気配がした。
「え?」
「いや、帰り際に見かけた、と思うから。会った、よね?」
 鏡越しとは言え目が合った気がするんだから、西城も気づいてはいると思うんだけど。
 それとも目が合ったと思ったのは、やっぱり気のせいか? 自信がなくなってしどろもどろになる。
「あ、うん。ううん。うん、そう、かな。会ったかな」
 対する西城の言葉も、どこかしら妙だ。何か言いたくないことでもあるんだろうか。
「図書室に寄ってただけだよ」
「そうなんだ。僕も図書室に寄って帰ったけど」
「へえ」
 無駄に、お互い愛想笑いなんぞ浮かべてしまう。ぎこちない空気。話が終わってしまった。
 僕が黙ると、西城もしばらく無言でグラスの表面を撫ぜていた。彼女の指に払われた雫が、ダークブラウンのテーブルに濃い染みを作る。奥の部屋からは、ぼそぼそとタケさんが電話で話す声が聞こえた。時折笑い声が混じる。
 勉強するしか能のない、気の利いた会話なんて展開できない僕との間に横たわる気まずい沈黙を破ったのは、西城の方だった。
「ねえ。平岡くんってさ」
「はい」
 顔を向けるが、呼びかけたくせに、西城は言いにくそうに口篭った。
 視線は真っ直ぐテーブルに向けられている。言葉を探すように、彼女は微かに唇を尖らせた。それからふっとため息を落として、目を伏せる。
「……あー。やっぱり何でもない」
「は?」
「うーん。ううん、やっぱ何でもない。気にしないで」
 凄く気になりますが。
 言葉の続きを要求する意味でじっと西城の横顔を見つめる。僕の視線にもちろん気づいているだろうに、西城はそ知らぬ顔でストローを口に含んだ。
「何……」
「やあ、ごめんごめん」
 仕方ないので言葉で促そうと口を開きかけると、遮るようにタケさんが戻って来た。勢い、僕の言葉は喉の奥にしまい込まれ、そのまま胃袋にまで飲み込んでしまう。
「ところでさ、平岡くん」
「え? あ、はい」
 終業式の日にも感じたような釈然としない思いのまま顔を上げると、タケさんがカウンターの内側から体を乗り出すようにして僕を呼んだ。
「どうかな? 無理にとは言わないけど、興味あったら手伝ってみない?」
「でも、僕」
「時間がある時だけでも良いから」
「あの」
 予備校が。
「そんなに忙しい店じゃないから、大丈夫大丈夫」
 いや、そんなことではなく。バイトとかウチの親は反対で。
「前にいたコが急にやめてね。いやあ、困ってたんだ。やってくれると助かるよ」
 ……。
「きっと楽しく働けるからさ。気楽に気楽に」
「……はい」
 言いかけた言葉はまた、口から出されることなく、飲み込まれた。



2.

 『Mazel tov』は、ライブをやる場所とは言え、若者がロックバンドでヘッドバンギングをするような場所ではないらしい。
 いわゆるアコースティック専門とでも言うか、そういうまったりした雰囲気の音楽が主流のようだ。見る方もスタンディングではなく、テーブルについて食事や酒を手にしながら、演奏を楽しむ。
 初めてこの店を訪れた日から三日、僕はまんまとこの店で夏季限定のアルバイトに収まってしまった。
 バイトが決まる時と言うのは、履歴書を用意して、未成年だから親の許可を得て、面接を受けて、合否通知を待って、とかそういう手順を踏むものなんだと思っていた。だけど、これは世間で言う『なし崩し』『行きがかり上』『ただの勢い』とかいう奴じゃなかろうか。
 履歴書なんて出すどころか書いてもいないし、面接もへったくれもなく西城を交えた雑談内の問答だけで働くことになってしまった。これは労働基準法的にいかがなものか。
「平岡くん。これ、一番奥のテーブルね」
「はい」
 手伝うとは言ったものの、ライブハウスなんかとこれまで無縁に生きている僕に出来ることなど大してありはしない。普通の飲食店のように、ドリンクや食事をテーブルに運ぶくらいだ。
 現在、この店に常駐している店員はタケさんしかいないと言う。手が足りない時には、店の裏に住んでいるタケさんの奥さんが手伝いに来てくれるらしい。
 先日まではアルバイトの女の子が一人いたらしいが、やめてしまったのだそうだ。
「タケさーん」
 店の雰囲気はアットホームだ。
「お水、勝手にもらうねー」
「はいはい。あ、ついでにこのビール、右奥の眼鏡のお客さんのところに持って行ってくれる?」
「はーい」
 来るお客さんも出演するミュージシャンも顔馴染みと言う空気で、チェイサーくらいだったら、人によっては自分でカウンターの内側に入って持って行く。しかもついでに料理運びなんか頼まれたりする。そんなふうだから、少ない人手で回るんだろう。
 西城も一応は出演者と言うことでお客さんに属すると思うのだが、慣れているらしく、タケさんの言葉を受けてあっさりとウェイトレスに変身した。笑顔でお客さんにドリンクを運んで行く姿が、視界の隅に見える。
 ステージでは、男性が一人でアコースティックギターの弾き語りをやっていた。こういうの、音楽のジャンルで言うと何なんだろう。レゲエ? カントリー?
 僕にはその辺りの区別がつかないが、とりあえずまったり。ゆるーい空気の音楽だ。
 初めて目の当たりにする世界に、僕は壁際からぐるりと店内を見回した。
 誰もがステージを見つめ、思い思いに体を揺らしている。その顔はどれも、驚くほど『良い顔』だった。
 思わず笑顔が滲み出ている――誰もが素直にこの空間を楽しんでいると伝わる笑顔。
 凄ぇな。
 何だか良くわからないが、そんな感想が胸の内に漏れた。
 誰もが心を解放しているようなこの空気感が、なぜだか僕に、言葉にならない感慨を与えている。
 三十分ほども演奏をすると、やがて拍手の音と共にステージが終わった。温かみのあるオレンジ色の光が灯り、店が明るくなる。店内に人々のざわめきが戻った。
 店の隅でカウンターに背中を預けて立っていた僕は、それを見て背後を振り返った。カウンターの内側で、タケさんが音響の機械に向かっているのが見えた。
「平岡くん。ちょっと頼まれてくれる?」
 タケさんが向かっている機械は、僕の腕くらいの幅と奥行きを持つ平面状のものだ。
 表面には丸い摘みやら四角いスライダーやらが整然と、そしてみっちりと並んでいる。ミキシングコンソールと言う名前だけは聞いたが、具体的にどう扱うものなのかは、僕ごときではわからない。
「はい」
「次、綾音ちゃんが歌うから、セッティングを手伝ってあげてくれるかな」
「はい」
 頷いてステージの方へ顔を向けると、演奏をしていた男と入れ替わりに西城が歩いていくところだった。
「どうすればいいの?」
 わからないことは、わかる人に聞くのが一番良い。
 何をどう手伝えば良いのか皆目見当がつかないので尋ねると、背もたれのない折り畳みの椅子を引き寄せて、西城が俺を見上げた。目を細める。
「じゃあ、譜面台をお願いします」
「譜面台? どれ?」
「その隅にある、折り畳まれてる黒い……そう、それ」
 彼女の指示に従って僕が取り上げたものを見て、西城が手を叩いた。拍手をされるほどのことをしていないので、気恥ずかしい思いをしながら、組み立てようと試みる。
 あれ? 何だ、これ。どうなってんだ? ……あ、このネジを緩めて動かすのか。
 何もかもが初めてなので、たどたどしい手つきで譜面を組み立てていく。その間に、西城は手際良くアコースティックギターを取り出して、弦を弾いたりケーブルに繋いだりと着々と準備を進めていた。
 僕がようやく譜面台一つスタンバイ完了した頃には、自分でマイクの位置を整えて、いつでも歌える状態に落ち着いている。何だか虚しい。
「ごめん。何の役にも立ってない、僕」
 バツの悪い表情を浮かべつつ譜面台を置くと、西城が白い歯を覗かせた。抱えたギターの弦をしゃらんと鳴らしながら、首を横に振る。
「そんなことないよ。それに、最初から何でも出来たらスーパー過ぎじゃない」
「そりゃそうだけどさ」
 意外と僕は負けず嫌いらしい。西城の言うことは当たり前だけど、ちょっと悔しい。
「タケさんに教えてもらったら、平岡くんだったらすぐに何でも出来るようになっちゃうんじゃない?」
 それは多分買いかぶり過ぎだと思う。
 僕に出来ることなんて、大してない。
 僕が出来ることなんて、何もない。
「どうかね」
「ちょっと緊張するな。後で感想、聞かせてね」
 これ以上することはありそうにないのでその場を離れようとする僕の背中を、西城の声が追いかけて来た。
 振り返る僕に、西城は小さな片手を軽く横に振ってみせて、もう一度白い歯を覗かせた。

 ***

 川沿いの夜道には人気がない。
 月が明るい夜で、すぐ左手に広がる川のせせらぎと虫の音、そしてチャリを引く音だけが響く道に、僕と西城の影が並んで伸びている。
 時間は二十二時を回った頃だ。対岸には影絵のように黒く塗りつぶされた住宅の影と、窓の黄色っぽい光がちらついているのが見えた。
「疲れた?」
 高校生という身分柄、加えて僕の一身上の都合から、余り遅くまでは働けない。
 『Mazel tov』自体はまだ店じまいではなかったけれど、一足お先に失礼することになった僕は、西城を送るという任務をタケさんから与えられた。どちらにしても途中までは同じ道のりを帰るらしい。
「気疲れしたんじゃない?」
 僕が引くチャリを挟んだ隣を歩きながら、西城が気遣うような表情を見せた。その顔にも濃い陰影が落ちている。
「少しね。すぐ慣れるよ」
「うん。お客さんもみんな、いい人たちばっかりだから。ちょっと変だけど」
「はは」
 そこで一度会話が途切れる。
 夜になっても空気はまだ生温いけれど、川のそばだけは少し別だ。水面を渡る風は、町中よりも微かに冷気を孕んで感じられる。
 夜風に前髪を撫でられながら、僕は前を向いたまま尋ねた。
「西城は、いつからやってるの? 歌ったりとか。ギター弾いたりとか」
 僕の家の方へ向かう川を渡る橋までは、ここからチャリで五分もかからない。
 だけど今は歩きだし、西城がゆっくり歩くその歩調に合わせているから、多分十分以上はかかるだろう。
 そんなことを思いながら、遠くに黒い影しか見えない橋を眺める。
「歌うのは、子供の頃からかな」
「ギターは?」
「中学生の時。お父さんが持っていたギターを借りて、一人で弄って遊ぶようになったのが最初」
「ふうん。プロになりたいとか、そういうこと考えてるの?」
 何気なく尋ねると、西城は僕に向けていた目線をふっと逸らして空を仰いだ。暗い夜空には、既に幾つもの星が瞬いている。
「うん。考えてはいる」
「へえ」
 夢、って奴か。
 僕が一度たりとも抱いたことのない、不確かなもの。
「頑張って」
 なぜか胸の奥が灰色のもやに包まれたような気分になり、僕は無理矢理言葉を押し出した。そんな僕の横顔に、西城が視線を投げかける。
「ね。感想、聞きたいな」
「感想? ああ、歌の」
「うん。どうだった? 率直に言ってくれて良いよ。遠慮しないで」
 問われて、僕は先ほど聴いたばかりの西城の歌を耳に蘇らせた。
 乾いた透明感のある、そして同時に柔らかい女の子らしさを残す耳に優しい歌声。
 正直に言えば、驚いた。
 上手いだの下手だのなんてことは、僕には良くわからない。
 だけど、西城の歌声が紡ぎ出す心地良い空間に惹かれ、もっと聴いていたいと思ったのは本音だ。
 それをそのまま口にするのは照れ臭く、僕は殊更あっさりと答えた。
「良かったよ」
「えー。それだけー?」
 あんまり恥ずかしいことを口にするのは嫌なんだけど。
 そう思うものの、西城が僕の言葉を待つように唇を尖らせるのを視界の隅に見つけ、仕方なく精一杯言葉を探す。
「あー、だから。もしも僕があの店の手伝いをするんじゃなかったらさ」
「うん」
「また、自分から聴きに来たかもしれない」
 西城の顔がぱっと輝くのがわかる。ちらっと目線を向けると、照れながらも嬉しさを隠し切れない笑顔を浮かべていた。素朴で純粋さの滲むその表情に、妙にくすぐったい気分になってしまった僕がいる。
「お世辞じゃなくて?」
「お世辞じゃなくて。良かったよ」
 もう一度言うと、西城は背中で両手を組みながら、くしゃりと機嫌良さそうに俺を見上げた。肩越しの髪が揺れる。サラリと音が聞こえそうだ。
「ありがとう」
「別に」
 お礼を言われるようなことじゃない。
「今度、文化祭とかで演奏すれば?」
 照れ臭かったので、少しからかうような口調になった。僕の言葉に一瞬きょとんとした表情を浮かべた西城は、次の瞬間かっと赤くなって「えええっ」と小さく叫んだ。
「むむ無理」
「何で? やればいーのに。学校のみんなにも見せてやったら」
「やだっ。だめっ」
「僕が文化祭の申請書を出しておいてあげようか」
「だーめーでーすぅっ。……もう。意外と意地悪だなあ」
 赤くなったまま困ったように俯いて毛先を指先で弄る姿に、なぜだか心の片隅が微かに疼いたような気がした。
 思いがけない親しい空気に。学校からは想像もつかない意外な姿に。もしかすると、先ほど聴いた澄んだ歌声に。
 黙る僕から視線を逸らし、西城は再び夜空を仰いだ。橋はどんどん近付いている。
「そう言えばさ」
 話題が途切れ、言葉を探した僕は、先日彼女が何かを言いかけてやめたことをふっと思い出した。
「一昨日、何を言いかけたの」
「一昨日?」
「僕が『Mazel tov』に初めて来た日」
「ああ」
 何が言いたいのかわかったらしい西城は、少しだけ居心地悪そうな表情を浮かべて僕を見上げた。
「変な奴だと思わないで欲しいんだけど」
「うん」
「平岡くんって、もしかして物凄くいろんなことを我慢してるんじゃないかなって思ったの」
「は?」
 藪から棒に何を言い出すやら。
 想像外のことを言われて、思わず江戸っ子爺さんのような感想が胸の内に漏れる。
 ぽかんとする僕に構わず、西城は少し弾むような足取りで空を仰いだまま、少しの間言葉を探すように黙った。それから続ける。
「ねえ。こんなこと考えたことはない? 自分の居場所は、もっと違う場所にあるんじゃないかなとか」
「……何だよ。唐突に」
「本当の自分はどこにいるのかなとか。自分の本当の気持ちはどこにあるのかな、とか」
 僕は答えられずに押し黙った。
 橋のすぐそばまで来て、足を止める。一応は車道でもあるコンクリの橋だけど、幅はそんなに広くはない古い橋だ。
 西城も倣って足を止めた。
「周囲からいろんなことを言われて、いろんな人の気持ちを考えて、自分より先にそれを優先させなきゃいけないような気がして、泣きたいのに笑って、痛いのに強がって。争いたくないから人の言葉に頷いて、言いたいことはあるのに聞いてあげなきゃいけないから飲み込んで。そんな自分に気がついた時……」
 そこまで聞いて、ふと理解した。
 彼女は僕の話をしているのかもしれないけど、いや、僕に限らず『人間』の話をしているのかもしれないけど、多分それは畢竟(ひっきょう)、彼女自身のことなんじゃないだろうか。
「自分が殺してきた感情は、どこに追いやってたんだろうって思うことがあるの」
「西城が?」
「私も。だけど多分、平岡くんも」
 真っ直ぐ僕を見上げた西城の髪が、吹き上げてきた川風に舞い上がった。
 ふわりと踊る髪の下、黒目がちの瞳が背後の街灯の灯りを映し込んでいる。
「センチメンタルだね、西城」
「私? そうかな」
「生憎と僕は、そんなに感傷的じゃないよ。何でそう思ったのかは知らないけど」
 周囲の期待に応えようとすることで、引き換えに押し殺してきた自分の感情。
 望めば誰かの手を煩わせる。背けば誰かを傷つける。
 そうして飼い慣らされていくうちに、見えなくなっていった自分の中の望み。
 ――僕がやりたいことは、何だっただろう?
「じゃあ、聞いてみても良い?」
 挑戦的でもなく、と言って同情的でもなく、あくまで淡々と、西城はその問いかけを口にした。
「平岡くんの夢って、何?」

 ***

 勉強机に向かって、頬杖をつく。
 やる気のない姿勢で、机の上に出しっ放しのテキストを一冊引き寄せ、パラパラとページを捲る。
 問一。問二。問三。nを正の整数としてf(x)を。点P1と点Q1はx軸に対して対称なので。
 ぼんやりと、視界を凄い速さで問題が通り過ぎていくのをただ眺めた。
 やりたいことなど何もない。
 好きな教科さえ、一つもない。
「俊一」
 ノックの音が聞こえ、顔を上げる。体を起こすと同時に、部屋のドアが開いた。
「まだ勉強するんでしょ。夜食持って来てあげたから、しっかり勉強するのよ」
 笑みの一つも浮かべずに入って来た母親は、勉強机の隅にトレイを置いた。ロールパンにハムや野菜を挟んだだけのサンドウィッチが乗っている。
「今日の授業はどうだった?」
「……わかりやすかったんじゃないかな」
「もし良さそうだったら、夏期講習の後も今の塾に行った方がいいわね」
「そうだね」
「大学受験の時は、高校受験の時のような失敗はしないでよね」
 神経質そうな細い顎をぼんやりと眺める僕に、どこか責めるような響きの言葉が降って来る。
「うん。わかってる」
 従順な僕の返事を確認して母親が出て行くと、僕は深く椅子に寄り掛かった。勉強机の横に先ほど置いた鞄に視線を向ける。開いた口からは、僕がこの夏通っている予備校のテキストが数冊見えている。
 『Mazel tov』に行っているこの三日間、一度も開いていない。
 ささやかな反逆。予備校に行く顔をして、『Mazel tov』での時間を過ごしている。
 机の上のテキストを床に投げ出して、僕は深いため息をついた。
 ――平岡くん? ああ、あの頭が良い。
 ――いつもトップの子? 顔はわかんないけど、名前だけは良く聞くよね。
 ――え? どんな人? さあ……成績が良いってくらいしか印象がないかなあ。
 時々、本当の自分は別に存在するんじゃないかと思うことがある。
 それが少し言い過ぎなら、本当の気持ちを抑圧してどこかに閉じ込めているんじゃないかと思う、でも良い。
 自分にとっての幸福のカタチ。自己という存在の肯定の仕方。
 それが見つけられずに、ただただ自分を抑圧する。
 望みも、未来を夢見ることもない僕。
 死にたいと思うほどの絶望もなく、熱く生きるほど生への執着もなく、ただ死ぬ理由がないから生きている。
 自分自身で自分の有り様に自信がもてるほどの何もなく、だから自己肯定の理由を周囲の判断に委ね、己の存在意義を認めて欲しいから周りにおもねって、自分を殺す。
 言われるまま勉強だけをして、虚無的に事務的に学校に通って、同じ日々を、ただひたすら――――……。


 勉強しか出来ない僕が勉強を放棄したら、その後には一体、何が残るんだろう。



3.

 八月の二週目も終わりに近付き、夏は益々本格的になっている。
 暑さ真っ盛り、蝉も真っ盛り、夏バテも真っ盛り。
 エアコンなんて贅沢品が自室にあるわけでもなく、昼前から蒸すような熱気に叩き起こされる。
 夜の間も寝苦しく、何となく『眠った感』のない重たい体でベッドから這い出ると、顔を洗って再び自室に戻った。
 『Mazel tov』は、週に三日だけ手伝うと言ってある。今日は手伝う予定じゃない。予備校も今はお盆休みに突入だ。
 予備校へ行くフリをして『Mazel tov』に通うのも、残り半月になった。八月に入ってから、勉強らしい勉強をしていない。
 さすがにヤバイかと思い机に向かうが、暑さと気力のなさでテキストを開く気にさえならなかった。
 ただただ、ぼうっと勉強机に向かって、開け放した窓の外を眺めている。
 ――平岡くんの夢って、何?
 あの日から、西城の声が耳の中でこだまする。僕の脳裏で、繰り返し澄んだ声が問いかける。
 あれから西城とは『Mazel tov』で何度も顔を合わせていて、その度に橋のそばで別れるまで一緒に帰る。だけどその話をすることはなく、僕はあの日答えそびれた言葉を何度か口にしかけては飲み込んだ。
 彼女が夢に対して抱く真摯な気持ちに対して、空っぽな自分を曝すのが嫌だった。
 好きなものを好きと言えない。やりたいことをやりたいと言えない。
 だってそれが、他人の要求と違うものかもしれない。
 そうしているうちに、気がつけば自分が望む自分の姿すらイメージ出来なくなっている。
 そしてそれが、自分という確固としたものを持たないような不安感と羞恥を浮かび上がらせ、それがまた他人の要求にひたすら応えようと必死にさせる。
 夢なんて、ないよ。
 持つ余裕なんかなかったんだ。
 必要なのか? それは、生きていく上で必要なことなのか?
 他人の要求は、僕自身の意志や望みとは無関係に向けられる。そこに僕自身の望みが存在していれば、必ずすれ違う時がある。軋轢を生む時、諍いが生じる時、その誰かにとって僕の存在は無価値になる。
 勉強が出来て、従順で、害がない。それ以外に価値を持たない人間にとって、他人の要求と違う欲求を持てば存在価値などなくなるじゃないか。
(だったら何で、予備校に行かない?)
 自分の中から問いかけが聞こえる。
(だったらどうしてあの時……)
 聞こえそうになった心の声を遮るように、僕は座っていた椅子から立ち上がった。
 ガタンと音を立てて、椅子が床に転がる。
 暑さのせいだ。暑いせいで、余計なことを考える。
 西城みたいな人の目から見れば、僕みたいな男はつまらない奴に映るんだろう。実際つまらない奴だ。
「あーっ。考えるのやめっ!」
 駄目だ、こんなぐらぐらと煮えた脳味噌では、勉強なんてしようがない。そうだ、こんな時は気分を一新する為に、リビングでエアコンをかけて寝直そう。
 共働きなので両親共おらず、家の中は僕一人だ。不届きなことを考え、実行に移そうとしたその瞬間、携帯電話の音が響いた。
 片腕に夏掛けの薄い布団を抱えたまま、携帯に手を伸ばす。ディスプレイに表示された電話番号に覚えはなく、僕は軽く眉を寄せながら通話ボタンを押した。
「平岡だけど」
 誰?
 心の中で問いつつ、部屋を出る。階段を下りかけたところで、受話器越しに声が聞こえた。
「西城です」
 ずるっ!
 どきっと跳ね上がった心臓に足元までが狂い、強かに腰を打ちつけながら必死に手すりに掴まる。放り出された夏掛けが宙に舞った。
「さ、西城?」
 くぅぅぅ。ケツが痛ぇ。
 涙目になりながらも辛うじて口を開く。「びっくりした?」とくすくす笑う声が聞こえた。電話越しに聞く西城の声はいつもよりずっと近くて、何だかくすぐったい。
「うん、まあ。僕の携帯番号、どうして? 教えたっけ」
 片手で手すりにしがみつきながら階段に寝そべっている状態だった僕は、そこでようやく体を起こした。そのまま階段に座り込んで尋ねる。
「ううん。ごめんね。タケさんに聞いちゃった」
「あ、そう。別に良いけど」
「ねえ。もし時間があったら出て来ない?」
 思いがけない誘いの言葉に、ちょっと動揺した。僕の沈黙をどう理解したのか、西城が照れたような声で続ける。
「あのね、今たまたま橋のそばのところまで来てるの」
「へ、へえ?」
「それで、前に変なこと言っちゃったし、そのお詫びにジュースでも奢ろうかなって思いついて。忙しい?」
「忙しくはないけど」
 寝ようとしてたくらいだし。
 僕の返事を聞いて、西城が朗らかな声を上げた。
「じゃあ、橋のところで待ってるね」

 ***

 階段の途中で丸まっていた夏掛けを部屋に放り込むと同時に着替えを済ませ、慌しく家を飛び出す。
 自分がどうしてこんなに慌てているのかわからないままチャリに飛び乗った僕が橋に到着をしたのは、電話からおよそ五分後のことだった。
 橋を渡りきった向こうで、西城が僕に気づいて片手を振る。
「何してた?」
 西城のすぐそばでチャリを下りると、夏の暑さを感じさせない爽やかな笑顔で僕を見上げた。なぜか微かに鼓動が速くなるのは、多分先ほど西城の言葉を思い返していたせいだろう。それだけだ。
「別に。寝直そうかと思ってた」
「あ、ごめんね」
「いや、つまりそれだけ暇してたってことで」
 そう笑ってみせると、「じゃあ丁度良かった」と彼女も微笑んだ。
「家の中より、不思議とこっちの方が涼しいな」
 何となく川原沿いの道を並んで歩き出す。西城が川の方へと目を向けた。
「水があるからかな。風も吹き抜けるしね」
 西城は、白地に青い小花の散ったワンピースを身に付けていた。さらさらの髪が川風に煽られて、時折揺れる。
 チャリを挟んだ隣を歩く西城を見下ろして、ふと不思議な気持ちになった。
 夏休みに入る前までは口を利いたこともなかったのに、たかだか二週間で親しくなったものだ。
 僕の覚えている数少ない西城の記憶は、もっとおずおずとしていたように思う。
 常に誰かを気遣っているような、いつも何かに遠慮をしているような。
 笑っている顔なんて見たことはなかったし、そもそも誰かと楽しそうにハキハキ喋っている姿も見たことがないと思う。
「西城って、もっと凄い大人しい人かと思ってた」
「私? そう?」
 僕の声に、西城が川から視線を外す。
「正直あんまり印象なかったから」
「ひどいな。でも、そうかもね」
 夜とは違って、時折人とすれ違う。学校の奴らに見られたら面倒だなと思ったが、すぐにどうでも良いかと思い直した。
「平岡くんと、多分同じだから」
「僕?」
「『私』は『私』を閉じ込めてる……」
 川風に吹かれながら、西城はまるで謎掛けのような言葉を口にした。その意味は半分もわからない。わからないので、返答出来ない。
 黙ったままの僕に、西城が笑った。
「また変なこと言ってる、私」
「別に、そんなことないよ。……まあ、良くわからないけど」
 素直に述べると、西城は笑いを残した表情のままで視線を前に向けた。いや、前と言うよりも、どこか遠くへと言った方が正しいかもしれない。目の前に映るものを見つめているのではなく、自分の心の中を見つめているような遠い視線。
「私にとってね、歌うのはたった一つの自己表現なの。ずっと続けて行きたいし、私の言葉を誰かに届けたい。だけど」
 そこで言葉を途切れさせた西城は、複雑な色を瞳に浮かべて川面に視線を投げかけた。
「言えない。親にも、友達にも。反対されるの知ってるから」
「そういうもん?」
「だって、普通に言われちゃうよ。『何馬鹿なこと言ってんの』って」
 それもそうか。
 そうだねとも言えず、曖昧に黙った僕を、西城が横目で拗ねたように睨んだ。
「あっ。今平岡くんも『何妄想ワールドに足突っ込んでんだよ』って思った?」
「そこまで言ってないじゃん」
「『なれるわけない』って。そう言われるのわかってるから、怖くて口に出せないよ」
「でも、じゃあ諦められるの?」
 素朴な疑問だったんだが、思いのほか地雷だったらしい。西城はぐっと押し黙った。それから足を止めて、ふうっと深くため息をつく。
「られない」
「じゃあ、頑張ってみればいーんじゃないの」
 僕も足を止めて西城を振り返った。
「僕は、やりたいことが見えている西城を羨ましいと思うよ。この前言った通り、僕にはやりたいこともなければ、好きなものもない。この先ずっとこんなふうに淡々と生きていくのかと思うと、たまに嫌んなる」
 親に言われるがままに勉強だけしてきた。他にやりたいことなんてあったわけじゃないから、黙々と勉強机に向かって問題を解いて、教科書を頭に詰め込むのは、それほど苦にはならなかった。
 だけど、ある時ふと気づく。人に敷かれたレール以外に、人生の歩き方がわからない。
 このままじゃ嫌だと言う自我が遅ればせながら目覚めたところで、それまでのスタンスは変えられない。
 高校受験の時、この辺りで有名な進学校の入学試験を間違いだらけで提出したのはささやかな反抗だ。これ以上勉強漬けになるのは嫌だと思った。
 だけど、勉強以外に取り得のない僕からそれを奪ったら何もなくなることに気がついた。
 どこまでも虚無的で臆病な僕。
 変化のない灰色の未来が見える。
 一方的に与えられる役割。気がついたら貼り付けられているレッテル。だけどそれを剥がす勇気がない。
 せめてそれだけにでもしがみついていなきゃ、自分を持たない僕なんて、誰の視界にも映らない存在になってしまう。そんな気がする。
「勉強するしか能がない。つまらない奴なんだよ」
 機械のように味気なく詰め込む、ただそれだけ。
 場合によっては嫌味にとられかねない僕の苦痛をするりと言えたのは、西城が僕の『それしか出来ない』というコンプレックスを真正面から理解してくれるような気がしたからだろう。
 だけど口に出してみると、些か重いことを言ったような気がした。慌てて、冗談めかして付け加える。
「頭脳明晰ゆえのコンプレックスって奴だ」
「そっか」
「いやいや。ここ、笑うなりどつくなりしてくれないと、僕が救われない」
 そこで放置されると、恐ろしいほどの自惚れ野郎みたいじゃないか。
 ぼやく僕に、西城はようやく笑ってくれた。それを見てほっとする。つまらない奴の上に、重い奴だと思われるのは嫌だ。
「ねえ」
 何となく再び川沿いの道を歩き始める僕に、西城も従って歩き出す。笑顔を覗かせた名残をそのままに、明るい声が背中を追いかけてくる。
「『こうじゃなきゃいけない』って、決め付けてない?」
「え?」
「『自分はこうでなきゃ』とか、反面『こういうふうにいられない自分は情けない』とか」
 言葉をなくして振り返ると、西城は笑顔のままで僕を真っ直ぐ見つめていた。
「夢がないならないでも良いじゃない。逆に、周囲が認めてくれない『好きなもの』があったら受け止めれば良い。どちらだとしたって、それが、ありのままの平岡くんでしょ」
「うん、まあ」
 曖昧に頷いた僕を見て、西城は話の続きのようにさらっと尋ねた。
「『Mazel tov』は、楽しい?」
「……楽しいよ」
 それは本音だ。
 今まで見たことのない世界。触れたことのない空間。関わったことのなかった空気。
 歌い、音を奏でる人と、それを楽しむ人たち。
 彼らは、本当に良い顔をすると気がついたのは最近のことだ。
 そして、そんな人たちの顔を眺めていることにささやかな幸福を覚える僕がいる。
「大切なのはきっと、好きなものを好きと感じて、楽しいものを楽しいと感じられる――そんな自分をちゃんと受け止めてあげる、たったそれだけのことなんだと思うな」
「うん……そうだね」
「難しいこと抜きにしてさ。平岡くん、今、本音の素直な顔してた」
 そう言われると、何だか無防備な自分を曝したみたいで居心地が悪い。
 自分の顔を無意味に撫で撫でしている僕に、西城はなぜだか安堵したような表情で僕を見上げた。
「平岡くんは平岡くんだよ。つまらない奴なんかじゃ、ないと思うな」



4.

 西城のことが、頭から離れない。
「2^xをYと置くと、4^x=2^2x=Y^2であるから、Y^2-2Y-8=0と置き換えられ……」
 頭上を数式が流れていく。俯くようにテキストに視線を落としながら、僕の視界には何も映っていない。
 ぼんやりとしているのは、きっと暑さのせいだ。
 寒いくらいエアコンの効いた室内で、そう言い聞かせる。
 西城のことが頭から離れないのは、ちょっと変わった人だと思うからだ。
 僕が今まで見たことのなかった世界に、当たり前にいる女の子。
 ライブハウスと言う異空間で、同じものを好きな仲間同士、大人も子供もなくわかりあって楽しく過ごす時間を分かち合って、自らの紡ぐ歌で人を笑顔にする。
 ただ大人しい女の子だと思っていたら、意外な芯の強さがあって、自分の人生に貪欲に向き合っている。
 僕と同い年なのに、自分の中で確固とした夢を持っていて、僕より一歩先の悩みを抱いている。
 世の中にはたくさんいるのかもしれないけれど、僕の周囲には今までそういう人を見たことはなかったし、だから少し目新しいんだろう。それだけだ。
 ……だけど、彼女のようになれたら。
 自分の中から何かを見つけ出して、それに向かって真摯に向き合うことが出来たら。
 そしたら、こんなふうに虚無的に生きる日々にも終わりを告げられるのかもしれない。
 そんなことを考えて、聞き流すだけの無意味な授業を終えると、予備校を出る。
 電車に乗って最寄の駅で下車し、チャリで駅から『Mazel tov』のそばへと差し掛かった。角の個人商店のところに、夕方別れたばかりの西城の姿を見つける。
 さっきは何も言っていなかったけど、今日は『Mazel tov』で歌ってきたのかもしれない。いや、それにしては、片手に持った旅行バッグは何なんだろう? ギターケースにしては少しおかしい。
 内心、少し首を傾げながらも、僕はチャリの速度を落として何気なく声を掛けた。
「西城」
 いつものように「平岡くん」とやわらかく目を細める彼女を想定する。
 ところが、予想に反して彼女はぽかんとした顔を僕に向けた。それから困惑を隠そうともせずに、僕の名前を記憶の中から探すような表情を見せる。
「……ええと、平岡、くん?」
 へっ?
 何を今更。
 まるで見知らぬ人に声を掛けられたかのような、ぎこちない素振り。
 思わず強くブレーキをかけて西城のそばにチャリを止めると、西城は困惑顔のままで僕を見上げた。その表情に違和感を覚え、僕も困惑顔で眉根を寄せる。
「どうしたの?」
「えっと……? あの、おばあちゃんの家からの帰りで」
「え?」
 おばあちゃんの家?
 僕と別れたのは十五時頃だったが、あれからおばあちゃんのところに行って帰ってきたんだろうか。こんな大荷物で? これじゃあまるで何日か泊りがけで行ってきたような様子だ。
 何かがおかしい。
 そうは思うものの、何がおかしいのかが良くわからない。
「行ってたの?」
「えと、はい」
 『はい』って。
 ぽかんとしたまま西城を見下ろしていた僕は、その表情を見てじわじわと不安感が押し寄せてきた。
 何だ? 何なんだ? この違和感、この距離感。
 夏休み前までの僕と西城だったら、こうだっただろう。委員会が同じだろうが、中学が同じだろうが、ほとんど口を利いたことはなかったんだから。
 だけど『Mazel tov』と言う共通項が出来て、学校以外で顔をあわせると言う親近感みたいなものは短期間とは言え少しはあったはずで……。
 ……え?
 『夏休み前までの僕と西城だったら、こうだっただろう』?
 何気なく浮かんだ自分の考えに、どんと胸を突き飛ばされたような気分になった。
 そう、確かにそれが一番しっくり来る。『Mazel tov』を介す前の僕たちの間柄ならば、こんなふうに声を掛けられればきっと西城はこんな反応を見せるんだろう。
 それって、どういうことだ?
「西城」
 あほらしいとしか言えない考えが脳裏を過ぎり、「馬鹿馬鹿しい」と思いながらも僕の口は思惑とは違う言葉を押し出していた。
「おばあちゃんの家って、どこ? いつから?」
 ――――あの西城は、本物の西城だったのか?
 そう、本当に馬鹿馬鹿しい考えだとわかっている。わかっているけど、確認をせずにはいられなかった。
 だって、そうじゃなきゃこの違和感はどう説明したら良いんだ?
 別人にしか、見えな……。
「東京の方で。八月に入ってから、今日まで」
 西城の答えに、僕はこれ以上何と答えて良いのかわからなかった。からかっているにしては、彼女の表情は真に迫り過ぎていた。
「そう。ごめん。変なこと言って。気にしないで」
 自分の言動を謝罪すると、僕は頭を整理しきれないままで、逃げるように再びチャリを漕ぎ始めた。
 何だよ、これ?
 どういうことなんだよ? これって。
 でも、だって、八月に入ってからずっと東京にいたはずの西城と、僕はこの夏中会ってたんだぞ?
 眩暈がした。
 動揺し過ぎている胸の中をどうして良いのかわからなかった。
 何が起こっているのか、全く答えが見つけられなかった。



 あの西城は、『誰』だったんだ?



 ***

「平岡くん」
 その日の夜、夢を見た。
 ぐるぐると西城のことを考えて眠りに付けず、ベッドの中で悶々と寝返りを繰り返していたのは覚えているが、そうしている間に一応眠りに落ちたらしい。
 夢の中、あの川沿いの道を、僕は西城と並んで歩いていた。
「ごめんね」
 僕が何かを尋ねる前に、西城が謝罪の言葉を口にする。見下ろした西城の表情は、僕が夏休みに入ってから知っていた西城の表情で、それを見てようやく安堵の息が漏れた。
 会えた。
 夢だとわかってはいるけれど。
「君は、誰なの」
 現実でここを西城と歩いていた僕はいつでもチャリを傍らに押していたが、夢の中の僕は手ぶらだ。
 チャリを間に挟まない分、西城との距離が少しだけ近い。
「私は、『西城』だよ」
 僕の問いに、西城が切なく目を細める。僕は顔を横に振って否定した。
「さっき会った西城と君は、別だろ?」
「別じゃないよ。同じ。私も彼女も、同じ『西城綾音』」
 西城が足を止める。
 真っ直ぐ僕を見つめる瞳は嘘をついているようには見えず、と言って信じることも出来ず、僕は自分から目を逸らした。
「じゃあ、何で謝るんだ?」
「驚かせてしまったから」
 そう言って足を止めた西城は、僕を促すようにして川と道の間の斜面へ足を向けた。短く刈り込まれた芝生が敷き詰められている。現実の川沿いは、雑草が茂り放題でぼうぼうだけど。
「じゃあ西城。君は、西城の何なんだ?」
 妙な尋ね方だとわかってはいるが、他に言い方が思いつかなかった。西城も僕の言葉に吹き出すことなく、川面に視線を定めたまま静かな表情で口を開いた。
「私は、西城綾音の『想い』」
「『想い』?」
「そう」
 小さく頷いて、西城の小さな手が僕の腕を引っ張る。
 引かれるままに、僕は西城と並んで芝生の上に腰を下ろした。
「ねえ。私が前に言ったこと、覚えてる?」
「前に言ったこと?」
「本当の自分はどこにいるのかなとか、自分の本当の気持ちはどこにあるのかなとか、考えたことはない?って」
「ああ」
 『Mazel tov』からの帰り道だ。
 西城が、目を逸らし続けていた僕の心の底を引っ張り出した言葉。
「あるよ」
 ごろんと芝生の上に寝転がる。見上げた空はぼんやりと白く、濃い霧が漂っているように見えた。
「鏡を見ると、時々そんな馬鹿なことを考えてた。この中の僕は、何を考えているんだろう。この中の僕は、僕じゃない僕なんだろうか」
「……」
「もしかすると、僕がここに閉じ込めてるのかもしれないってさ。まあそんな馬鹿なことあるわけないってわかってるけ……」
「そうだったら、どうする?」
「え?」
 転がったまま見上げた西城は空を仰いでいて、その表情は僕からは見えない。
 だけど、冗談を言っているつもりではなさそうなことは、声音から感じ取れた。
「私も、私がここにいる理由はわからない。だけど西城綾音はね、自分を押し殺して気持ちを閉じ込めて、そうして生きてるの。嫌われるのが怖くて、周囲から浮くのが嫌で、人と変わったことをしたくなくて。なのに音楽を好きで、夢物語だと思いながらもいつかはプロになりたいなって夢見てる。動き出す勇気がない。口に出す勇気さえない。……平岡くんと多分同じ」
 そこで西城は僕を見下ろして、どこか儚い笑みを浮かべた。
「周りの誰かの評価で、自分の存在価値を探してる。そうしないと居場所が見つけられないから。口に出せない気持ちを抱えて」
「僕は、西城と違って夢見る何かさえないよ」
「でも自分の価値観に自信がなくて、周囲の価値観で自分の立ち居地を測って、自身を抑圧してるところは同じじゃない? 素直って、一番難しい」
 そう言って、西城もころんと僕の隣に寝転んだ。霞がかったような白い空を眺め、二人で並んで横たわる。
「みんな、自分に素直に生きたいのに。素直に生きようとすると、きっと問題が起きるの。そんなふうになりたくないから、そう思うと今度は自分を殺すことになるの」
 あの時言っていた言葉が、西城自身のことだと思ったのは間違いではないらしい。
「本当はもっと上手く立ち回れば良いのかもね。自分も殺さず、問題も起こさず。だけど、なかなか難しい」
「うん……」
「だから自分の気持ちを飲み込む。全てを笑顔に変えて、気持ちは曖昧な言葉に乗せて。そうしてるうちに、わからなくなるの。自分がどうしてここにいるのか」
 その気持ちは良くわかるので、僕は声を出さずに小さく頷いた。
 周囲に合わせて、周囲の期待に応えようとして、そうしていくうちに失っていく自分自身。
 僕は、僕がどんな人でありたかったのかがわからない。
「飲み込んで、閉じ込めて、だけど消えてはくれなくて、抑え付けた自分自身をどこに解放すれば良いのかがわからない。……そうして生まれたのが、きっと私」
 そう言って体の向きごとこちらに向き直った西城は、消えそうに儚く微笑んだ。
「だけどずっと鏡の中で、私は西城綾音の影でしかなかった。こうして平岡くんの前に出て来たのは、きっと、平岡くんが私を見つけてくれたからだよ」
 見つけて?
 隣で僕を見つめる黒目がちの瞳に、終業式の日の光景が思い出された。
 福田と並んで向かった昇降口、向かう途中の鏡の中に――西城の姿が。
 通り過ぎたはずの西城、だけどなぜか鏡の中の残像だけが、僕と目を合わせて微笑んだような気がした。あの瞬間、僕と彼女の何かが同調したんだ。
「平岡くん」
「うん」
「好きなものって、何?」
 僕を見つめたままで問う。間近で見つめる視線が照れ臭くて、僕は空を仰いだまま、その答えを考えた。
「夢なんて大げさなものじゃなくて。もっとシンプルに。好きなもの、笑顔になれるもの、小さな幸せを感じるもの。眠い時に潜るコタツ、真夏の昼間に浴びるシャワー、陽だまりでコロコロしてる猫、シャボン玉、クリームたっぷりのケーキ」
「それ、西城の好きなもの?」
「そう」
 並べて言っているだけで幸せそうな表情が可愛らしく、僕は思わず吹き出した。
 それから、僕も言葉を探してみる。
「良く冷えたコーラ、晴れた日曜日、かゆいところを掻いてる瞬間……」
 眉根を寄せて空を睨むように考える僕に、今度は西城が吹き出した。おかしなことを言っただろうか。
 それを見て、一つだけ伝えたいという気持ちが湧き上がった。
 どうせ夢の中だ。何を言っても、夢の中の出来事だ。
「……鏡の中の、西城」
 沈黙が下りた。
 夢の中なのに鼓動が速い。呼吸が苦しくなったような気がして体を起こし、ちらりと西城を見下ろすと、西城は横に寝そべったまま耳まで赤くしていた。その表情が、泣き笑いのように見える。
「自分のこと、つまらない奴だなんて言わないでね」
 僕の言葉には答えず、西城は体を起こして泣き笑いのような表情のまま、白い歯を覗かせた。
「そんなこと誰にも決められないよ。ありのままを認めてあげれば良いじゃない。好きなものがあって、好きなものを好きと言えて、ありのままの自分を自分が受け入れてあげられる。大切なのはきっと、それだけのことなんだ」
 西城の姿が、一瞬霞んだような気がした。
「それだけできっと、楽しく生きていく糧になっていくから。たくさんの好きなものの中に、きっと本当の好きなことが、見つかるはずだから。自分を表現できる場所を、いつか見つけることが出来るはずだから」
「そうかな」
「そうだよ。『西城綾音』は、そのことにようやく気がついたの。自分の想いを閉じ込めていても、自己満足にしか過ぎないこと。同じ自己満足なら、自分の気持ちをほんの少し解放してあげること」
 その言葉に、僕はそっと目を見開いた。
 抑圧されていた西城綾音の『想い』が生み出した西城。西城綾音が抑圧することをやめるのだと決めたのなら――。
「西……」
「ありのままの自分を、好きでいてあげて」
 咄嗟に口を開きかけた僕を制すように片手を挙げる。真っ直ぐに僕を見据えた黒目がちの瞳が、少しだけ、どこか寂しげな色を宿して微笑んだ。
 その笑顔を最後に、西城の姿は霞んで消えた。





エピローグ

 あの夏の出来事は、一体何だったんだろう。
「平岡っ。真っ直ぐ帰るの?」
 冬も間近に迫った十一月の空気は冷たい。
 下駄箱でマフラーを巻き直しながら振り返る。今日は部活がないのか、福田が追いついてくるところだった。
「どっか寄って帰ろうよ」
「パース。バイト」
 短く答えて、スニーカーに足を突っ込む。福田が僕に並んで歩き出した。
「平岡、最近ちょっと変わったよね」
「僕が? そうかな」
「ちょっと成績も落ち気味だし」
 どこかからかうように笑う福田の言葉に苦笑する。言葉を返そうと僕が口を開きかける前に、福田が続けた。
「でも、最近の平岡の方が明るくて付き合いやすい」
 思わず言葉を失った。
 校舎を出て歩き出しながらしばらく笑いをかみ殺すようにして、それからようやく福田に答える。
「勉強するより有意義なことを見つけたから」
「バイト?」
「バイト」

 福田と別れて地元に戻った僕は、その足で真っ直ぐ『Mazel tov』に向かった。
 夏休みの間だけのはずだったバイトは、今もそのまま続いている。
 夢なんてはっきりとしたものは見つけられていないけど、もっとこの場所でこの人たちを見ていたいと言う『漠然とした楽しいこと』だと思うから、続けることにした。
 あれからあの西城は、姿を現すことがない。僕とあの夏、並んで川沿いの道を歩いた西城は、もうどこにもいない。
 あれは何だったんだろう。今も時々思う。
 『Mazel tov』の誰も『あの西城』を覚えている人はおらず、全ては僕の記憶の中だけにしかないらしい。もちろん西城綾音本人は、夏休みに『Mazel tov』を訪れた記憶は一度もない。
 僕の幻想――そう片付けてしまうのは簡単だった。
 だけど、それだけでは割り切れないものもある。
「平岡くん」
 『Mazel tov』のそばまで差し掛かったところで、声をかけられた。振り返ると、ギターケースを肩に引っ掛けた西城綾音が笑みを覗かせて立っていた。
 あの夏を過ごした西城じゃない。『現実の』西城。
 だけど。
「今日、歌うんだ」
「うん。学校の友達も、何人か見に来るかも」
「へえ」
 並んで店の方へ歩き出す。
 あの夏を境に、西城は抑圧してきた自分を解放することに決めたらしい。彼女本人にどんな変化があったのかは僕は知らないけれど、二学期に入って、西城は初めて『Mazel tov』を訪れた。学校の友達なども連れてきて、時々この店で歌を歌う。
 店員としてバイトをする僕とは、それからようやく少しずつ口を利くようになった。
 ……それがきっと、あの『西城』が姿を現さなくなった理由なんだろう。抑圧されることがなくなった彼女は、想いの化身を作り出す理由がなくなった。
 僕はそう思っている。
「平岡くん、大分、音響機材に詳しくなってきたよね」
 店へ続く階段を上りながら、西城が僕を振り返って笑う。
 あの夏と同じじゃない、だけど同じ、西城の笑顔。
「そうかな。まだ専門的なことなんてわかんないよ」
「将来は音響エンジニアかな。私の専属エンジニアとか、かっこいいよね」
「その前に西城が専属のエンジニアを必要とするようにならなきゃだな」
 将来の夢なんて、まだまだ漠然としかわからない。
 だけど、小さな好きなことを、ささやかな幸せを見逃さないように大切にしてみよう。
 その中からきっと、自分の本当に大切なものを見つけられると信じて。
 誰よりもまず、自分自身がありのままの自分を評価してやれるように、素直な気持ちを大切にしてみよう。
 西城が、僕にそう教えてくれた。
「おはようございまーす」
 西城が扉を開けると、ドアにかかっていた木の札が大きく揺れた。



 ”Mazel tov”――”幸運を祈る”




Fin.                        

2009/05/11
▼あとがき
◆一言感想フォーム◆
何ぞございましたら、宜しければ……<(_ _)>








◆一応あとがき◆

 このお話は、某サイトGW企画への投稿用に書いた作品でした。
 私的なことですが、『匿名』と言うところに強く興味を惹かれておりまして、前々からやってみたいと思ってはいたのです。
 そしてようやく参加出来ました。それで満足。
 物語としては、ある意味わたしのデフォが(前短編以上に)全開になってしまったものと言えるんじゃないでしょうか。
 音響絡みで、淡々としてて、臭くて、硬くて、キャラが薄い。ああああ……そんなデフォは嫌だ……。
 すみません。
 とは言っても、別に見せられないシロモノになったとも思ってないです。
 文章そのものには、今の自分では概ね不満のないものが書けたと自分では思っています。
 物語については、いろいろ再考の余地があるとは思っていますが。
 ちなみにタイトルについては、改題です。元々は「僕の場所」と言うタイトルでした。サイトにアップするに際して、変えました。

 何はともあれ、そんなGW企画作品でした。
 お読み下さった方、本当にありがとうございました。