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その箱を引き出しの奥に見つけた時、美和子の胸に甘さ混じりの痛みが走った。 部屋中のあらゆる物を引っ張り出した散らかり放題の部屋の中、勉強机の引き出しごと外して床に置いてみる。 箱を取り出すと、数年の間手に取ることがなかったせいか、埃っぽい。 軽く表面の埃を手で払うと、指先が黒く汚れた。先ほどまで本棚を拭くのに使用していた雑巾で、とりあえずは指先を拭う。 それから美和子は、そっと箱の蓋を開けた。微かに胸が高鳴った。 中に入っているのは、金色のボタンと小さなメモだ。 開ける前からわかっていたのに、実際に目にすると不思議な安堵が沸き上がる。 そして蘇る、切ない思い出。 「頑張ってるかな」 小さなメモ、いや、それはノートの切れ端だ。綺麗とは言えない文字が並んでいる。――『お互い頑張ろう』。 それは、中学の時に当時クラスメートだった男の子に貸したノートに書かれた落書きだ。 彼にしてみれば、きっとつまらない出来心……しかし、隣の席でこっそり彼を見つめることしか出来ずにいた美和子にとって、その落書きは宝物になった。 口元に微笑みを浮かべ、美和子は目を細めた。それから隣に寄り添うボタンを摘み上げ、記憶を蘇らせながら、窓の外に視線を向けた。 二十七年間暮らしてきたこの部屋の窓からは、児童公園の大きな桜の木が見える。 ちょうど満開の花びらが、昼下がりの優しい日差しの中を風にひらひらと舞い散る様が見て取れる。 ――この箱に想いを閉じこめたのも、この季節だった。 中学校に通う三年間、胸の奥で育てて来た想いは受け入れてはもらえず、クラスメートだった少年は困ったように「代わりに……」と言った。 「第二ボタンはあげられないけど、代わりにこっちのボタンでも良い?」 そうしてくれたのが、学生服の袖についていたこのボタンだ。 中学を卒業すると同時に彼への淡い恋心も卒業しようと、美和子は泣きながら彼の落書きとボタンを引き出しの奥にしまった。 あれから、十二年。 「十二年かぁ……」 手のひらでボタンを転がしながら、一人ごちる。最近の子は、『第二ボタン』なんて、もうやらないのだろうか。それともやはり卒業シーズンの風物詩だろうか。美和子の時代には、まだかろうじて残っていた風習だけれど。 あの子は今、どうしているだろう。 あどけなく笑っていた彼も、今頃は立派な社会人になっているかもしれない。もしかすると、父親になっている可能性すらある。 「美和子ー」 記憶の奥底に残る少年の姿を蘇らせていると、階下から呼ぶ声に意識を引き戻された。 はっと現実に戻り、片付けるつもりで散らかる一方の自室を見回す。 「終わったかー?」 美和子を呼ぶ青年の声は、階段を上がる足音と共に近付いてきた。ボタンを箱の中に戻し、美和子は階段の方を振り返った。 「何だ、散らかし放題だな」 「うん。いろいろ引っ張り出してると、何だか思い出しちゃって」 姿を現した青年が、呆れたように美和子を見下ろす。 「俺も何か手伝おうか?」 「ううん。大丈夫。お父さんとの将棋は終わったの?」 「とりあえず休憩。なかなか放してくんないなあ」 「ウチには将棋なんて打てる人がいなかったもの。『息子』に期待してるんだよ」 辟易したように、青年が戸口へしゃがみ込む。その様子にくすくすと笑いながら、美和子はごみ袋を引き寄せた。 「さて。私もそろそろ一度、休憩しようかな」 そしてもう一度、名残を惜しむように手の中の箱に視線を落とした。 この箱を閉じた時は、たくさん泣いた。本当に本当にたくさん泣いた。 だけど、あの頃の自分はまだ、未来にこんな穏やかな幸福が待っていることを知らなかった。 「思い出の品とか、いろいろ見つかった?」 まだためらい、迷い、そしてようやく袋の中に箱を押し込む。過去の傷痕は、心の中だけにそっとしまい込んでおけば、それで良い。 これからの人生はずっと、彼と並んで歩いて行くのだから。 「ふふ。ちょっとね」 わざと意味ありげに笑ってみせると、青年が少しふてくされたような顔をする。 それがおかしくて、そして幸せで……美和子は、立ち上がりながら青年に手を伸ばした。 「でも大丈夫」 泣いた夜も、胸を抉るような痛い想いも、確かに通り過ぎて今のこの場所に続いている。 だったらきっと、これから出会うだろう苦しい出来事も、いつか振り返って笑えるのだろう。そういう日が必ず来るのだろう。 「過去はみんな、置いていくから」 ――あの頃の私に、伝えられるものなら伝えたい。 あなたの未来には、幸せが待っている。 |
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Fin. | |||||||
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2009/03/19 ▼あとがき |
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◆一応あとがき◆ これも投稿を視野に入れて書いたものです(ご存知とは思いますが、別に公募とかそういうものじゃありません)。 が、実際に投稿したものとは、締めの文章が異なってます。それは反省ゆえとのことで……。 初めて、掌編と言える長さのものに挑戦しました。 元々大して捻りのある話を書ける奴ではないですが(笑)、今回に関しては本当にその辺は何も考えずに書きました。 「どうすれば山場が出来るのか」「どうしたら唸ってもらえるのか」などは一切考えず、書きたいように……素直に素直に、感じたままの素直なものを書きたくて書いております。 ゆえにド真ん中ストレート、しかしながらこれが私のデフォなのでしょう……。 季節は春――少しはお話から春らしさを感じ取って頂けるものになっていれば良いのですが。 読んで下さって、ありがとうございました。 |