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プロローグ あれは三ヶ月前――七月半ばのことだ。 電車に乗ったら、網棚の上から生首がじっと広樹を見つめていた。 人ならざるものが見えてしまうのには慣れている。慣れてはいるが、決して気分の良いものではない。 風邪気味で元々体調が悪かったと来れば尚更である。 (た、耐えられねー) 混み合う車内で移動も出来ず、電車が次の駅に停まると直ちに下車を選択した。 だが、ふらつく足取りでホームに下りるのが精一杯で、そこから先は一歩も動けなくなった。 目を開ければ視界が大きく揺れ、目を閉じれば暗闇がぐるぐる回る。じっと口元を押さえてその場に蹲りながら、襲い来るめまいが引くのを待った。 「具合、悪いんですか?」 不意に優しい声が聞こえたのはその時だ。 込み上げる吐き気を堪えて、何とか顔を上げる。 広樹のすぐそばにしゃがみ込んでいたのは、同じ沿線にある高校の制服を着た女の子だった。左右二つに分けて縛った黒髪と大き過ぎない優しい目、そして笑っていないのに出来てしまっている口元のえくぼが可愛らしい。 「今駅員さんを……あの、すみません。駅員さんを呼んできてもらえませんか?」 言葉の出ない広樹を見て取って、彼女が通りすがりの人を捕まえる。 誰もが通り過ぎる中、ただ一人足を止めてくれた彼女は、再び広樹を覗き込むと安心させるように微笑んだ。 「すぐに駅員さんが来てくれますから、待って下さいね。駅員室で休ませて貰いましょう」 それから間もなく、広樹は地元のコーヒーショップでバイトをする彼女の姿を見つけた。 あの時と同じ優しい笑顔に心惹かれ、以降、この道を通るたびに足が向いてしまう。 恋心などと言えるほど大仰なものではない。ちょっとした好意、その程度だ。彼女の笑顔に癒される気がする、それだけだ。 残念ながら、彼女の方は広樹のことを覚えていないらしい。何度か店に足を運んでも、やっぱり覚えてくれている気がしない。覚えたくなるほど端麗な容姿を持っているわけでもないから仕方がないだろう。 「ホットコーヒーを一つ……じゃない、二つ。持ち帰りで」 たまには、家で競馬新聞でも読んでいるだろう駄目親父にも買って帰ってやるか。 精算を済ませて店を出ると、途端に冷えた空気が身を包んだ。気づけば冬も間近だ。 「ありがとうございました! またお越し下さいませ!」 彼女に会うために、大して飲みたくもないコーヒーを買いに来てしまう自分を地味な奴だと思う。 小さく吐息をつくと、広樹はコーヒーのカップが二つ入った紙袋を片手に歩き出した。 1 ゆらゆら、ゆらゆら……。 水の中を漂うように緩く体が揺れている。 瞼の裏に眩しい光を感じて目を開けると、私は森の中にいた。 ぼんやりとしたままゆっくりと上体を起こし、辺りを見回す。鬱蒼と茂る木々に取り囲まれているけれど、そんなに暗くはない。夕方前くらいの時間だろうか。 そこまで考えて、まだ体がゆらゆらしていることに気がついた。ううん、どちらかと言えばふわふ……。 「ふわぅっ!」 喉の奥から変な声が出た。女子高生らしく「きゃあ」とか可愛い悲鳴を上げるべきだったかもしれないけど、それほど余裕がなかったと思って欲しい。 なぜなら私は地面から数センチ浮いて座っていたのだから。 「は? え? え? え?」 意味のない驚愕の音だけが口から漏れる。大パニックに陥りながら、私は意味不明にじたばたしてみた。 手を振り回し、足を振り回す。そして一見地に触れたように見えた足が、何の感触もないまま地に潜るのを見た日には――絶 叫。 地面に降りられないなんて、そんな馬鹿なことがあっていいはずがない。ホログラムじゃあるまいし。 (何、何でこんなことになったんだっけ?) そもそも何をすればこんなことになるのか。 私は超能力者じゃないし、幽体離脱癖もない。宙に浮かなきゃならない理由は何にもないはずなのに、人間って計り知れない。 あちこち首を突っ込むような性格もしていないから、漫画の主人公みたいに不思議な事件を経て特殊能力がうんたらとかもありえない。 (何してたんだっけ?) 最後の記憶を掘り返してみる。 通常通りの生活ならば、朝は普通に学校に行ったはず。電車に乗って、学校に行って、授業を受けて、きっと放課後はバイトに行って……。 うぅん? 微妙に地面から浮いたまま、私は腕を組んで眉根を寄せた。 思い出せる最後の記憶は、学校を出たところまでだった。 「あれぇ?」 何だか不安なので、口に出して呟いてみる。周囲に人気がないのも手伝って変人行為をし放題だ。浮いている時点で変人だもん、今更独り言ぐらい常識の範囲内でしょ。 「ちょっと待ってよ。えーと、朝ご飯はトーストとカップスープで、確かに家を普通に出て……」 自分への確認の意味も込めて、ぶつぶつと口に出していく。学校で友達と交わしたくだらない会話の内容まで思い返してから、下校時の記憶を探った。 「で、美加子と一緒に駅に向かって歩い……」 ……たんだろーか。 どうも学校を出てから先の記憶がない。 学校を出たところで何かがあったのか。それとも単に失っている記憶の時間幅が広いのか。 いずれにしても確かなのは、私が今身につけているのは制服だと言うことだ。つまり家に帰って着替えていない。 「ん?」 自分がどうしたら良いのかわからなくて為す術もないまま地面を睨みつけていると、不意に何か良い香りがした。……ような気がした。 何となくその香りにつられてそっちの方へ向かう。 そこでようやく私は、自分が空中を移動する術を知っていることに驚いた。体が知っていると言うのが正しいかもしれない。走る時にいちいち「右足で勢い良く地を蹴ると同時に左足を……」とか考えないのと同じだ。 生い茂る木々の向こうには広場のようなものがあった。それを見て、ここがどこかに気が付く。 地元の駅のそばにある公園だ。大きくて広場や遊具も充実している。 いくつか置いてあるベンチのひとつには男の子がいた。年の頃は多分私と同じくらい。近隣の高校の制服を身につけている。 物音はしなかったはずだけど、彼は私の気配に気づいたように顔を上げた。手にした本を開きっ放しで私の方を見ると、一瞬ぎょっとしたように体を大きく揺らす。驚かせてしまったらしい。 顔立ちは平々凡々って感じだった。長過ぎず短過ぎずの黒髪、座ってるからわからないけど背も余り高くはなさそう。ただ、妙に鋭さのある神秘的な眼差しが強い印象を与えていた。 「嘘だろ……」 唖然としたように私を見つめる彼の小さな小さな呟きが風に乗って届く。何が? どこかで会ったっけ。そんな気もするけど、気のせいかもしれない。 「あの、ごめんなさい」 彼が余りに驚いた様子なので、思わず私は謝っていた。こんなところから人が出てくると思ってなかったんだろう。 何となく気恥ずかしくて、とりあえずここから出ようと思い。 (出て良いの? 私) ためらう。 だって私、本当の意味で地に足がついてない。 こんなのが出てったら、普通は一層ぎょっとするんじゃないかな。 と言って、「それじゃあどうも」とか言いながら繁みに戻っていくのも明らかにおかしい。 自分がどうすべきか逡巡していると、黙って私を見つめていた彼が驚きの表情を消して口を開いた。 「出て来れば。俺以外に誰もいないから」 ハスキーな声で言われ、目を瞬く。まるで、私が人に見られたくないことを知っているみたい。 「あの……?」 その場から動けずにおずおずと首を傾げる。そんな私をじっと見つめた彼は、なぜか一瞬だけ苦い表情を見せると、すぐに何ごともなかったような無表情に戻った。 「まだ自覚がないんだ」 「自覚?」 「うん」 そして、こともなげにとんでもないことを続けた。 「あんた、死んだんだよ」 「……」 はあ?と喉元まで出かかった。辛うじて飲み込むことに成功したものの、顔が「はあ?」になってしまったのは取り消せない。 全く理解出来ないでいる私を手招きしながら、彼が言葉を補う。 「だから死んだんだよ、あんた。今の状態を簡潔に説明してやると幽霊って奴だ。そん中でも浮遊霊と言われる奴だな」 浮遊霊……。 聞いたことはある。うん、知ってる。だけどそれと私が繋がらない。 なのに、なぜだか笑い飛ばすことが出来なかった。 「嘘でしょ?」 「嘘じゃないよ。悪いけど俺はあんたみたいな人を何人も見てる」 彼は至って真面目にそう言った。冗談を言っているつもりはなさそう。そう思うよ。うん。そう思うけど……。 思考が停止した状態で黙りこくる私に構わず、彼は淡々とした調子で続けた。 「あんたの姿は俺以外には見えてない。まあ、俺みたいに見えちゃう奴は別だけどさ」 「見えちゃう?」 「いわゆる霊視とかそーゆー奴。夏なんかテレビで盛り上がってるだろ」 「ああ! あなた、あーゆーのなの?」 「……。一緒にされるといろいろ複雑だけど、まあそう」 「へえー。幽霊とか見えるんだ。怖くない?」 ついつい普通に尋ねてしまってから愕然とする。 待って。 じゃあ何? 私が死んで、浮遊霊とか言う奴になって、彼は霊視能力だか何だかがあるから私が見えてるって話で、つまりその、だからあの……。 「……私、死んじゃったの?」 目を見開いたまま改めて確認すると、彼はあっさりと頷いた。 「そう。あんたは、死んだんだ」 * * * 「簡単に言えば、昔から幽霊って奴が見えるんだよ。それだけ」 彼――清水広樹と名乗った彼は、私の前を歩きながら小さな声でそう言った。 今いた広場にボールを持った子供たちが集まってきたからだ。広樹くん曰く、私の姿は他の人に見えないらしい。つまり私と会話をしていると、広樹くんは恐るべき変人になってしまう。 それを避ける為にか、ベンチから立ち上がって歩き始めた広樹くんに、私はふわふわとくっついて来ていた。 だって彼、何だかわからないけど知識がありそうじゃない? オカルトだのホラーだのと全く無縁の生活をしてきた私なんかよりは、遥かに頼りになりそう。 一人にされてもどうしたら良いのかわからないもん。 「昔から?」 「昔から。幽霊ってのは幾つかの種類に分けられる。有名なのは浮遊霊や地縛霊、守護霊なんかか。その辺りはあんたも聞いたことがあるだろ」 「うん」 人気のない小さな休憩所まで来ると、広樹くんは足を止めた。レンガを敷き詰めた円形のスペースで、木の屋根の下にはベンチが二つだけ置いてある。 「浮遊霊ってのは大体、最初は自分が死んだ自覚がない。俺には良くわからんが、要は死んだ時の記憶がないんだろう。そしてそのほとんどが何らかの未練を持っている」 周囲を囲む刈り込まれた木々が、さわさわと風に揺れた。広場の方から子供たちの声がやけに響く。 「未練……」 「そ。それがこの世に引き止めるんだ。多分あんたも未練があるんだろうな。それを解消すれば、あんたは成仏出来るよ」 「ふうん」 日も沈み始めているし、広樹くんの口元からは微かに白い息が上がっていた。もう十一月の終わりだから当然だ。 だけど私は空気の冷たさも感じなければ、もちろん息も白くない。……息は、してない。 「んじゃそういうことで。俺は帰りますんで、あんたは好きにして下さい」 そこまで言うと、広樹くんはようやく私の方をちらっと見た。そして私の返事を待つことなく、公園の外に続く遊歩道へ足を向ける。ちょ、ちょ、ちょっとお! 「少し薄情だとは思わないっ?」 「いや別に」 しつこく付いていく私にお構いなしで、彼は背を向けたままどんどん歩いて行く。あっさりした返事に、私はむうっと唇を尖らせた。 「だって私、このままどうしたら良いのかわかんない!」 そりゃあ勝手かも知れない。彼にしてみれば私なんて見ず知らずの人……じゃないや、浮遊霊で、そんなもんに構ってやる理由は確かにない。 だけどこれも人助け……人じゃ……あああああ、もういいやどっちでも! ともかくそれなのよ、人情的には助けて欲しい! 足を止めて振り返った彼は、顰め面で「勘弁してよ」と小さく呟きながら、髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。 「こういう場合、霊能力探偵さんとかが手を貸してくれるんじゃないの?」 「生憎そんな便利な奴は知りません」 「あなた違うのっ?」 「違います」 「お願い! 助けて下さい!」 広樹くんを逃してしまうと、また一人ぼっちになってしまう。すべきこともわからないまま彷徨うの? そんなの嫌だよ。 縋り付くような目でうるうると訴えかけると、広樹くんは何かを言いたそうに口を開いて、閉じて、そしてまた開いて、ため息をついた。 「……名前」 「へ?」 「あんたの名前。聞いておかなきゃ話しにくくてしょうがない」 「あ、はい! えと、私は陣馬由香。松栄女子高の二年生。あ、死んでるんだから過去形? ともかくそうだったの」 態度が緩和したような気がして、私は慌てて名乗った。 「わかったよ。何もしてやれないかもしれないけど、とりあえず話は聞くよ」 設えられたベンチに顰め面で腰を下ろすと、広樹くんはふわふわと浮かんだままの私を見上げた。 「んで? 何を話せば良いわけ?」 そう聞かれると、私も何が聞きたいのか良くわからなくて困ってしまう。 ベンチにはどうせ座れないから、空中で抱えた膝に顎を乗せながらため息をついた。 「未練って」 「何かあるんだろ」 そりゃあこの若さで死んだら未練の塊なのかもしれないけど、そんな理由だったらきっと浮遊霊人口が溢れ返って仕方ないはず。 普通の思い入れじゃない何かがあるってことなんだろうな。そうは思うけど、心当たりがない。 「誰かと喧嘩したとか、一目会っておきたかった人がいるとか」 「そんなことで幽霊になっちゃう?」 「そんなこと?」 「その、喧嘩したとか」 私の素朴な疑問に、広樹くんは複雑な表情を浮かべて背もたれにすとんと寄り掛かった。 「あのさあ、死ぬって意味わかってる?」 「わかってるつもりだけど」 「本当? 仮に誰かと喧嘩するとするだろ。親友とか恋人とか自分にとって大事な人だとする」 「うん」 「それを最後に死んだら、自分の大事なその人にとって、最後の記憶は喧嘩になるんだぞ」 「あ……」 「下手すればひどいことを言ってるかもしれない。喧嘩だからな。とすると、ひどい言葉が相手にとって自分の最後の記憶になるんだ。こっちは死んでるから良いかもしれない。だけど大事な誰かが生きている間中、それは取り消されることがないんだぜ。耐えられんの? それ」 言われてみればその通りだ。 誰かとの思い出、それも大事な誰かにとって『私との最後の思い出』がそんなんだったら確かに……。 ――え? 何かが引っ掛かったような気がして、胸の奥がもやもやした。だけどそれが何かわからない。 眉根を寄せて黙り込む。懸命に心当たりを探していると思ったのか、広樹くんが更に提示した。 「あとは好きな男がいたとか、やりたいことがあったとか」 「やりたいことはないわけじゃなかったけど」 「ふうん? じゃあそれなんじゃん?」 「でもそうなのかなあ。何かピンとこないよ」 「何? 別に言いにくかったら聞かないけど」 よいしょと足を組みながら尋ねる広樹くんに、私はそっと顔を横に振った。 「ううん、平気。私ね、女優さんになりたかったんだ」 「へえ」 「憧れてる女優さんがいる事務所主催のオーディションが東京であってね、それに応募してみたく……」 言いかけて、また頭の中で何かが引っ掛かった。 そう、そうだ。それが最後の記憶の前日のことだった。学校帰りに友達と寄った本屋さんで、手に取った雑誌にその記事が載っていて。 ――大事な誰かとの喧嘩。 ――やりたいこと。 「どうした?」 言葉を途切れさせてしまった私に、広樹くんが訝しげな視線を向ける。 頭の中でその記憶を呼び起こしながら、私はゆっくりと広樹くんを見返した。 「ええと、そう、それで……そのオーディションの雑誌を買って帰って、部屋で募集要項とかを見てて……」 それで? それでどうしたんだっけ? 何か大事なことに気がつきそうで、懸命に頭を巡らせる。 雑誌を買って帰った私は、家でその内容を確認した。それから迷って、お母さんに相談してみようと思ったんだ。 中学の時は演劇部だった。いつかは東京に出て女優になりたいなんて話は、お母さんにも何度かしていた。だから理解してくれていると勝手に思ってた。 だけどお母さんの反応は思いがけなかった。 「馬鹿なこと言ってるんじゃないわよ。受かるわけがないじゃないの」 第一審査は書類だけ。 この段階で東京に行くとかそう言うわけじゃない。 「そんな頭っから決め付けることないじゃない」 気軽に頷いてくれるものだと思い込んでいたから、ぴしゃりときつく言われたことにびっくりした。そして私もついきつい口調で言い返し、そのまま口論になった。 だけどその日はそれで終わったはずなんだ。問題は翌日。 広樹くんの言葉を引き金に、私は思い出せなかった下校後のことを思い出した。 (……『大嫌い』) 呆然と見開いた目から涙が零れ出る。 涙なんか出るはずがないのに、生きていた頃の習慣的な再現なのかな。きっとこの涙も、生きている人には触れられないんだろう。 私は死んだのだから。 「おい、どうし……」 「私、お母さんに謝らなきゃ」 「お母さん?」 家に帰って、またお母さんと口論になった。 そして私はこう言ったのだ。――仕事仕事で家にいないくせに、私の夢に口出ししないでよ! あんたなんか大嫌い! 最初は大した言い合いじゃなかった。なのにお互いがどんどん感情的になって、気がつけばそんな言葉を投げつけて私は家を飛び出した。 「思い出した」 そして家の裏手にある通りの急カーブで、突っ込んで来たトラックに撥ねられた。私の死因は交通事故だ。 「私……私、謝らなきゃ……」 お母さんに投げつけた最期の言葉が『大嫌い』だなんて――……。 2 「こっち?でいーの?」 私の未練は、お母さんとの喧嘩だ。 そう広樹くんに話し、一度私の家へ行ってみることにした。 日はもうほとんど沈みかけている。西の空に鮮やかな夕焼けが残り、深い藍色と目に染みるオレンジが空の低い位置で溶け合っていた。夕暮れの住宅街に人気はほとんどない。 「そう。『田中商店』わかる?」 「ああ。やってんだかやってないんだかわかんない汚い店な」 「そう言わないで。私、あそこのおじーちゃんに子供の頃可愛がってもらったんだから」 じゃない、話が逸れた。 「その店のすぐ近く」 「んじゃあとりあえず、そこを目指せば良いな」 いちいち細かく道を指示する必要がなくなったので、ふわふわと黙って広樹くんの後をついていく。彼も何も言わなかった。 無口な人なのかな。さっきも本を読んでたみたいだし、物静かな人なのかもしれない。 「ねえ」 少し興味を惹かれて、彼本人について質問をしてみることにする。 「公園で何の本を読んでたの?」 「え? ああ……」 「やっぱオカルト?」 尋ねてみると、広樹くんはかくんとコケるような仕草をした。意外と可愛いことするんだ。 「何でだよ。ただの推理小説だよ」 「何だ。だって霊視能力だっけ? そんなのあったらそう言うの好きそうじゃない」 「馬鹿言え。逆だろ」 静かな住宅街を歩きながら、無表情にそっけなく言う。 「そう?」 「人間ってのは自分にないもんに憧れるんじゃないの。見えない奴が見えたがるんだろ。俺はそんなもん見たいと思わない」 「……『そんなもん』には私も含まれるの?」 少し拗ねた気分で言ってみると、広樹くんは一瞬黙って私を見上げた。灯り始めた街灯が、その顔に濃い陰影を落としている。 「当たり前だろ」 ややして、やっぱりそっけなく言い放つ。うー。『そんなもん』かぁぁぁ。 「広樹くんってもてないでしょ」 「うわ。凄い余計なお世話。何だよ、その容赦ない指摘」 「口先だけでも良いから『そんなことないよ』とか言わないかなー」 唇を尖らせて言ってやると、はあっと深いため息をつかれた。 「考えてもみろよ。幽霊って死んだ奴なんだぞ」 「うん」 「わかってる? 『死んだ奴』だぞ?」 「……うん」 繰り返される意味がわからなくてきょとんと頷くと、広樹くんはそんな私の顔を見てやれやれと顔を横に振った。 「その人が死んだってことなんだ。あんたの周りで誰か死んだらどう思うんだよ」 あ……。 「その人が死んだから幽霊としてそこにいる。誰かがその陰で泣いてる。誰だって必ず誰かの大切な人なんだ。それを失した人が、幽霊になった人の陰に見える気がするんだよ」 わざと淡々とした言い方をしているけど、目に浮かぶ色は沈痛だった。その横顔に胸を衝かれる。 「そんなもん、見たくねーだろ。堪んねーよ」 「ごめん……」 浅はかな自分の言葉を恥じて小さく謝ると、広樹くんがはっとしたように顔を上げた。 「あ、こっちこそごめん。死んでる奴に言う話じゃなかった」 「ううん」 顔を横に振って、それから笑ってみせる。 「でもそうかも」 「うん。悪い」 「だけど言わせたのは私だし」 ――誰だって必ず誰かの大切な人なんだ。 何となくその言葉を胸の内で繰り返した。 そうなのかな。私も悲しんでくれた誰かがいただろうか。 今更ながらそんなことに気がついて、してもいないくせに呼吸が苦しくなった気分。 学校の友達やバイトの仲間、懐いてくれている近所の子供たち、そしてお母さん。 悲しんだのかな。悲しんでくれたのかな。悲しませてしまったのかな。 胸の中に切ない気持ちが溢れて、また涙が込み上げそうになった。それを誤魔化すために軽く顔を振る。 それから、何食わぬ顔をして歩いていく広樹くんの横顔をちらっと盗み見た。 「ねえ」 私が何事もなく生きている間、広樹くんは私とは違う世界を見て来てるんだろうな。 「大切な人っている?」 「は?」 「あ、好きなコとかいないの?」 不意に思いついて少しからかうように言う私に、広樹くんはますます嫌な顔をしてそっぽを向いた。 「別に」 「あ。いるっぽい」 「勝手に決めるなよ」 「ねえ、本当はいるんでしょ」 もう一度聞くと、広樹くんは「はぁぁぁぁぁ」と長いため息をついて私を見上げた。 「いないよ、本当に。好きだって言えるほどの人は」 微妙な言い方。 続きを期待する目で待っていると、広樹くんは根負けしたように言葉を続けた。 「いいなって思ってるくらいだった」 「告白とかしないの?」 「しないよ。別に良いだろ。何だよ突然」 「……うん」 呆れたような、照れたような、怒ったような複雑極まりない表情を浮かべて視線を前に戻す。私は言葉を選びながら口を開いた。 「あのね、ウチって父親がいないの」 「は? あ、ああ、うん。ふうん?」 いきなりすっ飛んだ話題に目を瞬きながらも頷く広樹くんに笑顔を向けて、私は夕暮れの空を仰いだ。 「お母さんだけ。仲良くて大好きだけど、反面いつも仕事で寂しかった」 「そうなんだ」 「うん。結構遅くまで頑張っちゃって。おじいちゃんもおばあちゃんもいないから、自分一人で育てなきゃって精一杯だったんだと思うの。本当に感謝してるし、本当に大好きなんだ」 「うん」 「なのに……」 言おうとした言葉が、また涙を連れて来る。片手で口元を覆いながら、私は懸命に涙を飲み込んで言葉を続けた。 「私、『大嫌い』って言っちゃったんだね」 「……」 「いつか『ありがとう』って言えれば良いと思ってたの。普段そんなこと言えないもん。それこそさ、いつかウェディングドレスでも着て、涙ながらに花束贈呈なんかしちゃってとか」 「うん」 「だけどね」 ごめんなさい。感謝はしてるはずだけど、普段は意識してたわけじゃない。だから口に出そうとは思わなかった。でも、いつかそんなチャンスが来るものだと思い込んでいたような気がする。 「だけどそんな日はもう、来ないじゃない」 駄目だ。 泣き出してしまった。 広樹くんがちらっと私を見上げ、それから何も言わずに視線を逸らした。バレバレなのはわかっているけど、私も泣いているのを誤魔化すように明るい声で続けた。 「だ、だからさ、だからね」 「うん」 「人って、いついなくなるかわからないんだね……」 「……」 「今そばにいてくれる人が、明日もそばにいるとは限らないんだなあって思った」 また明日って言って簡単に別れるけど、その明日は本当に誰もに訪れるとは限らない。 明日も会える。明後日も会える。――本当に? 「伝えたいことがあるならそばにいてくれるうちに伝えないと……もう、永遠に伝えられなくなるかもしれない」 『その時』が『その人との最後』になったとしても後悔しない、そんなことはきっと難しい。毎日毎日生きている中で、喧嘩もあるしすれ違いもあるんだから。 だけど本当は忘れちゃいけなかったんじゃないかって今思う。誰にでも平等に明日が来るわけじゃないんだってこと。 私には、この世に関わり合うと言う意味での明日はもう来ない。 誰より感謝しているはずの人に、誰よりひどい言葉を投げつけて。 「そう思ったから聞いてみただけ」 ごしごしと目元をこすりながら笑ってみせると、広樹くんも横目でこっちをちらっと見て少しだけ笑った。 「あ、そ」 「今そばにいてくれる人を大事にしなきゃね」 「はいはい」 「何か冷たい返事だなあ。経験者の言葉は真面目に聞かないと、私みたいに浮遊霊になっちゃうんだからね」 「そりゃやだな」 「ひどい」 泣いたのが恥ずかしくて、照れ隠しに仏頂面を作ると、広樹くんはまたくすくすと笑った。 それから遠くに視線を向けて、風に消されそうなほど小さな声で呟いた。 「そうだな。伝えられる時に、伝えておけば良かったのかもな……」 * * * 『田中商店』から私の家までは一分もかからない。 「ここからど……」 到着して道を尋ねかけた広樹くんは、不意に険しい表情で言葉を飲み込んだ。私が道を教える前に、何も言わずに早足で歩き出す。 「え? どうし……」 慌ててその後を追いかけて、私もすぐにその理由に気が付いた。 嫌な感じがする。 広樹くんが歩いて行く方向、そしてそっちは私の家がある方向でもある。 そちらから何か黒いものでも漂ってきているかのようだ。目に見えるわけじゃない。だけど空気がどんよりと重たいような気がする。多分彼もこれを感じているんだろう。 「あんたの家、あれ?」 細い道を真っ直ぐ抜けて行くと、これまた小さな通りに出る。正面は空き地で、その向こうにある家を広樹くんが示した。周囲の住宅からぽつんと離れて建っている家。 「そう」 目にした光景に衝撃を受けた私は、家に目を定めたままでぎこちなく頷いた。 一見どこにでもあるごく普通の家屋だ。一戸建てで、小さいながら庭と門がついている。おかしなところはない。――多分普通の人の目から見れば。 だけど私の目には、異様なもののように映った。家を何か黒いもやが取り巻いている。 空の下の方に鮮やかに残るオレンジと相まって、おどろおどろしいと言う表現がとてもしっくりくる様相だった。 「何、あれ」 凍りついたままで、問うでもなく呟く。広樹くんも視線を私の家に固定して低く言った。 「陣馬は『コウニエ』だったんだな」 え? 聞き慣れない言葉に広樹くんの方を見ると、彼も硬い表情でこちらを見返した。 「予定変更。ちょっと俺ん家に付き合ってくれ。駅を挟んで反対側だ」 元来た道を足早に戻っていく広樹くんに、私も慌てて従った。 「私の家、どうしたの? 放っておいて大丈夫なの?」 「大丈夫じゃないから俺ん家に行くんだよ。俺にはどうにも出来ない。あの様子なら、多分行って帰ってくるくらいの余裕はある。護符の一枚でもなきゃ何もしてやれない」 「護符って」 そんなものが普通の家にある? ぽかんとすると、広樹くんが微かに渋面を浮かべて私を仰いだ。 「便利屋事業――ウチの親父の仕事なんだ」 * * * 「霊の類が見える奴と見えない奴ってのがいるのは、知ってると思うんだけど」 私と話をする為か、広樹くんは敢えて人気のない裏道を選んでいるみたいだった。 歩いている間に日が完全に沈み、もうすっかり夜になっている。空には真ん丸のお月様が姿を現していた。 辺りに誰もいないのを確認して、広樹くんが早足で歩きながら私を見上げる。 「それとは別に好かれる奴と好かれない奴ってのがいるんだよ」 「誰に?」 「そういう不浄の輩に」 この『不浄の輩』には私も含まれるわけだよね、もちろん。もう確認しない。 「そういう奴らに好かれる奴――親父は寄せ匂とか言ってるけど」 「ヨセニエって何?」 「匂いだよ。霊体を引きつける、何つーかオーラみたいなもんなのか? 俺は死んだことがないからわからんけど。それを持つ奴ってのは幽霊だの何だのが寄って来る。寄せ匂を持つ奴が霊視出来れば、寄って来るそいつらが見える」 私は、公園で良い香りを嗅いだ気がしたのを思い出した。それに釣られて出て行ったら広樹くんがいたんだ。今はもうあんまり感じてないけど、単にこれはそばにいる間に慣れちゃったのかもしれない。 ふうん。あれが寄せ匂ってわけね。 「あんなふうにふらふらと寄って来られたら、大変なんじゃないの?」 思わず同情してしまう。ふらふら寄っていった私に言われる筋合いじゃないかもしれないけど。 私の言葉に広樹くんが苦笑いを浮かべた。 「大変だよ。関わり合ってたらきりがない。だから最初にさっさと逃げようとしたじゃないか」 「あ。逃げようとした。うん」 「いや、そこそんなに強調しなくて良い」 「逃げようとしたって言うか、逃げた」 「そりゃ逃げるよ」 繰り返す私に、広樹くんが困ったように空を仰ぐ。吹き抜ける風が優しくその黒髪を揺らすのを眺めながら、私は話を戻した。 「じゃあ、見えないのに寄せちゃう人ってのもいるの?」 「いる。でも俺の知る限り、見える奴は寄せる奴でもあることが多いみたいだ」 「逆に寄せ付けない人って言うのもいるんだ?」 「そういう奴が持ってるのは抗匂とか言う。親父の造語だけどな」 「コウニエ?」 さっき、もやに包まれた私の家を見ながら広樹くんが呟いた言葉だ。 『陣馬はコウニエ』って言った。と言うことは、私が幽霊の類を寄せ付けない種類の人間だったってこと? 「あんたがいなくなったから、あの家に何かが忍び寄ってるんだと思う」 「どうして」 「さあ。それは知らない。元々あの家にいたのかもしれない」 「元々?」 「心当たりは? あんた、いつからあそこに住んでる?」 両親が離婚をしたのが幼稚園の頃。それから、私はお母さんとこの町へ引っ越してきた。 祖父母の家がここにあると言うわけでもない。ただ、お母さんの知人の友人が土地を手放したがっていると言う話で、破格の値段で買ったと聞いた。 私が死んでしまった今、あの家に住むのは母一人になってしまった。 一人で住むには広過ぎる家にぽつんといる姿を思い浮かべる。その光景を想像しただけで寒々しく、胸の奥がきゅっと詰まったような気がした。 「小学校に上がる時に」 「ふうん。その時はどうだったんだろうな、あそこ」 「広樹くんは知らない?」 「知らない。俺がここに住み始めたのはあんたより後だ。中学」 「そっか」 残念。 唇を尖らせて俯いていると、広樹くんが私を見上げて微かに笑った。 「親父に聞けば何かわかるだろ。オカルトマニアっつーか何つーか」 「そうなんだ」 「うん。で、家が事務所と兼用になってるから、ちょっとごちゃごちゃしてるかもしれない」 「ふうん? 便利屋さんだけどオカルトマニアなの?」 「要するに何でもやるんだよ。頼まれれば犬の散歩もやるし、浮気調査もするし、家屋の呪いも解くし」 何でもの範囲が広すぎ。 思わず吹き出すと、広樹くんは気恥ずかしそうに私を微かに睨んだ。 「変な親父だと思ってるだろ。俺が一番そう思ってるよ」 「いいじゃない。面白そうな仕事してるんだね」 「良くないよ。道端でゴミ箱引っくり返しながら猫探ししてる自分の親父に遭遇してみろよ。恥ずかしくて道を変えるぞ?」 「そうかもしれないけど。でも家屋の呪いも解くってことは、そういう方面にも詳しいんだ」 「って言うか元々そっちが専門。そっちだけじゃ食ってけないから、その他のことも何でもやるってのが正解。まあ、母親が外に普通に働きに行ってるし」 何よ。じゃあ最初に私が霊能力探偵さんがうんたらって言った時に、「そんな奴は知らない」って言ったのは思い切り嘘じゃないの。 不満を顔に書き殴って、今度は私がじっと睨んでやる。広樹くんはそ知らぬ顔で話を続けた。 「悪いな。ウチまでちょっと歩くことになる」 「私は全然構わないんだけど。歩くのは広樹くんだし」 「あ、そうか」 意外と間抜けな発言に吹き出すと、広樹くんはとことんバツが悪そうに鼻の頭に皺を寄せた。そのまま会話が途切れる。 二人とも口を閉ざすと、いくつか路地を挟んで向こうにある大通りから車の走る音が流れて来た。時折、遠くから電車の音も聞こえる。 裏道はしんと静かで、私と広樹くんしかいない。 近くの家から、微かにテレビの音や家族の声も漏れてくる。家の中はきっと温かいんだろうな。 黙って隣を歩く広樹くんを見ると、何を考えているのか、どこか切ない表情を浮かべていた。吐く息はさっきよりも白さを増している。私には感じられないけれど、きっと空気は冷たく澄んでいるんだろう。 遥か上空に真ん丸いお月様。今の私なら、もっと間近で見ることが出来るんだ。 それは、なぜだかとても悲しいことのように思えた。 3 駅に近付いてから人通りが増え、広樹くんはそこからぷっつりと口を利いてくれなくなった。黙ったまま彼についていく。 踏切を越えてから更に歩き、やがて彼が入っていったのは二階建ての建物だった。アパートかな? 一階にはコンビニが入っていて、建物脇の階段から二階へ向かう。 「ここ?」 出入り口の扉は、一見事務所か何かの出入り口みたい。擦りガラスの押し戸になっている。 「ここ。言っとくけどお茶なんて出さないぞ。飲めないんだから」 「あ、そうかー。飲めないのかー。そうだよね。残念」 「残念?」 「私、コーヒーって大好きなんだもん。もう飲めなくなっちゃったのかあって今気がついた」 「……ああ。そう」 一瞬奇妙な間を挟んで目を伏せる。それから広樹くんは黙って扉を押し開けた。鍵は開いているらしい。私も恐る恐るそれに続く。 「お邪魔しまーす……」 「親父っ」 広めの玄関で靴を脱ぎながら、広樹くんが中に向かって呼びかける。 玄関からすぐに真っ直ぐ廊下が伸びていて、右手には大きなリビングがあった。そのままダイニングと繋がっていて、更には奥に対面式カウンターのキッチンが見える。 廊下とリビングの間にも壁はなく、こちらもカウンターのように背の低い仕切りがあるだけだった。何とも開放的。玄関に立っただけで一望出来てしまう。 リビングには、入ってすぐに応接セットがあった。テレビや書棚なんかがあるのは普通だけど、壁際に大きなデスクが置いてあるのは普通じゃないと思う。まるで書斎も混ぜちゃったみたい。デスクの上は山積みの書類とファイルで向こう側が見えなかった。 お父さんの事務所と兼ねてるんだもんね。ここがそのまま仕事場になってるってわけだ。 「いないのか」 家の中は静かだった。誰もいないみたい。小さく舌打ちをしてデスクに近付くと、広樹くんはファイルの山からノートパソコンを発掘した。 「お父さん、いないの?」 「出掛けてるみたいだ。珍しく仕事でもしてるのかもしれない。出かけるなら鍵かけろって言ってんのに」 ぶつぶつ言いながら、片手でパソコンを操作する。同時にもう片方の手で携帯電話を取り出し、耳に押し当てた。短い沈黙を挟んで突然口を開く。 「俺」 電話の相手が出たらしい。 「トラブルが起こりそうなんで情報が欲しいんだ」 お父さんかな。広樹くんが口早に私のことを説明する。しばらく相手の話に耳を傾けていた広樹くんは、やがて頷いて通話を切った。そのまま黙って携帯をしまうと、パソコンを操作する。 「あった」 「何が?」 「あんたの家の土地に纏わる情報。親父のデータベースに入ってる」 オカルトマニアのデータベースにっ? 何か凄く嫌だ。 「多分これだろう」 パンっと軽い手つきでキーボードを叩き、ディスプレイを指で示す。横から画面を覗き込むと、画面上には地図とか年表みたいなものとか系図とかを含めた、やたらと詳細な資料が表示されていた。 「江戸時代の頃に、領主の屋敷に勤めてた鈴乃と言う女中が暴行を受けて惨殺されてる。領主と良い仲になったけど、邪魔になって若い衆に処分させたんだな。えげつねー。当時あそこの場所には農民が共同で使う納屋があったんだ」 何だか細かいし、見方もわからないしで画面から目を逸らすと、広樹くんが噛み砕いて教えてくれた。 「彼女が殺されてからは怨霊騒ぎが持ち上がり、更地に戻された。一時的に騒ぎはそれで収まったが、再び騒ぎが起きたのが明治時代の頃。建てられた長屋で住民が次々と変死している。再び更地に戻されて、それからは誰も住んでいなかった。そこにあんたらが越してきたんだな」 話を聞いていると、そんなところで今まで生活していたのかとぞっとした。嫌だ、気持ちが悪い。たくさんの人が死んでいる場所だったの? 「今まで変なことなんて一度も……」 「あんたが強力に怨霊を押さえ込んでたんだろ。生きてる間に鍛えていれば、消滅させるような戦力になれたかもしれない」 そんなわけのわからない仲間になるのは嫌。 「あんたが死んで、鈴乃の霊を遮るものがなくなったんだ。死んでからどのくらい経つのかわからないけど、残り香が消え始めたってとこか」 今の話では、私たちが引っ越してくるまであの土地はずっと空き地だったことになる。 付近住民は何らかの形で噂を知っているのかもしれないし、土地の持ち主もきっと困ってたんだろう。そうして何も知らない私たちに破格の値段で売りつけたんだ。 だけど私がたまたま抗匂の持ち主だったことで、鈴乃は出て来ることが出来なかった。 あ、だったら。 「もしも私があの家に帰って居座り続けたら?」 咄嗟に浮かんだ考えは、何だか名案のように思えた。 だって私に怨霊を押さえつけるような何かがあるんだったら、あの家に帰れば解決じゃない。 顔を輝かせる私に、広樹くんはパソコンを閉じながら顔を横に振った。 「多分余り意味がない」 「どうして」 「あんた自身が既に霊体だから。抗匂は魂の資質みたいなものだから消えはしていないだろうけど、黙って霊体を弾き飛ばすほど表出していないはずだよ。今のあんた自身と相反するわけだから」 「じゃあお母さんはどうなるのっ?」 私はもうこの先、ずっといないんだもの。お母さんが一人で住むはずのあの家は、怨霊の巣窟になっちゃうんじゃないの? 「幽霊って人に害を加えることが出来るものなの? だって私なんか、何にも触れられないのに」 「残念ながら。力を蓄えてくると触れることが出来るようになるらしい。良く聞くだろ。部屋から足音が聞こえたり、誰もいないのに肩を叩かれたり、寝てたら胸の上に怨霊が座ってたり、首絞めたり」 「うん」 「つまり彼らの中には、人を殺す力を持っている者がいる」 「恨まれる覚えなんてないのに!」 今こうしている間にあの家がどうなってしまうのか、話を聞いているだけで焦ってきた。 「基本的に奴らは混乱している状態だから、わけのわからない行動ってのも少なくないんだと。いきなり笑い出したり、自分の存在を誇示するだけして消えるってことを繰り返したりもするし、何の因果関係にもない相手を呪う奴もいる」 焦る私の空気を感じたように、デスクの引き出しを漁っていた広樹くんが顔を上げる。 それから安心させる為か、微かに目を細めて優しく笑った。 「俺が出来るだけのことはするから。待たせてごめん。行こう」 * * * 「私って怨霊を寄せ付けない体質だったのか」 「何だよ、しみじみと」 「肝試しできゃあきゃあ言ってたのが馬鹿みたい」 そんな私がこうして浮遊霊になって彷徨い出てるのも妙なもんだなとは思うけど。 広樹くんの家を出て、私たちは再び私の家へと急いでいた。 残念ながら『オカルトマニア』なお父さんの協力は得られなかったけど、代わりに広樹くんはお父さんから護符と短刀を預かっている。 護符も短刀も魔除けの類で、怨霊相手には立派な武器になるんだと言っていた。ちなみにこの短刀は刃が丸く、人への殺傷能力はとても低いらしい。 「護符は二種類あるんだ。他にもいろいろあるのかもしれないけど、俺みたい低級の霊視能力者ふぜいには、このくらいしか扱えない」 広樹くんがひらひらと振って見せたのは、二種類の護符だ。それぞれ黒と白で両方とも良くわからない文字が書いてある。彼の手元には、今これが五セットあった。 「ふうん? もっと凄い人たちもいるんだ。超能力みたいなことするのかなあ」 「さあ。俺には到底出来ない曲芸をするらしい」 曲芸って言われるとイメージが変わっちゃうからやめて。 「二種類の護符ってどう違うの?」 「こっちの黒い方は、要するにダメージを加える」 「もう一種類は?」 黒い護符を胸ポケットに収めて、白い方の護符で自分の顎を軽く叩きながら宙を睨む。 「こっちの白いのは、何て言うのかな。寄せ匂の話をしたろ」 「うん」 「怨霊ってのは大体寄せ匂の類を持ってるんだ。怨霊は怨霊を呼ぶ。元々それを持つ奴しか怨霊にならないってことはないだろうから、多分怨霊に変化すると同時にそうなるんだろうな」 怖い。 「爆発的に怨霊を呼ぶのが、消滅する瞬間なんだ」 「消滅する瞬間?」 「うん。例えば護符とか短刀で消滅に追い込まれたとする」 広樹くんは、制服のポケットに突っ込まれている短刀を軽く指先で弄んだ。 「短刀で広樹くんのチョーノーリョクがバリバリっと光になって……」 「だからそんな芸当は出来ないっての。俺じゃなくてこの短刀の方に呪力がある。こういったものを使って怨霊を消滅させると、奴らは消える瞬間に猛烈な寄せ匂を放ち、それを受けて魑魅魍魎(ちみもうりょう)が集まってくる」 思わず私は目を見開いた。 ちょっと待ってよ。それって。 「きりがないじゃない!」 倒したらまた自動的に他のが集まってくるんでしょ? 倒しても倒しても終わらないじゃないのよ。 「そう。きりがないんだ」 愕然とした私の言葉に、広樹くんは至極あっさりと頷いた。 「だからそうならないようにコレを使う。白い護符で寄せ匂の拡散を防ぐんだ。基本的には黒と白は常にワンセットで使うってとこだな」 そこまで言って広樹くんは護符をしまうと、ちらっと私を見た。 「あんたは絶対に護符に触れるなよ」 「触れられるの?」 「正確には護符になっているこの用紙に触れるわけじゃないさ。護符に込められた呪力だな」 「触れるとどうなるの?」 「あんた程度じゃ、吹っ飛ぶ」 ……。 「吹っ飛ぶって」 「『消滅』だよ」 あー、何か凄く穏便じゃないよー。やだよー。 「念の為に聞くけど、『消滅』するとどうなるの? 『成仏』するのとはまた違うってことだよね」 「親父の受け売りだけど、通常は魂を浄化する一定の休息時間を経てから、魂はこの世に戻ってくる。輪廻転生って奴だ」 「うん。聞いたことある」 「だけど『消滅』した魂にそれは叶わなくなる。文字通り消え失せるんだ。来世はない」 そう言った広樹くんは、なぜか少し苦い表情をしているような気がした。もしかすると「関わり合いになりたくない」と言っていたのは、ここにも理由があるのかもしれない。 だって護符を使って怨霊を消滅させると言うことは、自分の手でその魂の未来を――生まれ変わるチャンスを根こそぎ奪ってしまうと言うことになるのだから。 怨霊と言われる霊体も、かつては人だったはずなんだ。誰かの大切な人。 「ごめんね。広樹くん」 私の家に鈴乃が本当に現れているのなら、広樹くんは今から護符を使って鈴乃の未来を閉ざすことになる。 私が彼について来てしまった為に、無関係だったはずの彼は戦わざるを得なくなってしまったんだ。 そう思うと、たまらなく申し訳ないような気がした。 しゅんとする私に、広樹くんが少しだけ歩調を緩める。それから目を細めて私を見上げた表情が、何だかとても優しいものに見えた。……ちょ、ちょっとどきっとしちゃったぞ、のんきなことに。それどころじゃないんだってば。 「気にすんな」 「でも、巻き込まれたくなかったのに」 「いーんだ、俺は。だって……」 「うん?」 何かを言いかけて私を見つめる。だけど、言葉を飲み込むようにして緩く顔を横に振った。 「いや、何でもない。あんたの母親、もう帰って来てるかな」 「うん、多分」 「走るぞ」 先ほど家を包んでいたのは、おどろおどろしい暗雲。 だけど私はまだ怨霊と言うのを見たことがなかったから、少し危機感が足りなかったのも確かかもしれない。 駆け出す広樹くんの後をふわふわとくっついて行って、家のそばまで戻って来た私は戦慄した。 ――まるで、黒い炎が家から噴き上げているかのようだった。 4 夜の闇の中にあっても尚、家を包み込んで噴き上げるような黒い炎が見えるのは、私が幽霊だからだろうか。それが『見る』ものではなく『感じる』ものだからなのかもしれない。 広樹くんの家に行っていたほんの僅かな間にこれほど変化をしているとは思わず、背筋が震撼した。素人の私が見てもわかる。この家がまずい状態にあるのだと言うことが。 家の灯りが黒い炎に透けて見えた。お母さんが家にいる。あんな禍々しい家の中に。 「お母さんっ」 「陣馬っ!」 広樹くんの制止の声も顧みずに、私は家を目指して空を駆けた。身が竦むほど怖いけれど、そうせずにはいられなかった。 お母さんの無事を確かめなきゃ。 今の私には扉も壁も全く無意味だ。にも関わらず、律儀に玄関の扉をすり抜けて中に入る。見慣れた玄関に、なぜか猛烈な懐かしさがこみ上げた。もうここに「ただいま」と帰ってくることがないからかもしれない。 玄関を入ると正面は二階への階段だ。廊下は左右に伸びていて左は普段使わない和室、右にはリビングがあり途中にキッチンがある。 暗く静まり返った家の中で、リビングだけに灯りが灯っていた。 「お母さん!」 不意にちょうど頭上の辺りからゴトン、と言う重たい音がした。何かが落ちたような音だ。お母さんは上にいたんだろうか? ずず……ずず……と重たいものを引き摺るような音が天井から聞こえる。身動き出来ずに耳を澄ませていると、二階の廊下にべたっと何かが張り付くような音が微かに聞こえた。もし今私に肉体があったら、鼓動は異様なほどに速く、手には嫌な汗をかいていただろう。 見てはいけない。 見てはいけないものがいる。 そう思うのに確かめないわけにもいかない気がする。 そっと階段の下から顔を覗かせて上を見上げた。そして次の瞬間、声にならない引きつれた悲鳴が喉を駆け上がった。 女がいた。 階段の上、床にへばりつくようにして顔だけがこちらを向いている。 まるでトカゲか何かのようだ。這いつくばったまま階段を降りようとしているかのように、不自然に屈折した血みどろの右手を差し出していた。 簾のように顔のほとんどを覆う乱れた長い髪は、ところどころ不自然にほつれて束になっていた。隙間から覗く額も血に染まり、髪を固めているのもきっと血液なんだろう。 落ち窪んだ片目がぎょろぎょろと大きく、血走った白目の中で黒目がいやに小さい。裂けてるのかと思うほど口角をつり上げ、歪んだ笑いを浮かべているみたいだった。 女――鈴乃と目が合った。 「お母さんっ!」 反射的に身を翻し、リビングへと駆け出す。それを合図としたかのように、鈴乃が階段を降りてくる音が聞こえた。 ダンダンダンダン、ダダダダダダッ……。 緩慢な動きに感じられた先ほどとは違い、まるで階段を転がり落ちてくるような音。 血走った目を見開いて髪を振り乱しながら、四つん這いで階段を駆け下りてくるような猛スピードに、私は半狂乱になった。 「逃げてえっ」 扉を開け放したままのリビングに飛び込むと、何も気づいていないお母さんが一人、ぽつんとテーブルに向かっていた。 「お母さんっ! お願い、逃げてえ!」 私の声はほとんど悲鳴だ。だけどお母さんは、ぼんやりとテーブルに頬杖をついたままだ。 ダダダダダダダダダッ……。 「いやあっ!」 音が廊下を駆け抜けてくる。 血塗られた顔に歪んだ笑みを浮かべて肉迫する姿を想像して咄嗟に振り返ると、急に音が止んだ。 「え」 意表を突かれて目を瞬く。いなくなったの? 違……。 「ひっ……」 何気なくお母さんの方を振り返って、凍りついた。リビングと続き部屋になっているキッチンの床に『それ』がいた。 はっきりとは聞き取れないけど、何かを言っている。まるで呪詛のように。広樹くんが「怨霊は基本的に混乱している」と言っていたことを思い出した。 鈴乃が床にへばりついたまま、片手を前に出した。体を引き摺るように緩慢に動き出す。顔はこちらを向いたまま。 ずるり……べちゃっ……ずる……。 引きずるような音に、時折粘液質な音が混じる。どうすることも出来ずにただ立ち竦む私に向かって、鈴乃は確かににやあっと笑った。 「――広樹ぃぃぃぃっ!」 絶叫が迸る。鈴乃が緩慢な動きでずるっと部屋に入ってきた。お母さんは何も気づいていない。人はこんなものが部屋に入ってきても気が付かないのだと言うことにぞっとした。 鈴乃が、喉の奥から絞り出すようないびつな笑い声を上げた。まるで手も足も出ない獲物を見つけて喜んでいるみたいだった。 「広……っ」 再び助けを呼ぼうと声を上げかける。その時耳をつんざくような破砕音が響き渡り、立て続けに重たいものが廊下の壁に叩きつけられる盛大な音が重なった。 「広樹!」 続けて広樹くんが飛び込んでくる。キッチンの窓を破って中に入ったのかもしれない。そこでようやく異変に気づいたお母さんが悲鳴を上げる。広樹くんはそちらを顧みずに二枚の護符を構えた。広樹くんを敵と判断したらしい鈴乃がくわっと目を見開く。 「あ、あなた誰っ?」 お母さんの誰何(すいか)には構わず、広樹くんは護符を鈴乃に叩き付けた。鈴乃が避けようと身を捻らせるが、避けきれずに護符が鈴乃の肩に張り付く。瞬間、護符の張り付いた部分から煙が上がった。地獄を思わせるような奇怪でおぞましい雄叫びを上げて鈴乃が悶える。その肩が溶解していくように赤黒く変化していった。き、気持ち悪い! その間に広樹くんは、今度はお母さんの方を向くと一枚の護符を投げつけた。 「すみません」 短く謝罪をする。恐慌に陥って逃げ出そうとしたお母さんの背中に白い護符が吸着し、途端その体がかくんと崩れた。 「何したのっ?」 「警察なんか呼ばれても俺が困る。ちょっと体の動きだけ封じさせてもらった。意識はあるから、起こってることは見えてるはず」 厳しい表情のままでそう私に説明すると、広樹くんは短刀を抜き出した。鞘を払うと同時に、鈴乃が手を振り上げて飛び掛る。一閃させた短刀に鈴乃の腕から血が噴き上がり、一方でその爪が広樹くんの頬を抉った。双方バランスを崩して床に倒れこむ。 体勢を立て直すのは広樹くんの方が早かった。短刀を構えて跳ね起きると一歩踏み込んで鈴乃の首筋に強く叩き込む。すぱっとその首に切り込みが入り、血しぶきが噴き上がる。鈴乃の首が皮一枚で繋がっているかのようにぱこんっと後ろへ仰け反った。まるで宝箱の蓋でも開いたみたいだ。宝箱と違ってグロテスクなだけなんだけど。 と、カタカタカタカタ……と変な音がした。何かと思えば、どうやら鈴乃の笑い声らしい。人の上げる笑い声とは到底思えるものじゃなかった。 広樹くんが護符を放つ。刹那、入れ違うようにカクンと鈴乃の首が正面に戻った。宝箱の蓋がしまった状態。だけど首の鮮烈な切れ目は健在で、そこから赤黒い血がどばどばと溢れ出ている。鈴乃の髪が生き物のようにうねって、広樹くん目掛けて襲い掛かった。髪が彼を絡め取るのと同時に、護符が張り付いた鈴乃の顔面から煙が噴き上がる。 「……ッ……!」 広樹くんが苦痛の声を上げる。鈴乃もまた苦悶の声を家中に響き渡らせているが、広樹くんを締め付ける髪を解こうとはしなかった。首に絡みついた髪は見ているだけでもギリギリと締まっていくのがわかる。広樹くんの顔は苦痛にきつく歪んでいた。 だけど私には何もしてあげることが出来ない。 「広樹くんっ」 ただ見てるしか出来ない。どうしよう。どうしよう。本当に出来ることはない? だって彼には元々無関係なのに。――死んじゃうよ! 「……何っ?」 不意に視界の隅で何か黒いものが映った。ぞくっとして慌てて天井を振り仰ぐ。そしてそこに恐ろしいものを見た。 天井の隅からペタッペタッと血のような赤い手形が広がっていく。それを覆い隠していくかのように黒く滲み出てくる染み。次いでうぉーん……と低く変な音が聞こえた。部屋をびりびりと震わせる不気味な音は、反響するみたいに広がっていく。空気の密度がどんどん上がっているかのような圧迫感――何かが集まってくる。 そこで気が付く。この場所には鈴乃以外にも、鈴乃のせいで変死した人たちがいるのだと言うことに。 「いてえっ」 突然広樹くんの体が放り出された。テーブルに叩き付けられて盛大な音を立てながら吹っ飛ぶ。見れば鈴乃は新たな護符を受けて、胸の辺りから煙を上げていた。短刀に切り落とされたらしい髪もバラバラと床に散らばっている。 「他にも何かいやがる……」 ぜぇぜぇと息をつきながらよろりと立ち上がった広樹くんは、自分が叩きつけられた壁に背中を預けて天井の隅を見た。みるみる手形と黒い影が侵食していく。 それから新たな護符を取り出した。 護符はもう残りニセット……ううん、さっきお母さんの動きを封じるのに白い護符を一枚使っているから、厳密に言えば一セットプラス一枚。 鈴乃だけで手一杯なのに、これ以上新手が来たらどうなるの? 何か私に出来ることはないの? 私に……。 「広樹くん」 鈴乃はまだ苦悶の声を上げてのた打ち回っている。黒い護符を構えたまま、広樹くんが荒く息をついてゆらっと一歩踏み出した。 「怨霊が消滅する時に寄せ匂を放つのは、寄せ匂を持っているから。……だよね」 「え? うん……」 「じゃあ、抗匂を本来持っていた霊体が消滅する時には?」 「何……」 広樹くんが目を見開いて勢い良く私を振り返る。 白い護符は拡散する寄せ匂を防ぐ為――抗匂を持つ私が消滅する時に白い護符を使わなければ、抗匂が拡散するんだよね? だったら……だったら、私が消滅すれば良い。 「一つだけお願い」 手を伸ばせば、私は消滅する。消滅って痛いのかな。怖いよ。怖くて涙が浮かび上がった。体が震えた。 「お母さんに、私からのメッセージを伝えて」 無理矢理笑う私を、広樹くんが愕然とした顔で見返す。 本当は私自身が直接伝えたかったよ。 後悔しない生き方をすれば良かった。伝えたいこと、あったのに。 「大事に育ててくれたこと、感謝してる。ありがとう。そしてごめんなさいを伝えて」 「馬鹿、やめっ……」 「もしも生まれ変わることが出来たら、次は生きている間に知り合おうね」 広樹くんが護符を引っ込めるのより、私が手を出す方が早かった。 「助けてくれてありがとう。あなたがいてくれて良かった」 触れた瞬間、手のひらが火傷でもしたかのような熱さを感じた。反射的に手を引っ込めかける。だけど鈴乃に張り付いた護符がそうだったように、私の手に張り付いた護符も剥がれない。 電流が体中を駆け抜けるように激痛が細部まで全身を走る。まるで細胞単位で刻まれていくような耐え難さだった。 「由香ぁぁぁぁぁ!」 痛みしか感じられなくなった私の意識に、不意にお母さんの声が割り込んだ。 お母さん? どうして? 幻聴? 確かめたい。だけどもう目も開けられない。 お母さん。 私の声は、届いたのかな。 「ありが……」 「陣馬っ!」 激しい痛みに頭も体も痺れて最後まで言えず、言葉がそのまま絶叫に変わる。 爆風、轟音、激痛、痺れ、耳鳴り、涙、誰かの声、私の悲鳴、噴き上げる光―――。 脳裏を過ぎる記憶の断片。 桜の木の下を父親に手を引かれて歩いた微かな記憶。 離婚をした時のお母さんの泣き顔。二人でした引越しの準備。高校に入学した時の笑顔。 お母さんとの思い出は、たくさんあるんだ。 浮かんでは消えていく友達、今まで知り合ったたくさんの人たち。 広樹くん、嫌がってたのに手を貸してくれたね。ごめんね。 お母さんを助けてくれてありがとう。 あなたに会えて良かった。 * * * 「由香……由香……ごめんなさい、お母さんが悪かった、由香……」 由香の消滅と同時に、家の中には静寂が戻った。 鈴乃の姿も天井に湧き出た染みも、全てが嘘のように消失している。 あちこち痛む体を引き摺って由香の母親から護符を剥がすと、彼女は虚空を見つめて泣き崩れた。 「由香さんの姿が見えたんですか」 どう説明しようか悩みながら口を開くと、母親は涙の溢れる眼差しで広樹を見上げた。こうして見ると、目元や顔の形など由香と良く似た上品な女性だ。 「今、由香が確かに」 「見えたんですね」 奇跡はあるのだろうか。 普段霊視能力のない人間が、強力な怨霊などではないただの浮遊霊を見るようなことはそうそうない。少なくとも広樹は聞いたことがない。 しかし母親は確かに彼女の姿を見、声を聞いたのだ。広樹が伝えるまでもなく、由香のメッセージは由香自身の声で母親に届いた。 「あの子はどこに行ったんですか。あなたは誰なの?」 当然と言えば当然だが、混乱状態の母親に事情を説明する。 由香が母親に本当は感謝をしていたことと、先日の喧嘩をひどく後悔していたことを告げると、母親は再び床に崩れて咽び泣いた。 放心状態の母親に代わって家の片づけをする。陣馬家に入る為に破壊してしまったキッチンのガラス戸は、父親に経費で修理してもらうしかない。とりあえずは応急処置的にダンボールで風穴を塞ぐ。 しばらくそのそばで母親が落ち着きを取り戻すのを待ち、出来るだけ早く引っ越すことを勧めると、広樹はようやく陣馬家を後にした。 「いってぇ……」 外に出ると、冷え込んだ夜の空気が広樹を包み込んだ。鈴乃につけられた頬の傷が一際痛む。顔を微かに歪めながら、広樹は夜空を仰いだ。 由香は消えてしまった。 彼女の笑顔が脳裏に浮かぶ。それが一層胸を締め付けた。 『田中商店』に続く細い道に入る前に、広樹は足を止めて由香の家を振り返った。ぽつんとあの家に残された母親の姿を思うと、胸が痛んだ。 「俺にもう少し力があったらな」 自分がこれまでにもっと経験を積んでいたならば、もっと強かったならば、由香は消えずに済んだだろうか。 重い体と心を引き摺って、路地の壁に寄りかかる。由香の母親のそばでは飲み込むしかなかった涙が、今になって込み上げた。 最初、冷たくしてごめん。だけど耐えられないような気がした。 その姿を見るたびに、あんたが死んだことを見せ付けられるってわかってたから。 もうあの店に行っても、笑顔は見られないんだな。 ――伝えたいことがあるならそばにいてくれるうちに伝えないと。 ごめんな。せっかく忠告してくれたのに、一番伝えたい人に伝えられなかった。 だけど伝えたら気にするだろう? 俺の気持ちに対する答えを悩むのではなく、悩むこと自体が無意味である自分に苦しむ気がした。だから言えなかった。 これも優しさの一つってことで勘弁してよ。 次に大事な誰かが出来たら、その時はその言葉を思い出すことにする。 忘れないように、そばにいてくれる間に大事にするよ。 気づかせてくれた君に、ありがとう――。 エピローグ 「いらっしゃいませー」 十二月に入り、いつものコーヒーショップの店内にはクリスマスソングが流れている。 レジカウンターのそばにもミニチュアのクリスマスツリーが飾られ、どこか浮かれた雰囲気が漂っていた。 「店内でお召し上がりですかー?」 店員の女の子が、カウンターに立った広樹ににこやかな笑顔を向けた。 「いえ、持ち帰りで。ホットコーヒーを二つ」 「かしこまりましたー。少々お待ち下さいませー」 やや間延びした返事をしながら、女の子がこちらに背を向けてコーヒーの準備にかかる。その間に財布を取り出しながら、広樹はいつもここに見ていた由香の姿を思い浮かべていた。 由香はもうどこにもいない。それは事実だ。 広樹の目の前で消えてしまったのだから。 ――もしも生まれ変わることが出来たら、次は生きている間に知り合おうね。 由香が広樹に残した最期の言葉だ。 彼女が護符で消滅してしまったのならば、彼女に次はない。しかし……。 「ありがとうございましたー! またお越し下さいませー」 精算を済ませてコーヒーを受け取ると、広樹は店を出た。店内のみならず、街にもクリスマスソングが溢れ返っている。行き交う人々は誰も彼もが華やいで楽しそうだ。 ――あいつ、消えちゃったのかな。 あの日、家に帰った広樹が父親にことの顛末を話すと、しばらく黙っていた父親がやがて小さく笑ってこう言った。 ――さあて。最後に母親に伝わったってことは、そうとも言い切れないかもしれないぞ? ――え? ――由香ちゃんの声が母親に聞こえたってことは、彼女の未練がその瞬間解消されたってことだ。護符で消滅するのと彼女の未練が解消されるのと、早かったのはどちらだ? タイミングで言えば、由香の言葉が母親に届く方が当然早かった。 ――わからんけどな。希望的推測だ。 父親の希望的推測がもしも本当ならば、彼女はまた生まれてくることが出来るだろうか。 せめてそう信じたい。 吹き付ける冷たい風に一瞬身を縮めて、広樹は父親の車が待つ方向へ足を向けた。自分を鍛える意味で、広樹はあれから父親の仕事を手伝っている。 ずっと自分の力を忌み嫌っていたが、ほんの僅かでも由香のような誰かの手助けになれるのならば『見えて』しまうのも悪くはないだろう。 少なくとも自分にこの力がなければ由香の母親を救いに駆けつけることは出来なかっただろうし、由香と母親の架け橋にもなってやれなかったのだから。 あれから、広樹は度々由香の母親の様子を見に行く。彼女は近日引越しをすることが決まり、その日も手伝いに行ってやる予定だ。 由香の母親から生前の由香の話を聞くのは、嬉しくもあり寂しくもあった。 しかし話を聞いてやるのもまた、由香の母親の心の整理に繋がるだろうと思っている。 「親父? 今そっちに戻ってるよ。え? 移動した? ああ、うん、わかった」 父親からの着信に応え、通話を終えると、広樹は一度足を止めて振り返った。 いつもあの店で笑ってる君の姿が好きだった。 もうこの風景のどこを探しても君はいないけど、残してくれた言葉は忘れない。 今そばにいてくれる人が明日もそばにいるとは限らないと教えてくれた。彼女の言葉を大切にして生きていこうと思う。 「ありがとうございました! またお越し下さいませ!」 店から響く明るい声に背を向けて、広樹は再び父親の待つ車へ向けて歩き出した。 反省も後悔も君との出会いも、未来の自分に繋げていこう。 自分と――そばにいてくれる誰かの為に。 |
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Fin. | |||||||
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2008/11/10 ▼あとがき |
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◆一応あとがき◆ 投稿用に書いた短編です。 「ZERO」とは全く無関係の短編第2弾。 予定調和な現代FTではありますが、子供の頃幽霊モノが結構好きだったので何だかそんなノリで書いてみました。 話の中盤にやや悔いがありますが、楽しんで頂ければ幸いです。 後味だけが心配ですorz ダークな気分になったらすみません。 読んで下さって、ありがとうございました。 |