▼Day By Day 〜年忘れの願い〜 
ストレートな現代モノです。不思議なし、謎なし。
クリスマス・イブの夜に迷い込んだ風船が、僕の人生を変えるきっかけだった……。


【プロローグ】

 毎日が、同じことの繰り返しに見える。
 同じことを、同じように、ただひたすら……これまでも、これからも。
 いつからだろう?
 いつから、人生はこんなに退屈なものになったんだろう。
 みんな、こんなふうなのか?
 それとも僕の人生が退屈なのか?
 何かをしたい。
 だけど何かを出来る行動力も能力もない。……そして、自信も。
 僕には何も出来ない。
 僕の周りにも何も起こらない。
 ただひたすらに、退屈な毎日―――――……。





【 1 】

「うぉー、寒ぃー」
 パチンコ屋の看板を持つ指先が、かじかんで冷たい。
 したくもないサンタの衣装には一応手袋もついているものの、こんな安い手袋が役に立つだろうか。否。
 十二月二十四日――例年通りの寂しいクリスマス・イブ。
 自分に幸せがないと、どういうわけか他人は誰も彼も幸せそうに見える。
「台移動オーケーですよー! 新台入荷! お願いしまーす!」
 なぜパチンコ屋のティッシュを配るに当たって、この季節はサンタファッションが必須アイテムなのか。
 赤白の服に身を包んで、商店街を幸せそうに行き過ぎる人々に向かってティッシュを差し出しながら、一抹のそんな疑問。
 大体、イベントコスチュームは、可愛い女の子が着るから意味があるんだ。僕のような黒ブチ眼鏡の冴えない男がしていては、興醒め極まりない。
「お願いしまーす!」
 どこかの店から流れて来る陽気なクリスマス・ソング、それに混じるどこかセンチメンタルな鈴の音。食べ物の匂いとはしゃぎ声。
 ここぞとばかりに化粧をした商店街の頭上には、今しもソリに乗るホンモノのサンタが過ぎって行きそうな澄んだ夜空が見える。
 サンタはきっと、良い子のところに訪れるんだろう。僕の小汚いアパートは、奴の軌道に掠りもしないに違いない。
 あー、あの彼女可愛いなー。隣のむさいの、少し離れろよ。あーっ。良く見れば手なんか繋いでやがる。一体どんな汚い手段を使えばあんな愛らしい子がこんな奴の彼女に……。
「お兄ちゃん、ちょっとそのティッシュ、この紙袋にこっそり詰めてくれないかねえ。どうせ配らなきゃならないんでしょ?」
 年齢の数だけ彼女不在の歴史を積み重ね、一体いつまでこの残念な記録を更新し続けるんだろう。先月、二十三年目を無事更新した。
「ちょっとお兄ちゃん、聞いてる?」
 僕の目の前にはティッシュを乞うばばぁだけだ。
「お兄ちゃん、ケチくさいねえ。そんなんだからクリスマス・イブにティッシュ配ってんだよ」
 ぐさーっ。
 クリティカルヒット。
 『ばばぁは鈴木一郎からティッシュを手に入れた。』――そんな一昔前のゲームのフレーズが脳裏に過ぎっている辺り、いよいよ末期症状かもしれない。
「はあああ」
 繊細な青年の心に致命傷を負わせたばばぁは、自らの手でダンボールから紙袋に戦利品を詰めている。止める気力もない。
「んじゃあね、お兄ちゃん、ありがとね」
 立ち去る後ろ姿を見送って、本日何度目かの深いため息。
 冴えねーなー、ほんと。
 何か良いこと、ねぇかなあー……。

 ***

 バイトを終えて、アパートに帰りついた頃には二十時を回っていた。
 誰も待つ人のいないアパートの一室は、暗く冷たく、冷蔵庫を思わせる。
 あー、寒い。何が寒いって心が寒い。懐も寒い。友達は大方帰省しちゃったし、僕は帰省する金もないし。
「僕も一度くらい誰かのサンタクロースになってみたいよな。そんな金もないけどさっ」
 眼鏡を押し上げて電気をつけると、僕はダウンジャケットを床に放り出した。手入れされずに伸びてしまった前髪が、視界にかかって少し邪魔くさい。
 チカチカともったいぶるように点滅をした電気が、雑然とした部屋を照らす。
 隅に積まれた漫画の山と、それを更に覆い隠さんとする脱ぎ捨てた服。
 ゴミこそ散らかしていないけど、正体不明の郵便物だとか今年の初めに買った雑誌だとかは、ゴミと紙一重だ。
「腹減ったなあー」
 会話する相手がいないから、独り言を言うしかない。癖になりそう。
「あ?」
 しみったれた安物のカーテンを閉めた瞬間に、視界の隅に何か異質なものを見た気がした。
 今、何か窓の外に浮いてたような。
 閉めたばかりのカーテンにもう一度手をかけて開ける。部屋を映す暗い窓の向こうに、丸いものが揺れていた。
 カラリと小さな音を響かせて窓を開ける。ひぃー。空気が冷てぇっ。
「何だこりゃ?」
 そこでふわふわと揺れているのは、オレンジ色の風船だった。
「何でこんなとこに」
 小さく呟く僕の前髪を、冷たい夜風が撫でる。
 手を伸ばすと、風船は他愛なく僕の手中に収まった。寒いので、そのまま風船を部屋に引きずり込んで窓を閉める。
「ん? 重石?」
 風船から垂れ下がる紐の先には、重石のような丸い鉄がついていた。
 このせいで遥か上空には飛んで行けなかったんだろう。それに、風船の中に何か入ってる。
「おっ? 何だ? 紙? 手紙?」
 ラブレターっ?
「そんなわけあるか、あほ」
 誰も突っ込んでくれないので自分で突っ込みつつ、不覚にもわくわくする自分がいる。いや、ほんの少しだけど。
 日常の中の小さな変化、これだけでも僕のようなしみったれには嬉しいものだ。
 とりあえずコタツにスイッチを入れると、僕はもぞもぞと足を突っ込んだ。中は驚愕の寒さだったが、風船に集中することで気を紛らわせることにする。
 えーと、どうやって取ればいーんだろうな。割るのか? 割るの? やだなあ、それ。何か縁起悪そーじゃん。
 『パンッ!』と盛大な音が上がると、わかっていてもびっくりするし。
「あ、そうだ。セロテープ」
 部屋を漁ってセロファンテープを発掘し、それを風船に貼り付けてそっと爪楊枝を刺す。僕の期待通りにぷしゅーっと静かに空気の抜けた風船の口をハサミで切ると、僕はようやく中に入っているものを手にすることが出来た。
 折り畳まれていたのは、一辺が五センチくらいの黄色い折り紙だ。内側に文字が書いてあるのが透けて見える。期待を裏切らない好調な流れだ。
「そんで開けると、『ばーか』とか書いてあったりするんだよな」
 あんまりわくわくすると、後でがっかりした時がまた嫌なので、一応自分で釘を刺してからゆっくりと紙を開いた。
 ――早く退院して翼ちゃんと遊びたいな 泉水
「うぉぉぉぉ」
 何と妄想を羽ばたかせるアイテムなんだ。
 繊細そうな細く綺麗な文字に、思わず薄幸の少女を幻視した。
 良く見れば、風船の残骸には『元町医療組合』と言う白い印刷と十字マークが入っている。その下に五軒の病院名。
 病院……病院かあ。

 ――泉水は幼い頃から病弱で入退院を繰り返している。そのせいか、年頃の女の子にしては細過ぎる体と、透き通るような白い肌の持ち主だ。
 ただし、顔色は蒼くてはいけない。頬がほんのりと薔薇色なのは美少女の鉄則だ。
 腰まで届く艶やかな黒髪には、泉水の願いが込められていた。健康になったその時には長い髪を切って、青空の下へ友達の翼ちゃんと一緒に駆け出すのだ……

 貧相な想像力の限界で、頭の中の泉水ちゃんは顔にモザイクがかかってしまったが、僕は脳裏に過ぎった陳腐な想像に胸を痛めた。
 個人的な好みを言えばもうちょっと繊細そうな名前が良かったけど、贅沢を言ってはいけない。
 重要なのは、『泉水ちゃんが願いを託して空に放った風船が、クリスマス・イブの夜に僕の元へ届けられた』と言うことだ。
 そうだ。今日はクリスマス・イブなんだ。
 サンタ様の軌道の中には、意外と僕のアパートも入っていたのかもしれない。
 きっと御サンタ様が、二十三年間犯罪も犯さず生きてきた僕にご褒美をくれたのだ。
「どんなコなんだろうなあ」
 風船ひとつで妄想を羽ばたかせる僕は、もしかすると世界一可哀想だったかもしれない。

 ***

 翌二十五日。
 クリスマス当日である今日、街のテンションは昨日と比べるべくもなく低い。なぜか人は祭りの前日にこそ盛り上がるものらしい。
 天気は今日も快晴で、白みがかった空に渇いた冷たい風が吹いていた。
「えーっと、こっち? かなあ」
 どうしても手紙の主に会ってみたい。いや、会いに行くのは気持ちが悪いから、見てみたい。
 チラ見でいーんだ、チラ見で。声なんてかけられるわけないんだから。
 まあ、はっきり言って、年末年始の予定など新品のキャンバスのようにまっさらで暇だし。
 バイトは十三時からだし。
 することないし。
 そんな言い訳を自分に用意して、風船に印刷されていた病院をネットで調べると、僕は順番に電話をかけてみた。
 すると、その中に一つだけあったんだ。クリスマス・イブの日に、風船を飛ばしたと言う個人病院が。
「昨年の年末キャンペーンで協会が作ったものなんですよ。で、余ってたものが大掃除の時に出て来たらしくてね。ウチ、小児科もあるし、入院患者さんもいるから、良かったらなんてもらっちゃって。せっかくなんでね、入院してる人たちに配って」
 それだ!
「泉水さん? ええ、いますよ。子供たちと仲が良いから、事務さんに頼んで風船を飛ばす、あれ、水素? なんかそんなの借りてやってたみたいですけどねえ」
 僕の中で泉水ちゃんは、子供好きで優しく清楚で可憐な美少女に育ってしまった。
 クリスマスの夜に、彼女の手紙が僕の部屋に迷い込んだのも何かの縁だろう。そう。そうに違いない。
 こんなチャンスをふいにしては、サンタさんのバチが当たる。
 そうして僕は、ネットで調べた通りに駅前からバスに乗って、颯爽と病院を目指している。……見るだけだってば。本当に。
 『飯山バス通りクリニック』――泉水ちゃんはそこにいるはずだった。

 病院は、バスを降りてすぐにわかる場所にあった。小児科があると言うだけあって、待合室には子連れのお母さんが目に付く。
 個人病院ながら入院施設も備えている『飯山バス通りクリニック』は、さすがにそれなりの大きさだった。三階建てだ。
「ええと、すみません。電話をした鈴木と言う者ですが、泉水さんの病室は……」
 どきどきする鼓動を抑えて受付に立つと、年配の看護婦さんが母親のような笑顔をくれた。「ああ、はいはい。泉水さんのお見舞いですね」と愛想良く答える。
「泉水さん、外科患者さんですからね、三階なんですよ。えっと、三〇一号室。今ね、泉水さんともう一人患者さんがいらっしゃいますからね、お静かにお願いしますね」
「は、はい。わかりました」
 看護婦さんに礼を言って、僕は階段へ向かった。玄関口で履き替えたスリッパが、ぺたんぺたんと間抜けな音を立てる。
 診察を受ける目的じゃないのは僕だけらしく、階段を上がる人間は他にいなかった。
 ツンと鼻の奥にしみこむような、病院独特の匂い。余り入院患者は多くないのか、二階も三階も静かだ。
 階段を上り切って目的の病室の前に立つと、僕はそこから先、どうして良いのかわからなくなった。三〇一号室の扉が閉まっていたからだ。
 しまった、どうやってチラ見をする気だったんだ? これじゃあ確実に会ってしまう。散髪しておけば良かった。もう少しましな服を着てくるべきだった。どうして僕は手ぶらなんだ。想像力の欠如がこんなところでアダになろうとは。
「わあ」
 ドアを開ける最後の勇気を出せずに佇んでいると、ドアの方が勝手に開いた。
「あら、ごめんなさいねえ。お見舞い? 中に入ったら?」
 ドアを開けたのは看護婦さんだ。これまた年配。白衣の天使はどこにいるんだろう。
「あ、いや、はい、その」
「どっち? 泉水さん? 本橋さん?」
「あの、泉水さん……」
「ああ、泉水さんね。ごめんなさいねえ、今ちょっと散歩に行ってるのよ。待ってたら? それか、中庭だと思うから行ってみても良いけど」
 散歩っ?
 僕は神が慈悲をくれたような気がした。中庭で散歩をしているんだったら、面と向かって会わずに済むかもしれない。
「ありがとうございますっ」
 看護婦さんが一瞬天使に見えた。
 僕は一転して元気に階段を降りた。一階に下りると、廊下の突き当たりにドアが見える。ガラス越しに見える外の風景から考えるに、そこが中庭なんだろう。
 ありがちな銀色のドアノブを回して、押し開ける。冷たい風が中に吹き込んできて、僕は慌てて外に出るとドアを閉めた。

 中庭は綺麗に芝生が敷き詰められていた。
 季節柄、鮮やかなグリーンと言うわけにはいかなかったが、整備されているおかげか綺麗に見える。
 夏に木陰を作るためか、大きなプラタナスの木が太い枝を広げていた。黄色く色を変えた葉が、カサカサと風に煽られて舞い落ちる。
 その根本に、ベンチが置いてあった。そこに一人の男が座っている。年齢は僕と変わらないくらいだろうか。それとも上だろうか。
 日焼けの名残がまだ残る浅黒い肌をしていて、短く刈り込んだ髪がいかにも体育会系と言う感じだった。ガタイも良い。
 彼もまた入院患者らしく、パジャマを身につけている。左足を骨折をしているのか、松葉杖を抱えていた。
 いや、体育会系の野郎なんかどうでも良い。敢えて言うなら、気持ちが悪いからプラタナス舞う中庭で物思いにふけらないで戴きたい。
 そんなことより、『泉水ちゃん』はどこにいるんだ。見渡す限り、中庭には僕と彼以外の姿はなかった。
 もはや恥も外聞もなくきょろきょろとまだ見ぬ彼女の姿を探し、ゆっくりと歩く。
 そして僕は次の瞬間、かつてないほどの衝撃を味わった。――『泉水 大樹』。
「もしかして、泉水さん……です、か?」
 僕は、彼本人ではなく、松葉杖にくっきりとマジックで書かれた文字に視線を釘付けにしながら、冬の風よりも乾いた声を押し出した。
 一瞬きょとんと僕を見上げた男は、やがて笑顔で屈託なく頷いた。
「はい。泉水です」




【 2 】

 こんな残念なことがあって良いはずがない。
 お前だけは、あんな綺麗な文字で風船に手紙を入れて飛ばしたりしちゃいけなかった。
「いや、あれを見てこうしてお見舞いに来てくれる人がいるなんて、びっくりしました」
「いえ……はは……」
 僕と一緒に病室に戻って来た泉水大樹は、ベッドの中で照れたように人の良い笑みを浮かべた。近くの椅子を引き寄せて、僕も曖昧に笑いながら腰を下ろす。
 そう、確かに僕は疑問を覚えるべきだったんだ。看護婦さんたちが、他の患者を名字で呼ぶのに、『泉水さん』だけは下の名前じゃあおかしい。年頃の女の子のところに知り合いでもない男が尋ねて来たら、警戒もなく通してくれるはずがない。
 僕は、最初から罠に嵌められていたんだ――!
「嬉しいです」
「あ、や、はは、そうですか?」
 良い奴だな。
 泉水くんの素直な笑みに、僕も思わず素直に照れた。
「年末も近付くと、ほら、帰省する奴も多いじゃないですか。みんな忙しいし、顔出してくれる奴も減りますから」
「あ、そうか。そうですね」
 暇なのは僕くらいのもんですよね。
「でも、病院も年末は休みでしょう? いつまで入院してるんですか?」
「俺は二十八日には退院しますよ。入院って言っても、足の怪我は入院するほどじゃないし。怪我した時に頭も打ったから、場所が場所だし様子だけ見ましょうねってことで」
 何だ。あんな不治の病みたいな手紙を書いてるから、ずっと入院してるのかと思ったじゃないか。
 明るく爽やかなその笑顔に、僕の妄想の羽がもぎ取られていく。
「でも、ずっとここにいたんじゃつまんないですよね」
 まあせっかく見舞いに来てしまったんだし、事情も話してしまったことだし、話題を繋ごうと僕は病室を見回した。
 四つあるベッドのうち、窓際の一つにはおじいさんが寝ている。耳が遠くて大音量になってしまっているのか、微かにイヤフォンからラジオの音が漏れていた。おじいさんが時々口をもぐもぐさせているのが見える。
 泉水くんのベッドは、対角線に位置するドア際だった。読みかけなのか、枕元には青年漫画誌が一冊置いてある。
「まあ、そうですね。でももうすぐですから」
 それから泉水くんは、ただでさえ大きいとは言えない目を柔らかく細めた。
「それに、下に子供たちがいるんですよ」
「子供たち?」
「入院している小学生」
「ああ」
「あの風船、えっと……」
 話しかけて、泉水くんが言葉に詰まった。僕を見つめて言葉を選ぶような顔つきをするので、そこで僕は自分がまだ名乗っていなかったことに気がついた。
「あ、すみません。僕は鈴木一郎です」
 中二病と揶揄されるような、一見して読めない名前に憧れる。
 字面の全てが手抜きを疑いたくなるような名前だが、それでも僕が長男ならまだ意味を認めて許そう。だけど三男である現実を踏まえると、親が名づけを放棄したとしか思えない。
「鈴木さんですか」
「あ、はい。えーと、鈴木でいいですよ」
「じゃあ俺も泉水でいいです」
 嫌だとは言いにくい。さようなら、『泉水ちゃん』。
「その、鈴木さんがね、拾ったって言う風船。あれもね、病院が昨日子供たちに風船をあげてね。手紙を書いて飛ばすんだーなんてやってたから、俺もつい一緒になって」
「ああ、そうだったんですか」
「本当に拾って読む人がいると思ってなくて、ちょっと調子に乗った書き方しましたね。すみません」
「……ああ、そうだったんですか」
 すみませんね、拾って読んだ挙句に来ちゃいまして。
 頷きかけて、僕はふと手紙の内容を思い出した。今まで妄想の方に絡め取られていて気にしていなかったが、手紙の中にあった『翼ちゃん』と言うのは誰なんだろう。
「そう言えば『翼ちゃん』って誰ですか? 入院してる子供? あ、彼女とか」
 何気なく尋ねると、泉水くんは照れたような笑みのままで顔を横に振った。
「いや、違います。子供は子供ですけど、それはよその子」
「よその子? ああ、入院患者じゃなくて」
「はい」
「子供、好きなんですね」
「いや、そう言うわけじゃないんですけどね。翼のおかげで子供が可愛く見えてきたって言うか」
 泉水くんはそこで少し言葉を切ると、ちょっとした秘密を口にするような顔をして、改めて僕に視線を戻した。
「俺が入院なんかしてるのも、翼を助けたからなんですけどね……」

 ***

 僕は、本当に暇人なんだな。
 知ってたけど、しみじみとそう思う。
 泉水くんと別れて病院を出た僕は、そのままバスには乗らずに道路沿いの案内板の前に立った。
 そこで『元町ひまわり保育園』の場所を確認すると、歩き出す。
 泉水くんの言う『翼ちゃん』がそこにいると思われたからだ。
 別に、いくら僕だって保育園に通う子供を愛でる趣味はない。だけど……泉水くんがちょっと気にしてたみたいだから。
 時計を見ると、十一時だった。もちろん子供たちが帰るような時間じゃない。
 住宅街に続いていく道沿いに保育園を見つけ、僕は足を止めた。低いフェンス越しに敷地内が見える。
 ちょうど外で遊ぶ時間らしく、小さな庭に子供たちがわらわらと吐き出されてくるところだった。子供は風の子とは良く言ったものだ。寒さなど感じていないようなやんちゃな声に、ついつい心が和んでしまう。
 きっと僕にもあんな頃があったんだろう。二十ン年後の姿など想像もしないでさ。
「はーい、じゃあ一番大きなお山が作れるのは誰かなー?」
 先生、可愛いな。
 赤いエプロンをつけた若い保育士さんが声を張り上げるのに見惚れ、それから僕は子供たちに視線を戻した。
 僕には顔はわからないけど、この中にきっと『泉水くんの翼ちゃん』はいるんだろう。
 フェンスに寄りかかってどれが翼ちゃんなのか想像しながら、僕は泉水くんの話を思い返した。

「ママがね、ちょっと変わってて」
 どこまでも人の良さそうな泉水くんは、初対面にも拘らず、病室で僕に話し始めた。
「母子家庭みたいなんですけど、なかなかお迎えに来てあげないんですよね」
「え? その翼ちゃんのママが?」
「そう。俺は家が翼と近くて、一人で児童公園にいる翼を良く見かけてたんです」
 泉水くんは、柔らかい笑顔を消して寂しそうに目を伏せた。
「あんな小さい子が……あ、翼って四歳なんですよ。四歳の男の子」
 ちっ、こっちも男か。いや、女の子だとしても弱冠若すぎるが。
「四歳の子供が薄闇に沈む児童公園で一人ぽつんと寒そうにしてたら、やっぱりどうしても目をひくでしょ?」
「そうですね」
「で、それが三日くらいかな、続いたもんだから気になっちゃって。それから、俺もちょくちょく翼を構うようになったんですよ」
「へえ? 懐きました?」
 いろいろな事件がある昨今、泉水くんみたいにガタイの良い奴が近付いたら子供は逃げちゃうんじゃなかろーか。
 そう思って尋ねると、泉水くんは日焼けした頬をつるんと撫でながら目尻を下げた。
「や、何か懐いてくれました」
「へえ。子供の嗅覚って凄いですね」
「え?」
「いや、僕から見てても泉水さんって良い人そうだと思うし。おっとりしてそうだし。子供は見抜くのかなとか」
「え、い、いやあ、そんなことは」
 巨漢が肩をすぼめてもぞもぞと照れる姿に、思わず微笑ましくなる。
「ま、まあそれで、そうしている間に翼のママとも会う機会が何度かあったんですよ」
「ああ。迎えに来たりして?」
「はい。線の細い、何て言うのかなあ、避暑地とかが似合いそうな綺麗な人なんですけどね」
 避暑地が似合う美人。
 白いワンピースに白い日傘を差して微笑む、長い髪の華奢な女性が瞬時に脳裏に浮かぶ。うん、良い。それはそれで良い。
「でも、笑顔がないんですよ」
 笑顔がない? それはいけない。避暑地の美人は微笑まなければ。
「子供を迎えに来る母親だって言うのに、いつも厳しい顔をしてるんですよね。それで翼にちょっと話を聞いてみようとしても、何も言わないし」
「でも、ちゃんと迎えに来るんでしょ?」
 泉水くんは眉根を寄せて、渋い顔を見せた。
「四歳の子供を二十時やそこらまで一人で公園で遊ばせて、『ちゃんと』迎えに来ているとは、俺には言えません」

 確かになあ。
 むっとしたような硬い表情の泉水くんを脳裏に浮かべながら、僕はため息混じりにフェンスから体を起こした。
 それを『ちゃんと迎えに来ている』とは、言えないかもしれないけどさ。
 さてと……そろそろ、バイト先に向かわないとな……。




【 3 】

 僕は、十三時から十九時まで地元の商店街でティッシュを配っている。
「お疲れさまでしたー」
 バイトを終えてサンタの衣装から私服に着替えながら、僕はパチンコ屋の更衣室で時計を見た。
 泉水くんの話では、翼ちゃんは遅くまで一人で寒空の下にいる。今は泉水くんも入院しているから、本当に一人ぼっちなのかもしれない。
 ……いや。でも、関係ないし。
 だって僕、翼ちゃんのこと知らないし。
「鈴木、今から真っ直ぐ帰るの?」
 僕とは違う場所でティッシュを配っている先輩が、サンタの衣装のまま煙草を咥えた。
「あ、いや……」
「ふうん? 用事?」
 大体僕の家は歩いて帰れる場所にあるのに、わざわざバスに乗って翼ちゃんがいるかどうか見に行ったりするのも、変だし。
 そう思うんだけど。そうわかってはいるんだけど。
「えーと、あの、はい。ちょっと今から用事があって」
「あ、そう。んじゃあな、お疲れ」
「お疲れさまです」
 パチンコ屋を出た僕は、その足でそのままバスに乗った。
 あーっ。どんだけ物好き? これってもう『暇人』じゃなくて、『変人』?
 だけどさ、だけど、気になるじゃん。
 泉水くんが入院して五日。
 季節は冬。
 その間、翼ちゃんは一人で寒空の下、なかなか来ないママを待ってるんだろう?
 バスを降りて住宅街を歩き、児童公園が薄暗い通りに姿を現した頃、時間は既に十九時半に近くなっていた。
 翼ちゃん、まだいるのかな。いなければ、それはそれで安心出来るんだけど。
 そう思いながら足を進めた僕は、公園を囲むフェンスに差し掛かってピタリと足を止めた。
「うわ、本当だ」
 あれが翼ちゃん?
 頼りない街灯だけが公園を照らす寒空の下、四人乗りの箱型ブランコがキィキィと物寂しい音を立てている。そこに、小さな影がぽつんと座っていた。何も知らなかったら思わず子供の幽霊かと思ったかもしれない。
「翼、ちゃん?」
 警戒して大声で泣かれたらどうしようと内心ビビリながら、出来るだけ優しい声を取り繕って呼んでみる。
 弾かれるようにぱっと顔を上げた翼ちゃんは、僕が知らない人だと気づくと無言でつぶらな目を瞬いた。
「あのぅ、怖がらないで欲しいんだけど」
 おっかなびっくり、僕は公園の中に足を踏み入れた。翼ちゃんは逃げる様子も泣く様子もない。どころか、表情がない。
 ゆっくりゆっくり近付きながら、僕は胸の内で疑問を覚えた。
 こんなふうに知らない人に声を掛けられて、警戒のひとつもしないようじゃさらわれちゃうぞ? そりゃあ泣き叫ばれても困るけど。
「ええと、泉水くんって知ってるよね。泉水大樹くん」
 してるかどうかわからない警戒を緩めるために、僕は逮捕される時の犯人のように両手を胸の辺りまで挙げて、愛想笑いを浮かべた。
「泉水くん、今、入院してるんだ。あ、知ってるよね」
 翼ちゃんがこくりと頷く。
 泉水くんは先日ここで翼ちゃんと遊んでいて、ジャングルジムから滑り落ちそうになった翼ちゃんを庇って代わりに転落したんだそうだ。ジャングルジムに変に足を引っ掛けて転落してしまったせいで足を骨折し、頭を打った。まだ夕方の早い時間だったから、通りがかった人が病院へ連れて行ってくれたらしい。
 翼ちゃんとママは、一度もお見舞いには来ていないと言う。
「それでさ、僕、泉水くんの友達なんだ」
 今日初対面だけど。
 内心で補足しながら、僕はようやく箱型ブランコのそばまで辿り着いた。良く見れば翼ちゃんは鼻水を垂らしている。おいおい、汚いなあ。
「泉水くんが心配してたから、代わりに。ええーと、一緒にママを待とうか?」
 翼ちゃんは、表情の浮かばない顔で黙って顔を横に振った。か、可愛くないガキだ。
「一人じゃ危ないだろ」
 更に顔を横に振るくそガキに顔を顰めながら、僕はブランコの周囲を囲っている黄色い柵に腰を下ろした。ブランコに腰を下ろせるほど近付く勇気が、まだない。
 泉水くんは『すぐに懐いた』とか言ってたけど、全然懐きそうにないなあ。それとも僕が悪いのか? 前髪が長いから? 黒ブチ眼鏡がいけない? 薄汚れたダウンジャケットがまずかった? 子供に嫌われると、自分が何だか穢れた存在のような気がしてくる。
「えーと、僕、鈴木一郎」
 手持ち無沙汰なので、自己紹介。翼ちゃんは何も答えないで鼻水を垂らしている。
 そりゃそうだよな、寒いもんな。翼ちゃんが着ているコートはお世辞にも暖かそうとは言いにくく、こんな寒さの中でぽつんと座ってたら鼻水の一つや二つ、垂れもするだろう。
 ポケットを漁って、僕はバイト先から拝借したティッシュを取り出した。これで鼻を……か、かませてやるのは勇気がいるから、自分でやってもらおう。
「ほら。ティッシュ」
 子供の相手なんてしたことがないから、どう扱ったもんかわからない。それだけ言ってティッシュを差し出すが、翼ちゃんはぽかんとしたまま僕を見ていた。あーあーあー、鼻水がっ。
「ば、馬鹿。垂れてるってば」
 慌てて袋を破ると、鼻水をキャッチすべくティッシュを鼻の下に滑り込ませる。
 失敗した。
「ぎゃああ」
 ティッシュで受け止め損ねた鼻水を手首に被弾して、反射的に仰け反りながらティッシュで自分の手首を拭う。一人で騒いでいる僕を、翼ちゃんが無垢な眼差しでぽかんと見つめていた。今、自分がとんでもなく馬鹿な人のような気がする。
「あのな、お前の鼻水をだな……」
 仕方がないなあ。諦めて僕は、不慣れな手つきでその鼻をぐいっとティッシュで拭ってやった。翼ちゃんはびっくりしたように黙って目を丸くしている。
「鼻ぐらい、自分でかめよなあ。これやるから、持っておきなさい」
 そう言って翼ちゃんが下げている小さな黄色いショルダーバッグに手を伸ばすと、その瞬間だけ翼ちゃんはびくっと一瞬体を震わせた。僕も一緒になってびくっとした。
「ご、ごめん。怖い?」
「……」
「あの、これをさ、バッグにしまいたいだけなんだけど。あ、鼻をかんだティッシュの方じゃないぞ? 新しい方だぞ? 持ってた方が良いだろ? 使うだろ?」
 小心っぷりを露呈しながら、僕は改めて恐る恐るバッグに手を伸ばした。今度は翼ちゃんも抵抗しなかったので、無事開けることに成功……。
「ん?」
 開けた口からティッシュを入れようとして、動きを止める。
 バッグの中に、何かがたくさん入っているのが見えた。何だろう。赤い、木の実?
 大きさはそれぞれだ。一センチくらいのものもあれば、五ミリくらいのものもある。種類もばらばらなのかもしれない。共通しているのは、赤い木の実だってことだ。
 それが、バッグの中に詰まっていた。逆に言えば、バッグの中にはそれしか入っていなかった。
 いっぱいというには足りないけど、それでも『ちょっと拾った』と言うレベルじゃない。明らかに集めているレベル。
「えーと、集めてるのかな」
 使ったティッシュをくしゃくしゃと丸めてゴミ箱に捨てながら振り返る。翼ちゃんから答えはない。話題を変えてみよう。
「雨が降ってきたりしたら、どこにいるの?」
 翼ちゃんは黒目がちの大きな目を僕に向け、それから公園の隅っこを指差した。おもちゃみたいな小さな指が、公園の隅にある休憩所を示している。
 ベンチが二つ並ぶそのスペースには、頼りない木の屋根がついていた。一応雨は凌げるのかもしれないが、風までは防いでくれないだろう。死ぬほど寒いに違いない。
「近所のおばさんとかさ、ママが来るまでいられるところ、ないの?」
 無言のまま僕を見つめる翼ちゃんに、ついついため息が漏れた。
 全く、どういうわけなんだろうな。仕事で遅くなるのは仕方がないとしても、近所の人に頼むとか、一人でも家に入れるようにしてあげるとか、いろいろ方法はあるじゃないか。
 会話にならないので、僕は手持ち無沙汰でそんなことを思いながらぐるっと視線を彷徨わせた。
 公園の周囲にも人の気配はない。一方向だけ小さな車道があり、時折車が過ぎていくぐらいだ。
「あ、マフラー、貸してやろうか」
 再び翼ちゃんに顔を戻すと、翼ちゃんが寒そうに両手にはあっと息を吐きかけた。それを見て、遅ればせながらそんなことに気がつく。
「別に首絞めるわけじゃないからな? 逃げるなよ? 泣くなよ?」
 予防線をバシバシ張ってマフラーを片手に立ち上がると、ブランコの背もたれ側からふわっとマフラーをかけてやる。しっかりと巻きつけて、ついでにジャケットの袖やら裾やらを直してやろうとした僕は、そのまま動きを止めた。
「え?」
 何だ? これ。
 ジャケットの中でまくれ上がっている袖を下ろそうとして、逆に引き上げてしまう。翼ちゃんの腕を見て、僕はびっくりした。
 何なんだ? この無数の引っかき傷は。
「翼ちゃん、どうしたの、これ」
 驚いた余り、棒読みのように尋ねる。翼ちゃんは傷を隠そうとするでもなく、茫洋と僕を見つめた。
 腕の傷は、古いものもあれば新しいものもあるみたいだ。ミミズ腫れのようなものだったんだろうか。血が滲んだらしく、かさぶたになっているものもある。
「あ、ごめん、寒いよね」
 思わず眉根を寄せて傷に見入ってしまった僕は、翼ちゃんが何も言わずにぶるっと震えたのを見て急いで袖を下ろした。しっかりとマフラーを巻き直してやって、脳裏に過ぎった考えに愕然とする。――まさか、虐待?
「翼ちゃん、この傷……」
「翼」
 再度尋ねかけると、それを遮るように突然女性の声が響いた。
 ただでさえ寒い公園の中、更に氷の塊を投げ入れるような冷えた声。
「帰るわよ」
 黙って顔を上げる僕と翼ちゃんの視線の先には、黒いコートを身に纏った女性が立っていた。公園の入り口で足を止め、こちらに顔を向けている。
 あれが翼ちゃんのママさんか。
 泉水くんの言う通り、綺麗な人だった。頼りない街灯の下でも良くわかる。毛先をふわっとカールさせた髪を背中まで伸ばし、コートの下には白いブラウスとスリットの入ったタイトスカートを身につけていた。
「翼ちゃんのママさん、ですか?」
 ママさんはちらっと僕を見たが、何も答えずに翼ちゃんに視線を向けた。
「翼」
 翼ちゃんは、ママさんの呼びかけに応えてブランコから無言で飛び降りた。従順な動物のようにママさんの方へ向かう足取りが、ちょっとだけ覚束ない。寒さで膝が震えちゃってるんだろう。
「あのっ」
 ママさんは、ブランコを降りて駆け寄る息子をちらりと見ると踵を返した。コツコツと言う硬い足音が出口に向かう。
 それを見て、余計なお世話と知りながら僕はママさんに向かって声を上げた。翼ちゃんを待とうともせず踵を返す姿に、言いようのない何かが込み上げた。
「ちょっと待って!」
 精一杯強い口調で呼び止めると、ママさんは足を止めて顔だけで振り返った。
「翼ちゃん、腕にたくさん傷があるみたいなんですけど」
「それが?」
「知ってるんですか? 何です、これ」
 そこで、翼ちゃんがトタトタとママさんに追いついた。一メートルくらいの距離を置いて足を止めると、おずおずと片手を伸ばしかけて引っ込める。甘えたいのに遠慮している、そんな感じだ。
「あなたこそ、何なんですか?」
「あ、初めまして。鈴木一郎です」
「そんなこと聞いてないわよ。あなたに関係ないでしょ?」
 それはまあ、全くその通りなんですけど。
「でも、こんな小さい子が一人でこんな時間まで公園にいるのは、その、あれだし」
 あれって何だよ。しどろもどろの自分が頼りない。
 こうして見ると、翼ちゃんのママさんはかなり若そうだった。下手すると僕より年下? そうじゃなくても同い年とか、ちょい上とか、その辺が限界って感じだ。
「せめて一人でも家に入れるようにしてやるとか、近所の人に……」
「頼んでるわよ。だけどこの子がここで待ってるのよ」
 えっ?
 思わず翼ちゃんを見るが、翼ちゃんは頭上で交わされている会話など意に介さないように、もじもじとママさんを見上げていた。それを感じているだろうに、ママさんの方は翼ちゃんを見もしないで、冷たく僕に言い放った。
「大体あなたに関係ないんだから、放っておいてくれる。行くわよ、翼」
 強引に話を打ち切って歩いて行くママさんに、翼ちゃんは慌てて後を追いかけ始めた。公園を出て行く後ろ姿に再び声を掛けかけた僕は、反対側にある出入り口から響いた声に引き止められた。
「放っておきなさいよ」
 振り返ると、買い物帰りらしきオバチャンがビニル袋を片手に立っている。どなた様?
「あの人、何言っても聞きゃしないから」
「えーと、どちら様でしょう?」
 いきなり現れたニューフェイスに目を瞬いていると、オバチャンはそこで足を止めたままで僕に答えた。
「橋上さんの近所の者だけどね」
「ハシガミさん?」
「今の親子よ。何? 名前も知らないの?」
「あ、えーと、翼ちゃんと遊んでただけだから、その、名前までは良く」
 一瞬僕を警戒したような顔をしたオバチャンは、僕が翼ちゃんの名前を知っていたことで警戒をすぐに解いた。納得したように頷く。
「ああそう。あの人は、子供の母親って言う自覚がないわけ」
「そうなんですか?」
「そうよ。子供が子供を生んだようなもんなんだから。自分は男と遊ぶのに夢中で、子供のことなんて邪魔くらいにしか思ってないの」
 ふんっと鼻息も荒くオバチャンがのたまう。橋上さんはご近所のオバチャンとは上手くいっていないようだ。
「男と遊ぶのに夢中って」
「あたしも翼ちゃんが可哀想で何度か言ったんだけどね。直りゃしないんだよ。と言って、翼ちゃんは『ウチにおいで』って言っても来ないし」
「何でですか? 寒いのに」
「知らないけどね。あんたも、あんまり関わらない方が良いよ。親切にと思ってりゃ、『お節介』とか言われて嫌な思いするだけなんだから」
 そう吐き捨てるように言って、オバチャンは顔を顰めたまま歩き出した。ぽかんと見送りながら、もう一度橋上さんと翼ちゃんが消えた方向に顔を向ける。もちろんどこにも姿はない。
 翼ちゃんが、この公園で待つことを自分で選んでいるのか? 何で?
 あの傷は何なんだろう?
 橋上さんは、翼ちゃんが可愛くないんだろうか?

 ***

「赤い木の実?」
 あと一時間もすれば昼食かなと言う時間帯。
 昨日翼ちゃんに会ったことを教えてやりたくて、僕はまた泉水くんの病院に来てしまった。
 今日は泉水くんは病室にいて、ベッドの上で漫画誌を繰っていた。僕を見て顔をほころばせていたが、僕が昨日の話をすると微かに眉を寄せて首を傾げる。
「知らないなあ。何? ショルダーバッグの中にたくさん?」
「うん。ま、子供のやることだし、意味はないのかもしれないけど」
 泉水くんの口調は今日になってくだけている。それにつられて、僕の口調もくだけた。
「そうだね。子供の頃って何でもないものが物凄いものに見えたりもするし」
「天井の染みはお化けの顔に見えるしね」
「う、うん。それとは少し違う気もするけど」
 一瞬、何とも微妙な表情を覗かせた泉水くんは、それから気を取り直すように白い歯を覗かせた。
「もしかすると、あれかもしれない」
「あれ?」
「いつだか翼が言ってたんだ。去年のクリスマスに保育園の先生が読んでくれた絵本の話」
 絵本か。
「『クリスマスのおねがい』って言ってたかな? 子グマが死んだお母さんグマに会いたがる話で、翼はその絵本が凄く好きみたいだよ。何度も読んでるって言ってた」
「ふうん? 赤い木の実とか、その話の中に出てくるのかなあ」
「どうだろう? 聞いてみたら? 教えてくれるんじゃない?」
 翼ちゃんが簡単に懐いたと言う泉水くんは、至極簡単にそう言った。翼ちゃんは僕に懐くだろうか? 昨日の様子を見る限り、疑問だ。って言うか、口利いてくれてないし。
 それから翼ちゃんの様子やママさんの話をして、僕は泉水くんの病室を後にした。
 バイトに行く為にバスで駅へ戻るが、十三時にはまだ時間があったので、駅前の本屋に立ち寄ってみる。
 小さな町にしては広いスペースを持つ本屋さんで、絵本のコーナーは奥の一角だった。足を向けると、幼稚園児くらいの女の子が一人、床に座り込んで熱心に絵本のページを捲っている。何の脈絡もなくページを飛ばしたり、戻ったりしているので、『読んでいるフリ』をしてるんだろう。大人の真似をしたいのかもしれない。
 その隣に立って棚を眺めると、幼女は怪しいモノを見るような目で僕を見上げた。努めて気にしないようにしながら、棚に並ぶ背表紙を目線で辿る。
 『クリスマスのおねがい』と言う絵本は、意外とあっさり見つかった。手に取ってパラパラと眺めてみる。
 絵本は当然ページの大半を絵で閉められていて、文字は大きく少ない。内容は、ざっとこんな感じだった。
 子グマが、死んでしまった母グマを恋しがって泣いていると、モミの木の小人さんがヒミツのオマジナイを教えてくれる。クリスマスに良く飾りで使われる赤い木の実を百個集めると、お願い事が叶うと言う。
 もう一度母グマに会いたい子グマは赤い木の実を集める為にあちこち行くが、そこでいろんな出会いがあり、最後に母グマと会うことが出来ると言うものだ。
「ふうん。お願い事かあ。お願い事ねえ」
 ぶつぶつ呟いていると、絵本に視線を戻していた子供が再び顰め面で僕を見上げた。しまった、変人だと思われてしまう。
「ママは?」
 取り繕うように笑いかけるが、女の子はぷいっとそっぽを向いた。僕は子供に嫌われやすいらしい。何がいけないんだろう。
 そこはかとなく傷つきながら、絵本を棚に戻す。あんまりゆっくりしていると、バイトに遅刻する。
 翼ちゃんは、赤い木の実を百個集めたら願い事が叶うと思っているのかな。叶えたい願いって何だろう?
「ありがとうございましたー」
 何も買わずに、お礼の言葉だけを背中に受け取って本屋を出る。店の前の通りで、木枯らしが枯葉を舞い上げた。
 あの絵本では、最後に子グマが母グマと会う。だけど、翼ちゃんのママさんは死んだわけじゃない。僕だって昨日会ってるんだし、泉水くんもママって言ってたもんな。
「ああ、もしかして……」
 冷たい風に身を縮めながら、僕はバイト先に向かいかけた足を止めた。
 もしかすると翼ちゃんは、赤い実を百個集めたら、ママが優しくなると思っているのかもしれない――。




【 4 】

 十二月二十八日。泉水くんが退院するその日も、僕は十三時から十九時までバイトをしていた。
 一応何か手伝おうか、と確認はしたけど、母親が来るって話だし、まあ知り合って数日の僕じゃあ確かに出過ぎだし。
「新台ありますよーっ! お願いしまーすっ」
 出過ぎと言えば。
 ティッシュを配りながら、公園で鼻を垂らしてばかりいた翼ちゃんを思い出す。
 昨日も一昨日もバイトの後に公園へ行ってしまったから、結局僕は二十五日から三日間、翼ちゃんと一緒に橋上さんの迎えを待っていたことになる。
 お節介だなあとは思うけど、やってしまったものはしょーがない。
 でもなあ。今日は泉水くんが行くだろうからな。
 入院中も気になって仕方がないみたいだったし、家に帰って落ち着いたら松葉杖をついてでも行くだろう。僕の出る幕じゃない。
 ちょっと気になることはあるにせよ、ここで僕は終了だ。泉水くんとはメシでも一度行こうかってことで連絡先を教え合ったから、翼ちゃんの話を聞くことはあるだろう。
 でも、こんなふうに知り合いが出来るとは思わなかったなあ。まだ友達になれるかはわからないけどさ。
「お疲れさまでしたー」
 バイトを終えて、遠くに救急車両のサイレンを聞きながら、僕は数日ぶりに真っ直ぐ自分のアパートに足を向けた。
 今頃、翼ちゃんは泉水くんとあの公園にいるだろうか。骨折してるから遊べないかもしれないけど、翼ちゃんも喜んでるだろうな。
 そんなことを考えながらアパートの間近まで戻り、ふと、辺りが騒がしいことに気がついた。狭い路地なのに、やけに人口密度が高い。ちょうどアパートの方へ続く角の辺りに人だかりが出来ているのが見える。何だ、何だ。
 一瞬足を止めた僕の耳に、アパートの方からメガホンで「危ないので下がって下さい」と指示する声が聞こえて来た。危ない? 強盗犯でも立て籠もってるのか?
 ようやく角から家の方を見るが、物見高い野次馬に遮られて良くわからない。
「あの、僕アパートの住人なんですけど、何があったんですか」
 背伸びしながら手近な野次馬に尋ねる。その瞬間目に飛び込んで来た赤い救急車両で、僕は状況を悟った。おじさんの言葉が僕の弾き出した答えを裏付ける。
「可哀想に。火事だってさ」
「はっ? 火事っ? どこがっ?」
「だからあのアパートが。あんた、住人なんでしょ?」
「う……」
 ……嘘でしょ?

 ***

 ギィ……バタン。ギィーッ……バタンッ。
 夜の児童公園に奇怪な音が響いている。
 意気消沈したまま公園に足を向けてしまった僕は、中に目を向けて足を止めた。
 雲に時折姿を隠されながら住宅地の夜を照らす月と薄暗い街灯の中、泉水くんと翼ちゃんがシーソーをしている。
 泉水くんと翼ちゃんじゃあもちろん『シーソー』にはならないから、泉水くんが無事な方の片足で屈伸するようにシーソーを操作しているのが見えた。
 はーあ。
 この年末押し迫った時期に、火事ってどういうわけだよなあ。出火元は僕の上の部屋で、煙草の不始末が原因だと聞いた。
 火の回りがそれほど早くなかったことと、消防車の到着が早かったことで、幸い大きな火事にはならずに済んだみたいだけど、それはちっとも慰めにはならなかった。
 僕の部屋は、水浸しだった。
 気分としては火災じゃなくて、どちらかと言えば水害だ。
 僕の真上の部屋に向けて消防車から集中した放水は、天井から染み出して僕の部屋に降り注いだ。
 自分の部屋の中をスリッパや紙切れが漂っているのを見た僕は、棚から貴重品だけを取り出して回れ右をする以外に何をすれば良かったんだろう?
「あれ。鈴木くーん」
 フェンスに寄りかかって深々とため息を落としていると、泉水くんが僕に気がついた。大きく片手を振るのでそれに振り返しながら、のろのろと入り口へ向かう。
「鈴木くん。来てくれたんだ」
「うん」
 笑みらしきものを顔の上に作り上げて頷く。シーソーに跨ったままの泉水くんも屈託なく笑って、向かい合っている翼ちゃんに呼びかけた。
「翼。このお兄ちゃん、知ってるだろ?」
 翼ちゃんが、もじもじしながら僕と泉水くんを見比べる。
「おいおい。俺が入院してる間、代わりに遊んでくれただろ」
「僕、嫌われてるのかなー」
「ほら、翼がちゃんと挨拶しないから。お兄ちゃん、しょぼーんとしちゃったぞー」
 しょぼーん。
「翼。お兄ちゃんに後ろに乗ってもらいな」
「え? 僕?」
「うん」
 泉水くんに言われて、恐る恐る翼ちゃんに近づく。二人乗りをする感じで翼ちゃんの後ろに跨るが、翼ちゃんは鼻水を垂らしながら僕を見上げただけだった。
「よーし。ちゃんとお兄ちゃんに支えてもらえよ」
 ゆっくりとシーソーが上がっていく。一番上まで上がっても、僕も泉水くんも両足がついてしまう高さだ。
 僕は片手で翼ちゃんを抱えながら、片手でポケットを漁った。ティッシュで鼻を抑えてやる。
「鈴木くん」
「ん」
「今日はバイトは?」
 あったかいな、子供って。
 翼ちゃんを抱えた片腕がぬくぬくしている。
「終わったよ」
「終わってからわざわざ来てくれたの? 疲れたろ」
「ん? うん……まあ、別に……」
 途切れ途切れに歯切れの悪い返事をすると、泉水くんがひょこんと片眉を持ち上げた。
「元気ない? 何かあったのか?」
「ああ、いや。ちょっと」
「ちょっと?」
「家が火事で」
「はあっ?」
 泉水くんが盛大な声を上げる。出来るだけさらっと言ったつもりだったけど、内容を考えればさらっと言う方がおかしかった。
「なっ?」
「や、僕の部屋は燃えてないんだけどね。何て言うか、消火活動の被害に遭ってしまったって言うか」
 ギィ、バタン、ギィ、バタンと繰り返しながら、向かいの泉水くんに部屋の状況を簡単に語る。さっき管理会社に連絡をしたら明日また連絡を下さいと言われてしまった。何にしても今日は部屋で眠れる状態じゃないので、どこかビジネスホテルでも探さないとならない。
「正月も間近だってのに、大変だったね」
「ああ、うん、まあ」
 大変だったって言うか、これからの方が大変だと言うか。だって、何もしないで逃げるように回れ右して出て来てしまった。
「水漏れが止まって、溜まってる水とかもある程度引いてくれないと部屋の片付けもしようがないし。まあどうせ大してすることはないんだから、大晦日まで部屋の片付けに励むことにするよ」
「そうなるだろうなあ。俺が手伝えれば良いけど、却って邪魔だろうし」
「気持ちだけもらっとく。ありがとう」
「あ、そうだ」
「え?」
 小さな風が起こって、体が地面に近付くと共に翼ちゃんの前髪が捲れ上がる。楽しそうだけど寒そう。また自分のマフラーを外していると、泉水くんがポンと手を叩いた。
「今日ひと晩、俺ん家に泊まる?」
「え、でも。お母さんが来てるんじゃないの」
「帰ったよ。俺、実家が普通電車で一時間のところにあるからさ」
 ふわっとマフラーを翼ちゃんの首に巻いてやると、翼ちゃんが仰向けに僕を見上げた。
「知り合ったばっかりなのに、悪いよ」
「俺が入院してる間、翼のこと見に来てくれたし」
「三日間だけだよ」
「十分だよ。なー」
 大の男が四歳の子供にへらーっと笑いかけるのを見て、思わず僕は吹き出した。何と言う平和な光景。
「あ、翼ちゃん」
 くすくすと笑いながら、僕はポケットに入れたままのモノをふと思い出した。突っ込んで手のひらに掴むと、翼ちゃんの前に片手を差し出してやる。
 無言のまま僕の手をじっと見つめた翼ちゃんの前で、僕は片手をぱっと開いた。
 翼ちゃんが小さく息を飲むのが聞こえる。
 僕の手のひらに乗っているのは、十センチくらいの枝にたくさんついた小さな赤い木の実だった。
「それ、どっから持って来たの?」
「僕の家の方からここに来る途中で見つけた。ま、人の家に生えてた奴が通りに飛び出してただけだから、たくさん持ってくるわけにはいかなかったけどさ」
 翼ちゃんが手摺りから手を離そうとするので、それを押さえつけて代わりにバッグに入れてやる。
「南天?」
「って言うのかな? 多分それ。これで何個になったかなあ」
 翼ちゃんは答えない。だけど顔が紅潮しているから、多分喜んでくれているんだろう。
「数えてあげようか」
 試しに言ってみると、翼ちゃんは相変わらず無言のまま、だけど嬉しそうに目を丸くして頷いた。それを見て、僕も少し嬉しくなった。
「翼ちゃん、『クリスマスのおねがい』が好きなんだって?」
 翼ちゃんを腕で抱えたまま、提げているショルダーバッグの中身を簡単に数えつつ一方的に話しかける。
「あのお話に出てくる赤い実って、何て名前か知ってる?」
「ヒイラギじゃないの?」
 翼ちゃんの代わりに、泉水くんが答えてくれた。
「クリスマスの飾りとかに良く使われてる、あれだろ?」
「そう。あれ、ヒイラギじゃないんだってさ。ヒイラギモチって言う良く似た植物なんだって。本当は」
「へえー。そうなんだ」
「うん。じゃあ、クリスマスツリーに何でモミの木が使われるか知ってる?」
 ほっかいろみたいに僕をほかほかと温めている翼ちゃんは、一言も口を開かない。だけど僕をじっと見上げて、ふるふると顔を横に振った。
「クリスマスツリーはモミの木って言う木なんだよ。あれはさ、大昔、外国では『希望』の象徴だったんだってさ。モミの木に住んでる小人ってのがいて、それが転じてサンタクロースになったとかって話もあるんだって」
「へえ」
「モミの木は魔除けとかに使ってる国もあるらしいよ」
「良く知ってるなあ」
 感心したように言われて、僕は小さく舌を覗かせた。
「翼ちゃんの集めてる『赤い木の実』が何なのかなあって思って絵本を読んだんだ。そしたら注釈に載ってた」
「何だ」
「お、翼ちゃん、凄いぞ。百個以上ある……」
「翼」
 そこへ、ヒールの音と共に例の冷えた声が投げ込まれた。シーソーに跨ったまま入り口を振り返ると、美人だけど感じの悪い橋上ママさんが立っていた。
「あっ」
 その時、翼ちゃんが初めて声を上げた。
「ママッ!」
「わ、危ないって馬鹿」
 転がるようにシーソーから降りようとするので、慌てて抑えてシーソーを下ろすと、翼ちゃんは僕らを顧みずに橋上さんに向かって走り出した。足がもつれそうだ。
「ママッ! ママッ!」
「翼ー。危ないぞー」
 ハタチを越えた男が二人でシーソーに乗っていても仕方がない。僕と泉水くんもシーソーから降りて、翼ちゃんの後を追う。翼ちゃんは走りながらショルダーバッグを外して、橋上さんのそばまで来ると差し出した。
「ママッ、これ、あげるっ!」
「え?」
 え?
 橋上さんの訝しげな声と僕の胸の内で声が重なる。ママにあげちゃうの?
「これで、ママッ……」
「何よこれ」
 駆け寄った翼ちゃんの差し出したバッグを見て、橋上さんは眉を顰めた。
 そして――。
「いらないわよ、こんなの捨ててきなさいよ」
 パシン、と片手で払った。
 バッグは、ただでさえ頼りない手つきで持っていた翼ちゃんの手から転がり落ち、宙に浮く。
「あっ」
 コロコロと赤い木の実が四方八方へと転がり落ちた。ぱすん、と軽い音がしてバッグが地面に転がる。翼ちゃんは呆然と地面を見詰めた。
「あんた……」
 それを見て、かっとした。――この女、どこまでっ……!
「あんたなあっ! 翼ちゃんが一生懸命っ!」
「知らないわよそんなの。私が頼んだわけじゃないもの」
「ちっとは翼ちゃんの気持ちも考えろっ!」
「うるさいのよ外野が! 面倒見てやってるだけでもありがたくっ……」
 相手が女だってことを忘れて胸倉を掴みたくなった僕の視界の隅で、僕より先に泉水くんの大きな体がすっと動いた。橋上さんの方に一歩踏み出し、彼女が身を引く間もなくぺちんと軽く頬を叩く。
「今のは、子供に聞かせて良い言葉じゃなかったんじゃないかなあ」
 おっとりした口調を変えることなく言った泉水くんの横顔は、静かだった。
「翼に謝った方が良いと思うんだけど」
「黙んなさいよっ」
 橋上さんの顔が、かっと紅潮する。僕なんか視界からも脳裏からも消え去ったように、橋上さんは噛み付きそうな表情で泉水くんを睨み上げた。
「他人がよってたかってうるさいのよっ」
「子供に親は選べないだろう?」
「親だって子供を選べないわよ!」
 壁があったら拳を叩きつけてたんじゃないかって言う勢いで、橋上さんの片手が空を強く薙いだ。綺麗な顔は、何だか醜い表情に見える。怒りだろうか。悔しさだろうか。
「私だって生みたくて生んだんじゃないわよっ! この子がいなきゃどんだけ自由だかわかりゃしない! 何だって私がこんな思いしなきゃなんないのよっ!」
「親と子供が違うのはさ」
 ヒステリックになる橋上さんに対して、泉水くんは冷静だった。諭すように低い声でゆっくりと言って聞かせる。
「子供は、それが例えどんな親でも、自分の全存在を預けて、命を委ねて信じなきゃ、生きていけないんだよ」
「知らないわよっ」
「親は自分で歩いて、自分の世界を別に持っているのに対して、子供には――翼にはあんたしかいないんじゃないか。そのあんたに拒絶される翼は……」
 翼ちゃんは、一人で地面にしゃがみ込んで散らばった赤い木の実を小さな指で摘んでいた。
 一粒一粒、失くさないように。
 今、何を思っているんだろう。
「世界の全てに拒絶されているようなものだ」
 翼ちゃんは感情を表に出さないから、小さな胸が今どれだけ傷ついたのか、僕程度じゃ推し量ることが出来ない。
 それしか出来ることがないから、僕もその横にしゃがんで木の実を拾う。
「あんたたちがいるんでしょ」
 頭上から、嘲笑うような甲高い声が聞こえた。
「あんたたちがいるんだから、いーんじゃないの。私よりよっぽど翼の気持ちを知ってるんでしょうから、あんたたちがそばにいてやればいーじゃないのよっ!」
「橋上さん」
「子供育てるってどんだけ大変かわかってんのっ? ちょっと遊んでやったからって、知った気になってんじゃないわよっ」
「そんなことは言って……」
「二人分の生活費を稼ぐ為に必死で働いてりゃ、近所のお節介に『服装がちゃらちゃらしてる』だの『遅くまで男と遊んでる』だの。冗談じゃないわよ!」
「……」
「連れて帰んなさいよ」
 橋上さんが挑戦的に言い放つ。その言葉に、思わず僕は顔を上げた。僕と翼ちゃんに視線を向けた橋上さんと目が合った。
「そのチビ、連れて帰りなさいよ」
「……て帰るよ」
 あっっったま来た。
 手の中に拾った木の実を握り締めたまま、僕は彼女を睨んで立ち上がった。
「連れて帰ってやるよっ」
「せいせいするわ。これで自由になれる」
「おい、鈴木」
 泉水くんの制止の声が聞こえるが、僕の口は止まらない。
「お前みたいな母親に、翼ちゃんを任せておけるかっ」
 うわー、誰か僕の口を止めて下さーい。僕、後先考えないでとんでもないこと言ってまーす。
 そんな内心を微塵も見せずに睨みつける僕に、橋上さんはヒールの音を響かせて背中を向けた。
「橋上さん」
「翼、ついて来るんじゃないわよ」
 橋上さんを追いかけた翼ちゃんを、彼女が言葉で押し留めた。翼ちゃんがびくりと足を止める。泣き出しそうな目で、ぐっと堪えるような翼ちゃんが痛々しい。
「橋上さん、翼が集めてる赤い木の実、願いが叶うんだそうです」
 歩き始めた彼女の背中を、泉水くんの声が追いかける。
「翼は自分の為に集めたんじゃない、ママの為に集めてるんです」
 え?
「橋上さん!」
 もう一度泉水くんの声が強く名前を呼ぶが、橋上さんは振り返ることなく公園を出て行った。ヒールの音が遠ざかって行くのを聞いて、頭上で泉水くんがふうっと息をつく。
 それから、泉水くんは僕と翼ちゃんを振り返って寂しそうに微笑んだ。
「しょうがない。今日はまとめて俺の家で預かるかあ」

 ***

「自傷癖、って言うんだってさ」
 木の実を三人で集め終えてから向かった泉水くんの部屋は、彼の性格か、母親が片付けて帰ったのか、綺麗だった。ごちゃごちゃした僕の部屋とは大違いだ。
「自傷癖……」
「うん」
 必要なものを綺麗に整理したワンルームの部屋で、翼ちゃんは今床に丸まって眠っている。
 コンビニで買った弁当を食べたら眠くなってしまったらしい。
「もっと大きくなると刃物を使ったりするって言うけど、あんまり小さいと知識がないから刃物以外で自分を傷つけることが多いんだそうだ。翼の場合は」
 片手で持ったウーロン茶の缶をカチンを弾いて、泉水くんは眠る翼ちゃんに視線を向けた。それから僕の方に、自分の爪を見えるように翳した。
「これだよ」
「爪?」
「そう。自分で自分を引っかくんだ」
「何でそんなこと」
「一時的にでもストレスが収まるらしいよ。そしてそれを無意識に理解して、やめられなくなる。寂しくて鬱屈してるんだろうなあ」
「じゃ、全部あの女のせいじゃん」
 僕と泉水くんの間にあるローテーブルの上の缶コーヒーに手を伸ばしながら、僕は吐き捨てた。泉水くんが苦笑いを浮かべる。
「まあ、彼女もストレスなんだろうね」
「自分の息子だろっ?」
「そうだけどさ。若いし」
「いくつ?」
「そこまでは知らない。でも若そうだろ」
「うん、まあ」
「一人らしいよ」
 口を噤んで泉水くんを見ると、泉水くんも憂鬱な顔でふうーっと息を深く吐き出した。
「この辺は俺も保育士さんからちらっと聞いただけ。翼と遊んでたら保育士さんが公園を通りがかったことがあって。そん時にちょこっと聞いただけだから」
「一人って」
「パパがいないんだ。入籍する前に浮気して逃げちゃったとかって近所のオバチャンが言ってたけど」
 先日のあのオバチャンだろーか。
「じゃあ、未婚?」
「なのかな。これは本当かどうかは知らないけどね。でもさ、何かさ、彼女もやってらんないんだろうなあとか思うとさ」
「って言ったってさ!」
 どことなく庇うような口ぶりに、なぜか僕がむっとする。
「そんなのママさんの事情で、翼ちゃんには責任ないわけじゃん」
「ないけど、家庭の事情だから無関係でもないよな」
「そうだけど」
 沈黙が流れた。
 僕は何の問題もない平和な家庭で育ってきたから、翼ちゃんの気持ちも橋上さんの気持ちもわかると言えば嘘になるんだろう。
 だけど、このまんまの平行線じゃ二人とも幸せじゃないじゃないか。
 まだ四歳の翼ちゃんには、世界にママしかいない。だったら橋上さんが翼ちゃんを愛してやる以外、状況回復の方法なんてあるのか?
「そう言えば、さっき言ってたさ」
「うん」
「翼ちゃんが赤い木の実を集めてたわけって」
「ああ」
 泉水くんが翼ちゃんのショルダーバッグを引き寄せる。
 一度土の上に散らばった木の実は、全体的にどこかざらざらとして埃っぽい。
「パパが帰ってくるかもって思ったんだってさ」
「翼ちゃんが?」
「うん。さっき、鈴木が来る前に聞いた。ママがパパの帰りを待ってるから、ママのお願い事を叶えてあげたらママも笑ってくれるかもしれない」
「……」
「そう思ったんだって。あの公園で迎えを待ってるのも、ママが帰ってくるとあの道を通るから、家にいるより少しだけ早くママに会えるからなんだ」
「そうなの?」
「うん」
 翼ちゃんは、ママが大好きなんだな。
 子供の頃ってこんなだろうか。僕は自分が取り立てて母親を大好きなわけじゃないと思うが、小さい頃はこんなだったのかもしれない。
 自分を無償で愛してくれる存在。
 自分に、無償で手を差し伸べてくれる存在。
 愛だ恋だ言う以前に、誰より最初に自分の存在を認めてくれる人。
「認めて欲しいんだなー」
 健気に思えて、大き過ぎる毛布にくるまる翼ちゃんの頭を撫でる。手のひらにその温もりが伝わる。
「ママが大好きなんだなー」
 愛されたいよな。
 それは、どんな種類の愛情でも共通する想いだろう。
 自分が大切に思う人には、自分も大切に思われたい。
 自分にとって特別な誰かの、特別でありたい。
 どうして愛情ってのは、時にこうして空回りをするんだろうな。

 目が覚めると、部屋の中には僕と翼ちゃんの二人だけだった。
 泉水くんと話している間に、何だか温かい部屋でとろとろと眠くなってしまったらしい。
 時計を見ると、まだ二十三時だった。あれからまだ三時間も経っていない。
「泉水くん、どこ行ったんだろ」
 あくびをしながら小さく呟く。と、僕の隣で翼ちゃんがもぞもぞと身動きをした。それから薄く目を開ける。
「おはよう」
 声をかけてやると、翼ちゃんは一瞬びくりと体を震わせた。失礼な。
「いい加減慣れてくれよ」
 翼ちゃんは答えない。僕に口を利いてくれるには、まだ少し時間がかかりそうだ。やっぱり少し寂しい。
 翼ちゃんはそのまま毛布から這い出て来た。体を起こして立ち上がると、続き部屋になっているキッチンを覗く。それから風呂場へ。そしてトイレへ。
「翼ちゃん?」
 答えないまま、翼ちゃんは狭い部屋の中をうろうろとした。泉水くんを探してるのかな。――違う。ママを探してるんだ。
「つば……」
「あ、二人とも起きたか」
 ガチャっと玄関のドアが開いて、泉水くんが戻って来た。
「泉水くん。どこ行ってたの」
 流れ込んできた冷たい空気に、翼ちゃんが体を震わせる。それから泉水くんを見上げて、ぽつりと尋ねた。
「ママは」
「ママに会いたくなったか」
「ママに会いたい」
 泣くのを堪えるような震える声で、翼ちゃんは泉水くんに小さく訴えた。玄関口に佇んだままの泉水くんは、そのままその場にしゃがみ込んで翼ちゃんの頭に手を置いた。
「じゃあ、ママのところに帰ろうか」
「え、泉水くん」
「翼が会いたいんじゃ、しょうがないだろ?」
「でもだって家は。翼ちゃんに案内させるのか?」
 このまま出て行きそうな空気を感じて慌てて立ち上がりながら尋ねる僕に、泉水くんは笑って顔を横に振った。
「公園にいるよ」
「え? 橋上さんが?」
「そう。とりあえず行こう」
 泉水くんに促されて、僕はエアコンのスイッチを切ると自分と翼ちゃんのジャケットを掴んだ。僕が袖を通している間に、泉水くんが翼ちゃんに上着を着せてやる。
「ほーら、翼。ママんトコに帰ろうな」
「うんっ」
 外に出ると、先ほど流れ込んできた空気とは比べ物にならない冷たい風に包まれた。ひい。回れ右して毛布の中へ戻りたい。
 小奇麗なアパートの階段を降りると、見上げた空には綺麗な星が瞬いていた。こんな星の綺麗な夜に、僕の部屋が水害だなんて信じられない。
「本当は心配してるんじゃないかなと思ってさ」
 翼ちゃんと手を繋いで、松葉杖でゆっくり階段を降りながら、泉水くんが後をついて行く僕を振り仰ぐ。
「公園まで戻ってみたんだ」
「うん」
「俺は翼の家を知らないし、他に接点がないから少し待ってみた」
「公園で?」
「うん」
 階段を降りて公園の方角へ歩き出しながら、泉水くんは「そしたらさ」と柔らかく微笑んだ。
「戻って来たよ」
 その言葉に、黙って目を見開く。
 僕の表情を見て、泉水くんはこくんと頷いた。
「俺の顔を見てバツが悪そうに逃げ出そうとするから、ほら、俺もこんなだから走れないし」
「うん」
「翼はいないから、少し話をしませんかって引き止めてさ」
「良く引き止められたね」
「うん。でも、向こうにしてみても翼は俺のトコにいるわけだし」
 僕たちの足音と、松葉杖のコツンコツンと言う音だけが夜道に響く。
 はあっと吐く息は、ティッシュを配っている時よりもずっと真っ白だ。
「最初はずっと押し黙ってたんだけど……いきなりさ、泣き出すんだよ」
「橋上さんが?」
「うん。自分でもどうしたら良いのかわからないって」
 無言で泉水くんを見返すと、泉水くんも僕を見返して困ったように首を傾げた。
「翼が似てくるんだって」
「似てくるって、その、パパに?」
「うん。自分を捨てていなくなった奴にそっくりになって来て、自分でもどうして良いのかわからなくなるほど、優しく出来ないんだって泣いてた」
「……」
「考えてみればさ。結構酷なことだと思わないか?」
「翼ちゃんのママに?」
「うん。普通に失恋してだって、自殺する奴とかいるじゃん。良くある話って言ったって、いざ自分の身に降りかかってみればキツいもんだろ、失恋って」
「まあ」
 って言ったって、まともに失恋さえしたことないけどさあー。
「それなのに、子供出来て、結婚する約束までして、逃げられて、自分だけあの若さで子供を育てなきゃなんなくなって。やりたいことだっていろいろあったんだろうしさ」
「けどそれは結婚してたって同じじゃん」
 どうしても橋上さんをフォローする気になれずに僕が反論すると、泉水くんはまた苦笑いを浮かべて顔を横に振った。
「全然違うよ。充実感が違うだろ。愛する旦那がいて、子供がいて、その家族の為に自分のやりたいことを我慢するのと、一人で全部背負うのとじゃ」
「ああ、うん、まあ、そうか」
「他にぶつける先もなくて、自分を嫌だと思いながら止められないんだって言ってた。育児ノイローゼって奴なのかな、それも」
 そこまで言って、「俺には良くわからんけど」と泉水くんが呟いた辺りで、小さな車道を挟んだ向かい側に児童公園が見えた。
 信号は赤だ。横断歩道まで来て足を止める。
 車通りはそれほど多くはないが、一台過ぎると少ししてまた一台、と言うくらいのペースだった。
 渡ろうと思えば渡れるけど、子供を連れているし、泉水くんも松葉杖だしでちゃんと待つことにする。
 一見して誰の姿もない公園。あ、いや……。
「ママーッ!」
 いち早く橋上さんの姿を見つけた翼ちゃんが声を上げる。
 その嬉しそうな声を聞けば、やっぱり翼ちゃんにはママが必要なんだと思わざるを得なかった。
「余計なことして、ごめんな」
 翼ちゃんを連れて来てしまったことを謝罪すると、泉水くんが笑った。
「何? 余計なことって」
「僕が勝手に」
「良かったんじゃないか? 橋上さんの本音が聞けたんだから」
「ママーッ!」
 翼ちゃんの声に反応して、橋上さんが公園の入り口に姿を現した。
 そして次の瞬間。
「あ」
「翼っ……」
 翼ちゃんが、泉水くんの腕を振り払った。転がるように車道へ飛び出す。
「翼っ!」
「翼ちゃっ……」
 緩いカーブの向こうに車のヘッドライトが見えた。
 暗い住宅街の中、赤信号を渡る幼児の姿なんてドライバーには見えていないみたいだった。
「ママーッ……」
「翼ぁーっ!」



 静かな住宅街に、甲高い急ブレーキと轟音が響き渡った。










 ***

「まーったく。この年末に二度も事故で運ばれてくるのはあいつくらいのものだよ」
「はは……。ええと、じゃあ、その、お休みのところすみません。お邪魔します」
 十二月三十一日。
 事前に言われていた通りに『元町バス通りクリニック』の裏口から中に入ると、院長先生がスリッパの音を響かせて出迎えてくれた。
 僕の顔を見て、いきなり愚痴に突入する。
 剥きたてのゆで卵みたいな顔に苦渋を浮かべる先生に、僕はぺこぺこと頭を下げながら段々通い慣れてきた外科病室のある三階へ足を向けた。
「ちーっす」
 病院の中は静かだ。年末休業に入ってしまっていて、他の入院患者も一旦家へと戻されている。
 三〇一号室のドアは開きっ放しで、中を覗くと窓際のベッドに泉水くんが横たわっていた。ベッドの脇には橋上さんと翼ちゃんが並んで座っている。
「あ、来てくれたのかー」
「部屋の片付けが全然終わってないから、すぐに戻るけど」
「ああ。進んでる?」
「全然終わってないんだってば」
 言いながら病室に足を踏み入れると、橋上さんが照れ臭そうに頭を下げた。

 翼ちゃんが道路に飛び出した時、僕は咄嗟に体が竦んで動けなかった。
 翼ちゃんの小さな体が、ゴムマリのように乗用車に撥ねられる様子が脳裏に浮かんだ。
 だけど次の瞬間、泉水くんが松葉杖を投げ出し、まるでタックルでもするかのように車の前に身を投げたのだ。
 ドライバーが慌てて急ブレーキをかけたものの間に合わず、車は泉水くんの体を撥ね上げたが、その寸前に車の前から突き飛ばされた翼ちゃんは、幸いなことに打ち身と擦り傷だけで済んだ。
 後になって「俺なら図体でかいから、あの程度のスピードなら多少撥ねられても平気だって」と笑っていた泉水くんを凄い奴だと心底思う。
 ついでに言えば、渋々ながらも一人で休日返上して泉水くんの身柄を引き受けてくれた院長先生も。

「翼ちゃん、面白いものを持ってきてやったぞ」
 家を掃除している間に見つけた、昔UFOキャッチャーか何かで取ったガラクタを差し出してやると、翼ちゃんは僕をじっと見上げて、ぷいっとそっぽを向いた。橋上さんが慌てる。
「翼! ありがとうでしょう」
「翼ちゃん、君はいつになったら僕に懐いてくれるの……」
 ああ、傷つく。まあいいや。
「調子は?」
 ここへ来る前にコンビニで買った雑誌とジュースを差し出してやりながら尋ねると、泉水くんは頬をかきながら、ちらっと橋上さんを見た。それから僕に視線を戻す。
「ま、まあまあ」
「あーそう」
 それを受けて、僕もちらっと橋上さんを見る。橋上さんは何も気がつかずに、翼ちゃんに「お兄さんにありがとうは?」などと言っている。
 いきなり態度が緩和したわけではないけれど、少なくともピリピリした表情で睨みつけることしかしなかった橋上さんより、ほんの少しはましな空気に見えた。翼ちゃんとの空気も見ていてぎこちないものの、橋上さんが努力をしているのは伝わってくる。
 仮にとは言え翼ちゃんを手放したこと、そして本当に失いかけたことで、母親としての愛情を強く自覚したらしい。
「んじゃあ、僕は帰ろうかなあ」
 細い目で泉水くんを見ながら言ってやると、泉水くんは浅黒い肌を赤黒くしながら「もう帰るの?」と白々しいことを言った。
 険のない表情をしている橋上さんは、元々綺麗なのもあって魅力的ではある。二人にしてやろうと言う温かい心遣いだろ? まあ、二人ったって、翼ちゃんはいるけど。
「もう帰るんですか」
 物を渡すだけ渡して踵を返しかける僕に、橋上さんが椅子から立ち上がった。
「じゃあ、玄関口までお見送りします」
 らっきー。
 険がなければ、ただの美人だ。
 泉水くんの羨ましそうな視線に見送られながら橋上さんと並んで病室を出ると、僕は何を話して良いのかわからずに困惑した。しまった、良く考えたら僕は、綺麗な女性と二人きりになったことなんか生まれてこの方一度たりともないんだった。
「どうも、ご迷惑をお掛けしました」
 結果、緊張して静かに階段へ向かう。廊下に、橋上さんの細くて澄んだ声が響いた。
「私、子供だったんですね」
「あ、いや……」
「鈴木さんと泉水さんが叱ってくれて、良かったんだと思います」
 薬品の匂いだけが漂う静かな階段を降りながら、橋上さんが元気なく微笑む。言葉もなく、その綺麗な顔を見下ろしている僕に、橋上さんも目線を上げた。
「あの日、あの子を置いて帰った家は、寂しかったです」
「そう、ですか」
「はい。……孤独が、重かった」
 元気のない笑顔のままでそう呟くと、橋上さんは遠い目線で続けた。
「最初は、『これで自由になれる』って思ったんです」
 そこでもう一度僕を見上げると、少し自嘲するように笑って再び顔を逸らす。
「ひどいですね。わかってます。それに、本当に自由になるわけにはいかないってこともわかっていました。でも、そう思いました」
「……」
「このまま私が行方不明になってしまえば、私はもう翼から自由になれる、一人になれるって」
「思ったんですか?」
「思ったんです。……でも」
 どこか遠くで、子供の声が聞こえた。住宅街の方からだろう。橋上さんも聞こえたのか、窓の方に向かって微かに首を傾げながら続ける。
「そうしたらね、私、何をどうして良いかわからなかったんです」
「……」
「ごはんを食べて、翼は何か食べただろうかと思う。さっさと寝てしまおうかと思って、翼がちゃんと眠れるか気になる」
 気になったんだ。
 そのことに、ほっと安堵をしている自分がいた。
「いればイライラしているくせに、いなくなって気がつくんですね。その存在の重さに」
 ふうっと深くついたため息と共に、俯く橋上さんの肩から緩く一本にまとめた髪がするっと滑り落ちた。二階で階段を折り返し、更に下まで降りていく。
「『あの子には私しかいない』――泉水さんはそう仰いましたけど、逆だったのかもしれません」
「逆?」
「ええ。他に誰もいなかったのは、きっと、私の方だったんです」
 だって翼には泉水さんと鈴木さんがいたんだもの、と橋上さんは少しだけ明るい笑顔を見せた。いや、僕なんかはたかだか数日のお付き合いです。
「ありがとう」
 一階に降り立って、橋上さんが僕を見上げた。
 何もしていない僕にしてみれば、お礼の言葉は照れ臭かった。
「僕は全然……」
「そんなことないです。……まだ、努力中です。あの子が別れたあの人に似ていくのがつらい。あの子の為に割かなきゃならない自分の時間がつらい。でも、失ってしまう方がつらいのかもしれない」
「それだけ、大好きだったってことですよね。パパさんのことが」
 何を言っていいのかなんて全然わからないけど、僕は思ったことを口にした。
 とても大好きだったんだろう。別れた、翼ちゃんのパパさんのことが。
 だからつらいんだろうし、苦しいんだろうし、忘れられないことを呪うんだろうけれど。まともに恋愛の一つもしたことがない僕には、その痛みなんてわからないけどさ。
「だったら、翼ちゃんが不幸になったら、きっと橋上さんももっとつらいですよね。だって大好きな人の子供なんだもん」
「そうでしょうか」
「そうでしょ? だったら一緒に幸せになんなきゃじゃないですか」
 首を傾げる僕に、なぜだか橋上さんはくすくすと笑った。さっきの寂しそうな笑顔とは違ったので、笑われたのかなと思いつつも嬉しかった。
「そうですね。考え方を変えればきっと、幸せなんてそこにあるんだわ。少し時間はかかるかもしれないけど、あの子と……ちゃんと、親子として向き合う努力をしてみます」
 その笑顔を見て、橋上さんと翼ちゃんは大丈夫なんだろうと言う気がした。
 時間はまだかかるのかもしれないけど、今からでも遅くはないんだろう。
 だって、血の繋がった親子なんだから。
「ここでいいです。翼ちゃんがきっと寂しがってるから」
 廊下の先に続いている裏口をちらっと見て笑うと、橋上さんも改めて目を細めて頷いた。
「また、年明けにでも」
「はい。じゃあ、その時に」
「……良いお年を」
 微笑んだ橋上さんの顔が、ほんの少しだけ母親らしく見えたのは、僕の気のせいだろうか。

 ***

 部屋に戻って、まだ散らかり放題の部屋の掃除を開始する。
 火事の翌日に部屋に戻ると、水は引いていたものの、何だか部屋全体が焦げ臭かった。
 良く考えれば消火活動に使った水が漏れているんだから、焦げ臭くても仕方がない。
 積んであった雑誌や、いるんだかいらないんだかわからないガラクタなんかの類は、これを機に一切捨てることにした。どうせ年末だ。年忘れだろ。今まで溜めておいた年、全てまとめて忘れてやろうと言う気になった。こんな年も必要だろう。
 いーじゃないか。部屋がこんなになったおかげで泉水くんの家に泊まるって話になったんだし。
 いーじゃないか。部屋がこんなになったおかげで、今まで捨てられずにいた無駄なものも綺麗に片付ける気になったんだし。
 気持ち一つ。前向きに前向きに。……ふう。
 ゴミの収集が開始されてからすぐに捨てられるようにゴミをまとめ、部屋中を徹底的に拭く。
 洋服を全て洗い、万年床の布団は使えないからゴミにまとめ、壁も窓も何もかもを掃除して回り、全部が片付いたと思えた時には〇時を越えていた。
 気がつけば、一月一日だ。
「はー。何だかバタバタしてた気がするなあー」
 雑巾を片手に窓から空を見上げ、しみじみと一人で呟く。
 掃除をしながら年を越してしまった。何だかクリアな一年になりそうだよ。
「初詣にでも行くかな」
 せっかくだからさ。
 手を洗って着替えると、僕は一人で外に出た。近所に小さな神社があったはずだ。そこで何年ぶりかの初詣をしてみようか。
「今年は良いこと、あるかなー」
 小さな声が、夜空に消えていく。
 それから、今の言葉を胸の内で訂正した。
 いや、良いことがあるかなじゃなくて、良いことを探しに行こう。
 待ってばかりじゃ何も起こらなかったはずの年末、だけど紛れ込んできた風船を辿ってみたらいくつかの出会いがあった。
 ささやかかもしれない。だけど、人と人との出会いは小さな幸せに繋がってる。小さな変化に繋がってる。
 変化が欲しいなら、自分から動かなきゃ。
 人の姿が疎らな神社で、僕は賽銭箱に五円玉を投げ入れた。
「でもまあ、年始めだし」
 とりあえずは、神頼み――。



 ――今年は良いことがありますよーに!




【エピローグ】

「鈴木さーん」
 冬晴れの日差しがぽかぽかと暖かい。
 眠くなる目を擦って、僕は廊下一面のガラス窓から注ぐ眩しい陽射しに目を細めていた。
 その背中を、柔らかいソプラノが追いかけてくる。
「鈴木さん、鈴木さん」
 振り返ると、保育士の神原さんが近付いてくるところだった。
 ちょうど二年前の今頃、この保育園を覗いた時に子供たちを引き連れていた保育士さんだ。今もあの頃と同じようにポニーテールが可愛らしい。
「呼びました?」
「呼びまくりじゃないですか。何眠そうな顔をしているんです?」
「眠くて」
「そのまんまじゃないですか」
 くすくすと笑い出す神原さんと一緒に、僕は再び廊下を歩き始めた。
 『元町ひまわり保育園』――あの時、翼ちゃんが通っていた保育園だ。
 僕は今ここで用務員さんとしてアルバイトをしながら、保育士の資格試験の為に勉強の真っ最中だった。
 泉水くんと橋上さんは、あれから数ヵ月後に付き合い始め、昨年結婚した。もうすぐ翼ちゃんには弟が出来る予定だ。
「鈴木さん、髪を切ったらぐっと印象変わりましたよね」
「そうですか?」
「うん、その方が絶対いいですよ。だって最初の頃は目が悪くなりそうでしたもん」
 ここで働き始めてから、神原さんにしつこく言われて、今では余り伸びる前に散髪するよう調教されてしまった。眼鏡も神原さんのオススメで変えたから、自分でも確かにあの頃とは別人になった気がする。
 窓の外には、今年入った保育士さんに見守られて遊んでいる子供たちの姿が見えた。
「子供は元気だなあ」
「まだ二十五歳でしょ。何おじいさんみたいなことを言ってるんです」
 それから、拗ねるように唇を尖らせる。
「私だって鈴木さんと同い年なんですからね。老け込むのは私の為にもやめて下さい」
「はは。すみません」
 庭で遊ぶ子供たちの声をBGMに、僕は保育舎の玄関で足を止めた。靴を履き替えながら、見送っている神原さんを振り返る。
「ところで何か用事でした?」
「あ」
 そこでなぜか神原さんは、少し口篭った。
「あの、二十四日って、鈴木さん、何してます?」
「二十四日?」
 今年もクリスマス・イブがもうそこまで迫っている。僕の予定は相変わらず空白だ。
「ここで普通に働いてますよ」
「あ、そうですか。出勤しますか」
「はい」
「あ、や、ほら、クリスマス会をね、子供たちが楽しみにしてるし」
 妙にしどろもどろに言うと、神原さんはにこっとえくぼを覗かせて笑った。
「だからちゃんと来て下さいね」
「はい。大丈夫です」
「それじゃっ」
 満面の笑顔のままで小走りに廊下を駆けていく背中を見送って、僕は靴をきちんと履くと伸びをした。
 変化のない毎日は、自分のせい――少しずつの小さな変化を積み重ね、数年後にはそれがどんな変化に繋がっているかわからない。
 少なくとも二年前の自分には、今の自分は想像もつかなかった。
 昨日と同じ日は存在しない。今日と同じ日も、二度と訪れない。
「あ、鈴木さん、鈴木さん」
 玄関に立てかけてある竹箒に手を伸ばしていると、ぱたぱたと神原さんが駆け戻って来た。慌しい人だな。
「はい?」
「夜も、良かったら空けといて下さいねっ」
「へっ?」
「それじゃあお掃除宜しくお願いしますっ」
「は、はい」



 人生は退屈なものだった。
 今だって、大きな出来事なんて何もない。
 どこにでもある平凡な毎日なんだろう。
 でも、何かが違う。
 少しずつ何かが違う。
 小さな風が吹いて、周りはあの頃と何かが変わったのかもしれない。
 だって、あの頃には想像もつかなかった春の匂いが、もうすぐそこまで近付いているみたいだから……。



     
Fin.                        

2009/01/08
▼あとがき
◆一言感想フォーム◆
何ぞございましたら、宜しければ……<(_ _)>








◆一応あとがき◆

 先日ちらっと書きましたが、ごめんなさい、一応ボツ作品です……。
 元々企画投稿用に書いた短編で、『ハートフル』をテーマに書いたのですが、どこで心を温めれば良いのか書いた本人がわからず。
 加えて言えば、まあ……ベタだなあと言うことと、個人的に他に気になる点が幾つかあって投稿を取りやめにしました。
 本来は五十枚くらいの長さに収めるつもりだったのですが、何ゆえか八十枚に。
 でもせっかく書いたのでー。読んでくれる方がいれば、それはやっぱり嬉しいしなーと言うことで、ココに出すことに。
 つまらないことですが、一人称を『僕』にして書くのはこのサイトを始めて初めてです。結構書きにくかったです。
 読んで下さって、ありがとうございました。