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――コウくん、『オレンジレモン』持ってる? はいはい、持ってますよ。 ――ひとつ、ちょーだい。コウくんっていっつも『オレンジレモン』持ってるよね。 俺がこんな可愛らしい飴を、自分が食う為に持ってると思うのか? お前がいつも、欲しがるからだろ。 ――コウくん、大好きー。 ああ、どうもね。俺もユイのことが好きだよ。……お前とは、意味が違うけどさ。 ――コウくんにね、話があるの。あのねぇ……。 うんうん。今度は何だ? おねだりのような、甘えるような顔。ずるいよな、そんな可愛い顔して……。 ――ユイねえ、彼氏が出来たんだあ。 ああそう、はいはいは……い? ……彼氏? *** 耳元でけたたましく鳴る目覚ましが、不愉快な夢を中断させる。 真夏の蝉より甲高い音に、俺は寝起きの不機嫌さ最高潮で、荒っぽく目覚ましを黙らせた。 (彼氏かぁー……) 嫌な夢、見ちまったな。朝からテンション落ちるよ。 だけど、夢じゃない。わかってる。これは、夢の中の出来事じゃなくて、先週末の帰り道に実際俺とユイとの間で交わされた会話の再現だ。 学校をばっくれたいほどの低いテンションで、のろのろとベッドから這い出る。朝ご飯がどうこうわめく母親を華麗にスルーして身支度を整えると、俺はどこかぼんやりしたままで家を出た。 7時50分。 いつもの道を歩く足取りが、重い。 中学の時からずっとそうしてきたように、いつもの『田中商店』の前に、ユイがいた。 「おはよおーコウくんー」 まだシャッターの下りている店の前でガチャポンと睨めっこをしていたユイが、俺に気づくなりぶんぶんと片手を振り回す。 高い位置に2つに分けて縛ったふわっふわの長い髪が、動きに合わせて大きく揺れる。 「はよ……」 ユイの顔を見て、『短い尻尾をちぎれんばかりに振る子犬』をなぜか思い浮かべた。ユイは、実に俺に良く懐いている。 惚れたの腫れたのではなく、『懐いている』だ。 「う?」 その頭をぽんぽんと撫ぜてやると、ユイは大きな目をきょろーんっとさせて小首を傾げた。 「なーに?」 「や、別に……行こう」 出会ったのは中2の春だ。 その頃、転校して来た俺はなかなかクラスに馴染むことが出来ず、余り感情を表に出さないせいもあってか「すかしてる」とか言われて一部の男子に目をつけられた。 要するに退屈だったんだろう、あいつらも。そして転入生で浮いていた俺は、体の良い刺激剤だったわけだ。 彼らの日常に『武勇伝』を加える為だけに体育倉庫へ連れ込まれた俺は、残念ながら一人で抵抗しきれるほど勇猛でもなく、あっさりボコられた。 そこへ、モップを持って飛び込んできたのが、当時……そして高校に入った今もクラスメイトの、ユイだった。 「そんでねー、ヒロくんが連れてってくれたクレープ屋さんでねー……」 並んで駅への道を辿りながら、ユイが週末の出来事を一生懸命に話す。 同い年ながら、どこかすっとぼけてほわほわしている彼女は、石のない平らな道でコケまくるような天然ボケだ。常に何かの軸が微妙にずれている、気がする。 けれど彼女なりに正義感は強いらしく、あの時体育倉庫に入る俺たちを窓から見ていて、放ってはおけないと駆けつけてくれたらしい。 後で、先生に押し付けて自分は手を引けば良かったのにと言った俺に、彼女はきょとーんと目を丸くした。どうやら、テンパり過ぎて思いつかなかったようだ。あの時はあほなのかと思ったが、多分やっぱり、あほなんだろう。 手にしたモップはなぜかビショビショで、そしてご本人も怖くてわんわん泣きながらの登場に、俺を連れ込んだ奴らのみならず俺も度肝を抜かれた。泣きながら、水の絞りきれていないモップをふらふらと振り回す様は、こう言っちゃ何だが滑稽だった。――滑稽で……だけど、可愛かった。 ……ああ、安っぽい理由と笑ってくれ。あの時俺は、彼女に惚れたんだ。泣くぐらいなら来なきゃ良いのに俺を放っておけなかった彼女の意地と、可愛い泣き顔に。 あれを機に、3年経った今もなぜかこうして、ユイとの縁は続いている。 「んでもユイが食べたメロンマンゴークレープも美味しかったんだぁ……」 「メロンとマンゴーを混ぜるハイセンスについていけない」 「んー。マンゴーの味しかしなかったー」 隣を歩くユイはちっちゃくて、大して長身でもない俺の肩くらいで全長が終わる。 昨日のことを思い出すように、少し先の地面をじっと見つめては、長い睫毛が時折忙しく上下した。言葉が見つからない時には困ったように、柔らかそうな唇を微かに尖らせる。ふわふわの髪が、半袖の制服から覗く俺の腕に触れてくすぐったい。 他の男とのデートの一部始終なんぞ聞きたくもないので、ほとんど聞き流しながらユイの顔を眺めていると、突然ユイが顔を跳ね上げた。 「コウくん、聞いてない」 「聞いてる聞いてる聞いてます」 「聞いてる? そう?」 人を疑うことを知らないユイが、あっさりと納得する。 それから、可愛い笑顔で拷問を再開した。 「でね、クレープ屋さんの近くに可愛い雑貨屋さんがあってぇ、ヒロくんがユイにこれを買ってくれてねぇ……えとね、コウくんにも見せてあげるね。えっとね、えっとね……」 ヒロくん、と言うのが彼氏の名前らしい。大学1年。 そして俺は彼女にとって何かと言えば、恐らくは『お兄ちゃん』って奴だろう。……いや、同い年だけど。 甘ったれで、ガキっぽくって、頼りない上に成績も悪いユイの隣にはいつも俺がいて、甘えさせて、世話してやって、ついでに勉強も見てやる。 仲の良い兄妹のような関係が定着し過ぎていて、多分ユイは俺の気持ちなんて想像したこともないんだろう。 「あのね、このブレスレット……ふぎゃ」 何もないところで蹴躓いたユイが、ブレスレットを取り落とした。仕方なく代わりに手を伸ばし、その壊れそうに繊細なデザインに焦燥感が湧いた。 (高そうだな……) いくらくらいすんだろな。ところどころについてる石は、じゅえりーって奴か? 石の名前まではわからんが、ガキじゃあるまいしガラス玉じゃないだろう。 「もらったばっかだろ。落とすなよ」 「うぅぅぅ」 「お前、すぐなくしそう。ほら、しまっとけよ」 「あ! つけといたらなくさないかも! つけてー」 これを拷問と言わずして何とする。 どうして俺が、『到底俺には買ってやれそうにない他の男からのプレゼント』をつけてやらねばならんのか。 「馬鹿言え。学校でアクセサリーは禁止だろ。なくさなくたって、取り上げられるよ」 「えー。そっかー」 悔しさを飲み込んだせいで、声が掠れた。 けれどユイはそんなことには全く、これっぽっちも、露ほども気がつかずに、素直に頷いてブレスレットを受け取った。 足を止めてごそごそと鞄のポケットに大切そうにしまう姿から目を逸らすと、思わず深いため息を落として歩き出す。 「ん? 何?」 「何でも。ほら、早く歩けよ。遅刻するだろ」 「はーい」 ブレスレットをしまって満足げに顔を上げたユイが、慌てて追いついてくる。そして、そっけなく歩く俺の腕をくいっと引っ張って、無邪気さ全開の顔で見上げた。 「コウくん、『オレンジレモン』持ってる?」 いつものおねだり。 そんなに好きなら自分で買えば良いのに、ユイはこの……どこのコンビニでも売っているありがちなスティックキャンディを、『俺からもらうもの』だと思っているらしい。俺も、『俺がやるもの』だと思ってしまっているんだろうか。コンビニに行くと、買ってしまう。一種の調教か。 「はいはい、持ってますよ」 「ちょーだい」 コロンとひとつ、手のひらに転がしてやる。にこにこにこにこしながら包み紙を剥くユイに、俺はこっそりともう一度、ため息をついた。 ……どうして。 どうしてもっと早くに、俺の気持ちを伝えておかなかったんだろう。 *** これまで俺は、ユイと登下校を共にするのが習慣付いている。 けれど今日は、教室で爽やかに「コウくん、ばいばーい」と別れを告げられてしまった。大方、『ヒロくん』とやらとデートでもあるんだろう。 朝はきっと今まで通りなのだろうから、明日の朝にはまた今日のデートについて、得々と語られるに違いない。登校拒否になったらどうしてくれる。 いや……そもそも、俺と一緒に登校すること自体が間違ってるんだよな、多分。 これをきっかけに、それも解消……。 「ユイちゃん、彼氏出来たんだって?」 珍しくクラスの男数人と校舎を出て、帰路に着く。市立図書館に寄るつもりの俺と、同じ駅でバイトをしている田村が電車を途中下車し、2人になったところで思い出したように言われた。 「そうらしいな」 改札を抜け、肩を並べて階段を降りながら、敢えて短くその問いに答える。 「へー。何だよ、意外と冷静じゃん」 「『意外と』って何だよ。俺はいつでも冷静だよ」 「そうだけどさ。ユイちゃんに彼氏出来たら、さすがに動揺するかと思ったのに」 「別に、そーゆーお年頃なんだから彼氏くらい出来てもいんじゃねーの」 表情を変えずにあっさり言い放つと、田村の方が目を見開いてため息をついた。 「結局お前と落ち着くと思ってたんだけどなー。何か残念だよなー」 学校の奴らなら、多分俺がユイの虫除けになってただろうよ。 だけど、俺とは全く無関係の、母親と良く行くカラオケ屋の店員なんて、俺の存在を知る由もない。 「何でお前が残念なんだよ。これで俺も落ち着いて彼女が作れるってもんだろ」 「おっと。その気になればいつでも彼女が出来るような発言しやがって」 軽く足先で蹴る真似をする田村に笑ってみせるものの、この心の中で吹き荒ぶ氷雪をどう処理したものか。 いやでも、これが多分、本来あるべき状態なんだろう。イイ年した男女が、付き合ってもないのに毎日一緒に登下校しているのはきっと不自然に違いない。同性の友達とももっと戯れるべきであり、彼氏が出来たユイは、彼氏とべたべたするべきであり……。 (……彼氏とベタベタ……) 自虐的な奴だな、俺って……。 学校は、もう間もなく夏休みに入る。 夏休みの間にユイは彼氏と付き合いを深めるんだろう。 今までだったら、夏休みもユイのお相手は俺の役目だったけれど、そういうわけにもいかないじゃないか。……良い機会だろ。うん。良い機会じゃないか。ユイと自然に距離を置くには、夏休みは最良のタイミングと言える。そして会わない1ヵ月半の間にユイは俺がいないことに慣れ、俺も……。 ……きっついな。 いつも隣で、誰より近くて、犬っころみたいにすぐに「大好き」ってしがみついてくるから、半ば彼氏気取りだったんだろう。それだけに、ショックはでかい。 田村と別れて市立図書館に向かった俺は、乾いた気分のままでとりあえず返却カウンターに足を向けた。 借りっ放しだった本を返却し、これで用事は済んでしまったわけだが、このまま帰るのもどこか虚しい。 この後にしなきゃならないことは別段ないし、家に帰ってもどうせ悶々とするのであれば……と、書架の方へ足を向けた。 特に目的もなく、何か面白いものでもあれば借りて帰るかな程度に、ぶらぶらと見て回る。静かに紙を捲る音だけが響く館内で小説の棚を一通り眺め、2冊ほど片手に持ったまま、俺は奥の階段を上り始めた。 上のフロアは、余り見たことがない。専門的で難しそうな本ばかりが並んでいると言う印象がある。 時間潰しの意味も含め、『哲学・心理学・宗教』『歴史・伝記』『政治・法律』とジャンル分けされた本棚を眺めて歩いていた俺は、ふと『医学・薬学』のところで足を止めた。ついでに、しゃがみ込んでしまった。 『人間に惚れ薬は効くのか?』。 「……」 馬鹿なことを考える奴もいるんだな。 そう思いながらも、なぜか手に取る俺がいる。いや、手が勝手に。 古来から使い古され、使い回され、搾り取られてカスカスになったこんなネタを、こうして書物に纏める人間がいるんだなと言うところに興味を覚えただけだ。 別に、そんなものがあるなんて、思っちゃいない。 思っちゃいないが、そう、学術的興味と言う奴だ。ガクジュツテキキョーミ。 アホらしいと思いつつ、しゃがみ込んでぱらぱらと眺めてみる。 人間ってのは悲しい生き物で、『人間用! 効果テキメン惚れ薬』なんてのは需要と興味が絶えないらしく、これを見る限りでは真面目な研究もされてきているらしい。ほうほう、それは失礼しました。歴史的に、誰もが安易にもてたいこの事実。 要するに、フェロモンだの性ホルモンだのを研究しているノリだろうか。媚薬なんかもこの研究と繋がってるんだろうが、歴史だの実験だの何だのかんだのと意外に難しいことが書いてあり、段々と斜め読みになってくる。 まあ、要するにそんな便利なものは、あるわきゃないんだよ。 研究したものの、出来ませんでしたってわけで……。 (『家庭で出来る惚れ薬』?) 家庭で出来るわけがないだろう。 ぱらぱらと流したページでふと手を止めてしまった自分を、嘲笑う。 本文ではなく、1ページコラムのように手書き図入りの胡散臭いレシピがあり、鼻で笑いながら、俺はようやく立ち上がった。 そして、通りがかった係員に、声をかけた。 「すみません。コピー機ってどこにありますか?」 *** マウスの場合は、鼻の上皮でフェロモンと言うのを感知するらしい。 けれど、人間は五感や経験、そしてリアルタイムにインプットされる情報などあらゆる角度から惚れるだの惚れないだのが左右される。 少なくとも現状では「これが効く」などと言うものは、存在しない。 (1)ザクロとリンゴをミキサーにかけます。 それはそうだろう。 そんなものがあるのであれば、100万や200万の金が平気で世の中を飛び交っている。何て悲しい生き物なんだ、人間。 肉体的に何らかの作用を及ぼす媚薬と言うのは存在しても、精神に恋愛感情を引き起こすなんてのは、無茶だ。 (2)鹿の角を小さじ2分の1、ザクロとリンゴのジュースに混ぜます。 (注)鹿の角は漢方薬で十分です。 つまり、家庭でそんなものが出来るわけがない。出来るなら世の中ピンク色だ。 こんな胡散臭い記事を書く奴の気も知れないが、乗ってしまう奴がいるとすれば何をか言わんや、だ。呆れ果てる。 本気になるような奴は、痛い。痛すぎる。痛いを通り越して、哀れだ。 (3)鍋に砂糖1カップ、裏ごししたジュースを1カップ入れて強火にかけ、 煮立ったら弱火にします。 まあ、ついついコピーなんかしてしまった時点で十分痛い俺が言えた義理ではないが、何と言うか……興味はあるだろう。興味は。 洒落で読んでやってもいいかなと思っただけで……ザクロとリンゴが食べたくなったから八百屋に行ってみただけで……そして、『鹿の角』と言う漢方薬は何なのだろうと思って、帰り道に薬局に立ち寄ってしまっただけで。 だから、ここまでは、「そんなに思いつめてるのか」と少し哀れに思うくらいで許して欲しい。 (4)テフロン加工のフライパンやラップを敷いたバットに流し込み、 手で触れるまで冷えたら型抜きをします。完成。 「出来た……」 最も残念なのは、作ってしまい、出来てしまい、挙句に「出来た」とか呟いているこの瞬間の俺だと思う。 *** 夏休みに入り、案の定、ユイと会わないままで1週間が過ぎた。 思った以上に、きつい。 今頃ユイは彼氏とぬあああああああ……などと下らんことを考えてしまう自分を、今この世の中で最も呪う。多分「クール」で通っているはずの俺がのた打ち回っているこの姿は、学校の奴らは微塵も想像がつかないだろう。 その夜、俺は部屋でぼんやりと机に向かっていた。 気を紛らわせる為に友達と昼間見に行った映画も、結局何の気分転換にもならなかった。……会いたい。こんなに会わなかったのは、多分出会ってから、初めてだ。 頬杖をつく俺の視線の先には、『ちっとも冷静じゃなかった俺があの日作ってしまった惚れ薬もどき』がある。 出来上がりはどう見てもただの飴で、台所にあった手のひらサイズのジャムの空き瓶なんかに入れてみた。 入れて、部屋に置いて、自問自答。どうする気だ、俺。 常識的に考えて、こんな胡散臭いものを寄りによって惚れた女に食わせるわけにはいかないだろう。 『鹿の角』って何なんだよ、『鹿の角』って。 更にザクロとリンゴを混ぜたジュースの味も今ひとつ読めないし、だったら味見をしてみろよと思いつつ……不思議なもので、本当に惚れ薬だったらどうしようなどと言うありえない躊躇が存在する。 俺が俺に惚れた場合、俺はどうしてやりようもない。 (ユイの奴、何してんのかなー……) 何もする気力がなくて、すとんと椅子の背もたれに体を預けた。ぼんやりと投げた視線の先には『怪しい飴』と、『怪しくないスティックキャンディ』が5つ転がっている。 コンビニに行くと、買っちゃうんだよ。 あいつが欲しがった時に、切らしてないように。 下手すると一日に3回も4回も欲しがるから、まだ余ってるって時でも買っちゃうんだ。 ……だけど、減らない。減らないから、たまってる。未開封の『オレンジレモン』が4つ、馬鹿みたいに視線の先に並んでいて、それがユイとの距離を象徴していた。 他の奴のものになっちゃったんだな。俺が、ぐずぐずしてる間に。 でも、言い訳すればさ……言えなかったよ。あんまりにも無防備で、下手なこと言ったら怖がられるんじゃないかと思った。俺の気持ち知ったら、もう「大好きー」なんてしがみついてくれなかっただろ? 見えないユイに問いかけながら、腕を伸ばす。『オレンジレモン』をひとつ引き寄せて眺めていると、机の正面にある窓ガラスがコツンと音を立てた。 顔を上げて、窓を見つめる。少し様子を見ていると、もう一度、窓にコツンと何かが当たった。 (ユイ……?) 胸を過ぎる期待と予感に、立ち上がる。 ユイは、今時とんでもないほどの機械音痴で、持っている携帯電話はほとんど受信専用だ。それも、電話なら応答があるものの、メールについては返信が出来ない。電話をかけることはないでもないが、押しかけて済むならそっちを選ぶと言う襲撃型だ。 俺とユイの家はそれほど遠くはないから、数える程度だが今までにもこういうことはあった。 速い鼓動を抑えて、窓を開ける。冷房の効いた室内の空気と入れ替わりに、生温い風が入ってきた。 そしてそれと同時に、ちょうど投げたらしい小石が俺の額にヒットした。 「コウくーん」 痛ぇ。 「ユイ……」 額を撫ぜながら見下ろすと、家のすぐ裏路地でユイが手を振っているのが見える。相変わらず子犬のように、飛び跳ねるたびに髪もふわふわと跳ねる。 「何してんだよ」 始まったばかりの夜は季節柄まだ明るく、ほとんど無意味に点っている街灯の下、ユイは明らかにデート帰りだとわかる服装だった。彼氏の為に目一杯お洒落したのかと思えば、情けなくなるほど落ち込んだ。 だけど、『お兄ちゃん』でいてやらなきゃ。泣きたい気持ちと痛い鼓動を無理矢理飲み下し、作った笑顔で見下ろす。 「会いに来たのー」 「うん……。今、行く」 何のつもりもないなら、悪魔だよ、本当。 そして、そう思うくせにのこのこ会いに行く俺は、馬鹿だな。 思わず自分に同情しながら部屋を出かけて、足を止める。振り返って一瞬躊躇した俺は、机の上に手を伸ばした。あいつが飴を欲しがるかもしれない。 パンツにたくさんついているポケットのひとつにそれらを押し込んで、部屋を出る。階段を駆け下りる俺に居間から母親の怒声が飛ぶが、もちろん華麗にスルーして家を出た。 「コウくーん、久しぶりー」 俺の部屋のある側の路地から、ユイが顔を覗かせる。彼女がそこにいることで気持ちが急いて駆け寄ると、ユイはふにゃーっとだらしなく笑った。 「久しぶりったって、1週間かそこらだろ」 「そうだけどー。寂しくなったから会いに来たー」 ああ神様。俺に勘違いするなと言うのは、無茶と言うものでしょう。これを繰り返された俺の身にもなって下さい。 なのにこの人、彼氏持ちなんです。 「何だよそれ。デート帰りじゃないのか? 真っ直ぐ帰れよ」 取り繕ってそっけなく言うと、ユイは上目遣いに俺を見上げてから、笑顔のままで目を伏せた。 それから、俺の手を取る。 「遊ぼ」 「はあ? もうすぐ7時になるぞ。門限、7時だろ」 「まだ30分近くあるもん」 「30分で何する気だよ……」 「んー。お話しよ」 「はあ……」 俺の家のすぐ前には、川がある。小さな土手のようになっていて、そこを降りれば川に面した遊歩道と年季の入り過ぎたベンチがあった。 お世辞にも綺麗と言えない川で、口が裂けてもお洒落とは言えない遊歩道なので、人の姿は余り見ない。朝夕に犬の散歩をしている人がちらほらいる程度だ。 俺の手を掴んだまま軽い足取りで土手を降りるユイに引き摺られて、俺も土手を降りた。手を繋ぐなんて今更なのに、繋いだ指先に全神経が集中しているような気がする。 「汚れるかな」 「さあ」 ベンチに腰を下ろしかけて逡巡するユイに、座面を軽く払ってやる。並んで腰を落ち着けると、ユイが早速おねだりの顔をした。 「飴、持ってる?」 「持ってるよ」 「ちょーだい」 無言で、ポケットを漁る。 同時に、心の中で激しい葛藤が起こる。 ……駄目モトじゃん? 効くわけないじゃん? だったら洒落で試してみても、ありじゃん? いやいや、馬鹿言えよ。あんな得体の知れないものを食わせる気か? どんだけ外道だ? 効く効かないの話じゃない。情けないのは作っちゃったところまでにしとけ。ナシだろナシ。ナシナシナシ! でもさあ。 ――これで惚れたら、らっきーじゃん? 「……味、いつものと、いつもと違うのと、どっちが良い?」 抑揚のない声で尋ねる俺に、一瞬首を傾げたユイは少し悩むようにしてから答えた。 「んんー? 違うのもあるの?」 「うん、まあ……。新製品で、買っちゃって……」 「じゃあ、それにしてみる」 コロン、とユイの手のひらに飴をひとつ転がす。 無邪気な顔で飴を口に放り込んだユイは、見つめる俺の視線に首を傾げた。 「なーに?」 「……や。うまい?」 「んー。 リンゴ? まずくはないよぉ。でも、やっぱり『オレンジレモン』がコウくんの味だなー」 「俺を食ったみたいに言うなよ」 「へへっ。だって、そうなんだもん」 両手をベンチの座面に付いて、子供のように足をぱたぱたさせながら、ユイが川面に視線を投げた。 「ねー。コウくんが初めて『オレンジレモン』くれた時、覚えてる?」 「え? ああ……うん……」 『あの時』だ。 中学時代の、体育倉庫。 わんわん泣くユイに、俺を囲んでた奴らが引いていなくなった後も、ユイはしばらく泣き続けていた。その直前に殴る蹴るされてた俺なんかより、よっぽど怖がっていたみたいだった。 二人になった体育倉庫の中で、モップを投げ出してかたかた震えながら泣くユイをどうして良いのかわからなかった俺は、ポケットから『オレンジレモン』を取り出した。朝寄ったコンビニのスピードクジで、たまたま引き当てただけのものだった。 「男の子たち、大きくておっかないコばっかりで、怖かったなあ、あの時」 コロンコロンと、ユイが口の中で飴を転がす。 「じゃあ、来なけりゃ良かったのに」 「だって見て見ぬ振りなんか出来ないもん」 頼りないくせに変に頑固で、だから危なっかしい。普段は甘ったれの癖に、俺を泣きながら庇おうとした中学生のユイが脳裏に蘇る。 「怖くて怖くて怖くて、そしたらコウくんが飴くれた。甘いもの食べたら、落ち着いちゃった」 「ガキ」 「ひどい。……でもさ、だからさ」 ぷうっと膨れ面をして見せたユイは、すぐにその表情を消して空を仰いだ。少しずつ夜の色に染まっていく空には、微かに星が見え始めている。 「『オレンジレモン』と、『安心』が、ユイの中でセットになってる」 「ふうん……?」 言っている意味が良くわからなくてとぼけた相槌を打っていると、ユイが俺の腕にしがみ付いた。 「『オレンジレモン』と『コウくん』も、ユイの中でセット。……コウくんだけが、いつもユイに『安心』をくれる」 心臓が、跳ね上がった。 きゅっと俺の腕を抱き締める柔らかい感触と、こてんと肩にもたせかけた髪の匂い。 痛いほどの鼓動に、全身の血が逆流しているような気さえする。動揺の余り腕が微かに震えて、しがみ付くユイに伝わってるんじゃないかと怖かった。 「コウくんのそばが、いっちばん安心するんだー」 落ち着け、俺。 ユイに会えなかった僅かなブランクに募った想いと、もう手が届かないんじゃないかと言う悔恨が、必要以上に俺の気持ちを揺らしている。 深読みをするな。してはいけない。ユイは、そういう奴だ。精神年齢3歳なんだ。 父親に甘える幼女、飼い主にじゃれかかる飼い犬――ユイの感覚に最も近いのは、それだと知っているだろう。 (だけど……っ……) ユイは幼女でもなけりゃ、飼い犬でもない。……そして俺は、父親じゃないし飼い主じゃない。 「……彼氏出来たんだから、こういうこと、他の男にしちゃまずいんじゃないの」 「何でぇ? 今更ぁ?」 「そういう問題じゃない。……彼氏、可哀想だろ」 俺だったら嫌だ。デートから帰った足で、他の男にしがみついてる彼女なんて。 俺が真面目に言っているのがわかったのか、ユイはそろそろと俺から離れた。それから捨て犬のような目付きで、唇を薄く噛んだ。 「……もん」 「え?」 「彼氏、もういないもん」 ……。 「はあ?」 我ながら間の抜けた問い返しだ。 そう知りつつも、他に言葉が浮かばなかった。 唖然と見つめる俺を拗ねるような目付きで見返したユイが、ふっと顔を川面に逸らす。 「別れちゃった」 「別れたって……」 「今日」 「何で……」 想像もしていなかったユイのセリフに、上手い言葉が思いつかない。黙ったままの俺の前で、ユイは落ち着かない子供のように両足をまた、ぱたぱたさせた。 「最初は、嬉しかったの。好きだって言われて、可愛いって言ってくれて、そんなこと言われたことなかったもん」 ああ、お前のそばにいっつも俺がいるから、悪いけど学校の男なんかは近づけなかったんだろうよ。 「だけどさ、だけどね……。だけど、違うんだもん」 上手く言葉を見つけられない時の癖で、ユイは微かに唇を尖らせた。 「コウくんといるほど、楽しくなかった」 「ユイ……」 「コウくんに会えない方が、寂しかった」 黙ったまま見つめる俺を、ユイが振り仰ぐ。コロコロと飴を転がしながら、見慣れた、無邪気な顔でくしゃりと微笑んだ。 「ユイはやっぱり、コウくんがいっちばん好き」 「……俺は」 喉がからからでぺったりと張り付いているように、掠れた声しか出なかった。 もう、今しかない。 心臓が、これ以上加速したら体内で千切れて落ちるんじゃないかと言うほどに脈を打つ。 今なら、言える。目の前で他の奴に持ってかれるのは、一度で十分だ。 ちゃんと言え。今までのように「はいはい、俺も好きですよー」じゃなくて。 想う気持ちが、伝わるように。 本当に、本当に好きなんだって……。 「俺は、ユイが、好きだ……」 頼みの綱は、『マジな顔』。 震える体を抑える為に、拳を強く握り締める。真っ直ぐユイを見つめる真剣な顔で、掠れまくりの声がださかった。 でも、これ以上どうすれば良いかわからない。お洒落な言葉なんて浮かばないし、直球勝負以外に選択肢があるだろうかいやない。 これで伝わらなかったら、いつものノリで受け止められてしまったら、俺はもう立ち直れ……。 「うん。わかってるよ」 伝わらなかったようだ。 あっさりにっこり頷いたユイに、地面に沈みたくなった俺は全力を振り絞って顔を上げた。 「違うっ! わかってない! 俺が言ってるのは違うっ。そうじゃないっ。そうじゃなくて……そういう意味じゃなくて……っ」 「うん。そういう意味じゃなくて……」 ――ユイは、俺が思っているほど、子供ではなかったのかもしれない。 至近距離で見上げたユイが、くいっと俺の袖を軽く引いた。ユイから微かに、リンゴの匂いがする。 唇を唇で塞がれ、柔らかい感触に全思考が停止した。 ……え? 「こういう意味じゃ、ないの?」 触れた時と同じようにさりげなく離れたユイは、何気なさを装った笑顔でいたずらっぽく俺を覗き込んだ。 けれど、俺の腕にかけられたままの手が、大きくカタカタと震えていた。 「あ、あの……」 「うん」 「その……」 「うん」 「……そういう、意味、です……」 何だそれ。 起こっていることを受け止めきれずに呆然と情けない返事をすると、ユイは微かに赤らんだ顔でくすくすと笑った。そして、どこか照れた笑顔のままで、俺を改めて見上げた。 「同じ意味だよ。ユイも」 「本当に……?」 「本当に」 ホントウニ……? 『お兄ちゃん』でもなく? 『飴をくれる人』でもなく? 俺がユイを想っているのと、同じ意味で? 「だから、いつも一緒にいてね」 思わずユイを抱き締める。 もう『怖がられる』ことを怖がらなくて良いんだ。ユイとのわけのわからん関係に悩まなくて良いんだ。晴れてユイは、大手を振って俺の彼女なんだ……。 「お前、もらったブレスレット、どうしたの?」 翌日に俺に自慢して来た、高そうなブレスレット。 だけど今は、それをつけていない。 腕の中で、ユイが笑った。 「返した。お別れするのに、もらえないもん」 「……いつか」 今は、まだ、無理だけど。 「いつか、もっといーの、俺が買ってやる」 「ほんとっ? へへー。楽しみに待ってるねぇ」 腕の中にユイを閉じ込めたまま少しだけ体を離すと、ユイがまただらしない顔でふにゃーっと笑った。愛し過ぎる。 彼氏彼女だ――もう一度、今度は改めて俺から唇を重ね……。 「あ!」 ……ようとした瞬間に、ユイが勢い良く叫んで立ち上がった。 思い切りかわされて、切なく空を抱き締めた俺が寂しくユイを見上げると、ユイは俺に向かって人差し指を突き出した。 「もう7時になっちゃう。ユイ、帰る」 あ、そんな。 思わず片手を伸ばして制止のポーズを取る俺のことなど顧みず、ユイは軽い足取りで遊歩道を歩き始めた。精神の激しいアップダウンに疲労してベンチにがっくりと項垂れている俺を、少し先から振り返る。 「コウくーん。早くー。送ってねー」 「……はいはい」 おあずけ。 しょぼくれていても仕方がないのでようやく立ち上がった俺は、歩き出しかけてふとポケットに片手を突っ込んだ。 取り出したものをゴミ箱に放り込み、それからユイの後を追う。俺の背中から、ジャムのビンがゴミ箱を転がる硬い音が響いた。 「何捨てたのー?」 「んー? 別にー。ただのゴミ」 やれやれ。この先もどうせ振り回されるんだろうな、俺は。 付き合うまでに、3年。 2回目のキスまでには、何だか随分とかかりそうだ。 「やっぱりユイは『アップルレモン』より『オレンジレモン』か……」 手を繋いで歩き出しながら、空いた片手でポケットをまさぐった。 指先に触れる2本のスティックキャンディ――未開封の『オレンジレモン』と、開封済みの新発売『アップルレモン』。 机の上に並べてあった5つのキャンディの中で、たったひとつだけが『アップルレモン』だった。 「さっきの飴? んー、おいしかったけど、やっぱりいつものがいーなっ」 『鹿の角入り怪しいキャンディ』なんて、食わせなくて良かったよ。 どうやら『人類の夢 惚れ薬』より、コンビニのいつものキャンディの方が『恋の媚薬』に効果がありそうだ――。 「じゃあ今度はいつものやつ……」 「あーん」 「じ、自分で食えよ」 ――何せ人間は、五感と経験で恋する生き物らしいからさ。 |
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Fin. | |||||||
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2008/10/04 ▼あとがき |
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◆一応あとがき◆ 投稿用に書いた短編です。 「ZERO」とは全く無関係の短編第1弾。 突っ込みどころは満載ですが、まあ、イタいコたちを嘲笑ってもらえればわたしは満足です……(ぇ〜 相変わらずページを小分けにしないで1ページにぶちこんですみません。 いろいろと不備があるので、いつか改稿を夢見てます;; 読んで下さって、ありがとうございました。 |