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推奨時期:第2部第1章2話かな……。フォグリア潜入後であれば。 |
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■ QUEST ex5 掌の砂 ■ ● 1 ● 「俺、先に宿に戻ってるね」 食事に訪れた酒場で、俺は自分の食事を終えてからしばらくシサーやパララーザの騒ぎを眺めていたのだが、どうにも一向に終わる気配がないのに辟易して立ち上がった。大人って何で酒飲んで騒ぐのが好きなんだろう。 「……」 誰か聞けよ。 返答がないのに憮然としている俺を取りなすように、メディレスがくいっと腕を引っ張った。 「伝えておくわ。気をつけて戻ってね。……送りましょうか?」 女のナリをしていても、一応男だ。 「大丈夫、ありがとう」 気遣いに礼だけ言って、俺は店の出口に向かって歩きだした。 酔って騒いでいるのは、何も俺たちのテーブルだけじゃない。あっちでもこっちでもおかしなテンションで、大声の会話が交わされている。 出口に向かう俺が女に見えるらしい酔っぱらいから時折ちょっかいを出されながらもやっと外にたどり着くと、乾いた夜風が俺の肺を清廉にしてくれた。 結構遅い時間にも関わらず、通りを行き来している人はまだ絶える気配がない。都会なんだな、ここも。 「カズキッ」 ロドリス王国フォグリアに来てからずっと滞在している宿『緑の森』の方向へ足を向け掛けた俺に、背後から声がかけられる。振り返ると、キグナスが後を追うようにして店を出てくるところだった。 「……どうしたの」 キグナスが見た目にそぐわずザルだと言うことは、レオノーラで既に実証済みだ。今だってシサーの横で、ばかすか飲んでたはず。 「俺も戻る」 足を止めてキグナスが追いつくのを待ってから、今度は並んで通りに向かって歩きだした。 「飲んでればいーのに」 「いーよ。……知らない人ばっかりで、俺、どーしていーのかわかんねーもん」 ……。 「何、内気みたいなこと言ってんの?」 「内気なんだよッ」 どこが? 俺の記憶にある限り、キグナスが内気に見えたことがない。 通りの風景は、昼間とは少し違う表情を見せていた。路上に並ぶ、華やかな女の人たちが道行く男性にキスを投げかけては誘う。こんな光景ハリウッド映画の中でしか見たことがない。客引きの娼婦なんだろう。 そういやレオノーラではこういう光景ってなかったよな。娼館があるのは、わかってるんだけど。 「少し、回り道しない?」 気持ちの良い夜風が、俺の前髪をふわりと撫でた。目を細めて周囲の風景を眺めながら、ふと思いついて誘う。キグナスが首を傾げた。 「回り道?構わねぇけど……?」 「あの様子じゃシサーたちだってしばらく戻って来ないだろ。散歩してみたいだけ」 「散歩?」 「うん。……もう次来られるか、良くわかんないし」 あっちの世界に戻ってしまったら、生涯来られないことは疑いない。 「……ああ」 昼と夜では街の顔が違うから、そういうの見てると面白い。違う種類の人たちが、一生懸命生活をしている感じがする。 「おまえさあ〜……」 「うん」 「……帰りたい?……んだよな」 そんなことを思いながら、ぼんやりと街を眺めていると、俺が「散歩したい」などとすっとぼけたことを言い出した理由を察したのか、キグナスが不意にそんなふうに聞いた。 「え?そりゃ……」 答え掛けて、言葉に詰まる。そして言葉に詰まった自分自身に、軽いショックを覚えた。 ――ホントウニカエリタイカ? ……帰りたいに、決まってる。 帰りたくない理由なんて……。 俺の、家族がいる。置いてきた友達がいる。逃げ出したいほど嫌なことなんて何もなかった。俺の大切なものは、みんな、あっちに……。 ……。 ……本当に? 「カズキ?」 「あ、ううん……帰りたいよ」 帰りたいはずだ。 「だよなあ」 俺の逡巡には何も気付かないように、キグナスが空を見上げる。人がいて街が明るいと言っても、センター街や歌舞伎町ほどじゃない。暗い夜空に煌々と月が輝きを放っている。 俺があちらで何の疑問も持たずに見上げていたのと同じ、月。 「……何で?」 「え?いや、何でってこたねぇけど。……やっぱ、そのぉ……」 何なんだ。 「結構みんな、寂しがるんじゃねーかなとか思っただけなんだけどなッ」 「ああ……」 ……そうかな。 「レガードが戻ってくれば、そうでもないんじゃないの」 拗ねているわけじゃないんだが。別に。 ざわざわと、街路樹が風に揺れる。何か面白いことでもあったのか、「きゃーッ」と一際大きな歓声が聞こえた。続く笑い声。 「そうかなあ……」 こりこりと鼻の頭を掻いて目線で夜空を睨みながら、キグナスがもそもそと反論した。 「レガード様が戻って来るのとは、別問題だと思うぜ。おまえとレガード様を重ねてる奴はいねぇと思うし」 「どうせ品がないとか言うんだろ」 何か丘みたいなところに続く緩やかな坂道に出た。遊歩道のように、左右に背の低い木が植え込まれている。葉を揺らす夜風が気持ちいい。慣れない長い髪が背中で舞った。 「ねぇなー」 俺の言葉を受けて、キグナスがけたけたと笑う。何となくその遊歩道を上りながら、横目でキグナスを睨んだ。 「レガード様には、こんな気軽に近づけねーよ」 そりゃまあ、片や平民片や王子様ですからねえ……。 「悪かったな、気安くて」 16年も人格形成されてきて、今更気高くなるのは無理と言うものだ。 「って別にそんだけじゃねぇけどさ」 「そう?」 「そりゃそーだろ。人間が違うんだから。別もんだよ」 「……」 「だからさ。寂しいじゃん……やっぱ」 「……」 「……俺は、寂しい気がする」 帰りたい、と素直に思えなかったわけ。 ……寂しい、ん、だろうか。こっちと、別れるのが。 あっちの世界に置いてきた大切なもの。それと同じように、こっちの世界で出来た……大切なものが……? 「なななな何だよ。んな見るなよ」 「え?ああ、悪い……」 無意識にキグナスを見つめていたらしい。文句をつけられて、目線をそらす。 「そんな格好でこんな暗がりで見つめられると照れるなー」 にやにやと意地悪く言うので、思い切り高い位置まで足を上げてその背中を蹴りつけてやった。 「のあッ」 「お望みなら襲ってやろーか?」 「本当の意味で襲われそーだからやめてくれッ」 目一杯前につんのめったキグナスが、蹴られた背中をさすりながら怒鳴る。 道は確かに丘の頂上の方へと続いていて、道なりに何だか俺たちは、その、妙に静かで良い雰囲気の道を進む羽目になっていた。見た目はどうであれ、男同士で来る雰囲気ではなさそうだ。 「カズキ、あっちに友達たくさんいそーだな」 「え?俺?……そうかな。そんなでもないよ。普通。何で?」 「何か。雰囲気、柔らかいから」 言ってからキグナスは、微かに首を横に振った。 「……違うか。柔らかかったから、かな……」 おもむろに過去形にするのはどうだろう。 反論仕掛けて顔を上げた俺は、キグナスが思いがけず真面目な顔をしていたので言葉を飲み込んだ。 「何で、過去形?」 突っ込む空気感でもなかったので、言葉をそらして問い返す。キグナスが再び空を見上げた。「うーん……」と口の中で呟く。 「……うまく、言えねぇ」 「ふうん?」 それから、俺を見上げる。俺より元々少し小柄なキグナスだけど、何だか最近、ますます小さくなったような気がする。……いや。キグナスが小さくなったわけじゃない。ってかそんなわけがない。んじゃあ俺が伸びたんだろうか。 「元の場所に戻った時にさ」 「うん」 時折、草木の合間に見えるベンチで、寄り添うような人影が見える。多分、カップル。くすくすとさざめくような声が、夜風に乗って耳に届くのが妙にくすぐったい感じだった。 俺とキグナスもカップルに見えていたりすると男の沽券に関わると思うんだが、こんな格好をしていて文句を言えた義理でもないと言う気もしなくはない。 「俺って、どうなってるんだと思う?」 「?」 俺の問いに、キグナスが意味がわからない顔をした。……ま、読めない質問だったことは認めよう。でも、どう表現して良いのか良くわからない。 「だからさ……うまく言えないけど……」 しばらく道を辿っていくと、頂上のようなところに出た。頂上ってほど、高いところに上ったわけじゃないんだけれど、それでも一応上ってきた分高度は多少ある。開けた広場になっていて、幾つかベンチが設えられていた。ぽっかりと開いた中心部を、月が照らしている。 「俺、向こうからいなくなってもう……3ヶ月とか経つんだよ」 「ああ、うん」 「今戻ったとしてさ、俺、その間行方不明だったってことになんのかな」 「……」 俺が聞きたいことがわかったらしく、キグナスは少し思案顔をして沈黙した。それから考えるような目つきで口を開く。 「俺には良くわかんねぇんだけどさぁ。……シェインの話だと、次元つーか、そういうのってのは、自己修復作用みてぇなのがあるって」 「はぁ」 自己修復作用。 何をどう修復するんだろう。 「んでな、お前のその元いた世界にとっては、お前がいないことが今現在、不都合なわけだ」 「何で?」 「いろいろ影響あんだろ。ひとりで生きてるわけじゃねぇんだから」 そんな個人の事情に頓着してくれるんだったら、そもそも次元を飛ばすのを止めてくれたらどうだろう。 ……なんて文句を言ったところで仕方ないんだけど。 「うん、まあ」 「人間ひとりが、まあ別に人間じゃなくたっていーんだろうけど、ともかくあっちの世界に存在すべきものが、その世界の作用じゃなくてよその世界から働いた作用によって無理矢理あるべき姿に手を掛けられた場合、あっちの世界は抵抗する、つまりその自己修復作用が働くんだと」 「……うん」 わかるようなわからないような。 「つまりな、本来いるべき場所のいるべき時間の流れにお前が今はいないってのは、あっちの世界にしてみれば予定外の出来事で、不都合なわけだ。だからお前があっちに引き戻された場合、自己修復作用が働いて、本来いるべき時の流れに戻されるんじゃないかって話なんだけど」 「……要するに、俺がこっちに引っ張って来られた時点に戻るんじゃないかってこと?」 「になるんだろうなぁ」 あの、昼寝をしていた中庭に。 「やった人間がいるわけじゃねぇからわかんねぇけどな。でも、シェインは多分そういうことになるんだろうってなこと、言ってたぜ」 まあ、あの時点に戻るんだったら、それはそれでいいんだけど……ってか、変な言い訳とかそういうの、考えずに済むからありがたいんだけど。その方が。俺、行方不明で葬式とかされてても困るわけだし。 でも、その場合って……。 「俺自身の成長ってどうなんの」 「んあ?」 「だからさ。時間はそれでいいかもしんないよ。でもさ、俺、困ったことに成長期なもんで、こっちに来てから着実に伸びてんの。身長」 「あ、むかつくな。何で俺伸びねぇの?」 「そんな相談俺にされても、解決のしてあげようがないんだけど」 「それもそうだよなぁ〜」 じゃなくて。 「今だって、髪とか伸びて来ちゃってるし、まあ髪は戻る前に切れば済むかもしんないけど、身長は縮めるってわけにいかないだろ。したら時間だけ戻されても、俺、あっちに戻ったら唐突に身長が伸びてることになりかねないんだけど。それともそれも、戻っちゃうの?」 「知らねー。そんなこと」 無責任な。 ……つったって、キグナスに責任があるわけじゃないし、それこそ解決のしてくれようがないのは確かなんだろうけど。 「戻るのやめちゃえよってわけに、いかねぇもんな」 「え?……うん……」 ふいっとキグナスが寂しそうな顔をしたので、少しどきりとした。別に変な意味じゃなく。当たり前だが。 手近にあるベンチに座り込む。虫の鳴く声が微かに聞こえた。俺と向かい合うような形で、すとんと芝生の上にキグナスが直接座り込んで胡座をかく。 「……どうなるんだろな」 「何が?」 「いろいろ」 「……」 その言葉には、複雑なものがある。 いろいろ……本当に、いろんなことが、どうなるんだろうってことばっかりで、俺自身のことももちろんそうだけど、レガードのことも、ヴァルスのことも。バルザックの目的も俺にはわからないし、『青の魔術師』の意図もわからない。 そして――ユリアの、行方も。 ……先が見えない。 『こっちの世界のことだから、他人ごと』と思えるほどにヴァルスと言う国の動きとの関わりは浅くない。ちゃんと、全ての流れがうまくいけば良いって思う気持ちは、本音だ。 それぞれがそれぞれの思いに沈みこむように、沈黙が流れた。俺とキグナスの間を風が通り抜けていく。芽吹いたばかりのような、草の香りがそれに乗って通り過ぎた。月の光が零れ、キグナスの白金の髪を透けるように転がり落ちていく。 「……キグナスが来てくれて良かったな、俺」 ふわふわと、重力に逆らっている髪が風に揺れるのを眺めながらぽつりと言うと、キグナスがちょっと慌てたような顔をした。 「え、え、ええ!?」 「……そんなに驚くこと?」 「お、驚く」 「じゃあ取り下げる。お前なんかいなくても良かった」 「あのなあッ」 「嘘だよ」 あっさり訂正すると、キグナスは返す言葉を探すようにあわあわと口を開けたり閉じたりしていたが、やがてふっとため息をついた。 「……何で?」 「何でかな……シサーは、どう考えても『師匠』って感じだし。キグナス、年齢近いから。こっちの世界で純粋に友達って言えるの、キグナスだけな気がする」 「と、友達?」 「違うの?」 「あ、や、うん……そう、かな……」 もごもごと口の中で呟いて、そのままキグナスは下を向いた。 「みんな、好きだけどさ……」 ……どうしたいんだろう、俺。 戻りたい、戻りたくない、わからない。 帰りたいのも本当だし、帰りたくないのも本当のような気がする。 知らない間に築いている人間関係。俺は、こっちの世界にも大切なものを築いてしまったんだろうか。 自分で投げ掛けた問いに、自分で行き詰まった。軽く、頭を振る。 ……考えたところで、俺がこの先を決められるわけじゃない。この世界にとって異物である俺は、必ずいつか弾き出される時が来る。 ここから姿を消す日が。 「カズキさ……」 少し逡巡するように短く口ごもったキグナスが口を開いて何かを言い掛けた時、怒声と悲鳴が聞こえた。そのまま怒声は複数の足音と共にこちらに近づいてくる。 「?」 酔っ払いか? 思わず顔を見合わせて声のする方に視線を向けた。来て欲しいわけじゃないんだが、ついつい待っていると、遊歩道の方向にある茂みから不意にばさっと小柄な人影が飛び出してきた。女の子だ。まだ、小さい……ナタと同じくらい、だろうか。 怯えたようにさまよう視線が、俺たちを捉える。少女はその瞳に希望を宿して、こちらへ転がるように駆けてきた。 「助けてッ」 え? キグナスと顔を見合わせている間に、少女は間近まで来ていた。そのままの勢いで、とりあえず立ち上がった俺の足にがしっとしがみつく。それを追うように、遊歩道からばたばたと激しい足音が響いた。3人の大柄な男たちが姿を現す。顔に傷があったり目つきがヤバかったりと、タチの悪そうな風体。キグナスもちょっと身構えて立ち上がる。 見下ろすと俺にしがみついた少女の視線が、男たちに向けられていた。背中まで揺れる長い金髪、月を反射する翡翠色の瞳……その組み合わせが、今はそばにいないユリアを連想させる。顔立ちとかは全然……違うんだけど……。 「痛い目に遭いたくなければ、そのくそガキを渡してもらおうか」 男のひとりが言いながら手を伸ばしてきた。口の周りにもじゃもじゃと髭を生やしている、赤ら顔の男だ。五分丈くらいの袖から伸びる腕にも毛が生えている。その後ろに片手でナイフを弄んでいる男が、にやにやと俺を見た。 「別嬪さんじゃねぇか」 後ろに少女を庇いながら『ナイフ男』の視線を正面から受け止める。『口ひげ』の隣に立った、ひょうたんのような顔をした痩せぎすの男が小さく口笛を吹いた。 「後でいただこうぜ、ついでだから」 俺をいただいたところで、お得なことがあるとは思えない。 「大の大人がよってたかってこんな小さな子供を追いかけ回すたぁ、良い趣味してんなー」 キグナスがあきれかえったように言う。俺は黙って背後にかばった少女を、更に後ろへ押しやった。 悪いんだが、バシリスクとサンドワームの挟み撃ちだの骸骨戦士だのに比べると、悪そうとは言え市民3人くらいでは怯えるに至らない。冷静そのものの俺とキグナスが癪に障るのか、鼻の頭に皺を寄せて『ナイフ男』が凄んだ。 「大人に対する口の利き方がなってねぇなあ?」 ざっざっと歩み寄ってくる男たちに、キグナスがロッドを構える。それを見て『ひょうたん』が顔をしかめた。 「このガキ、魔術師か?」 「構うもんか。どうせ大して使えるわけがねえ」 根拠を聞きたいが、そんなものは多分どこにもないだろう。 「んじゃあこっちはおねーちゃんと遊んでるかあ」 にやにやと『口ひげ』が笑う。『ひょうたん』が「汚ぇ」とぼやいた。仕方なさそうに、キグナスを取り押さえるべく『ひょうたん』が地を蹴る。その間、『口ひげ』と『ナイフ男』がこちらに近づいてきた。 「後ろの、木の陰にいて」 目線は男たちに向けながら、顔を微かに傾けて背後の少女にそう指示する。こくんと頷いてくるっと踵を返すのを見届けて、俺は改めて男たちに向き直った。 やや後方で『ナイフ男』が足を止める。『口ひげ』は、そのままこちらに近づいてきて手を伸ばした。ぐいっと俺の腕を引っ張って肩を抱き寄せる。生暖かい温もりが、大変気持ちが悪い。目を細めて睨み上げながらその腕を振り払うと、『口ひげ』がにたーっと笑った。後ろで『ナイフ男』が面白そうに片手でナイフを玩んでいる。 「威勢が良いじゃねぇか」 「可愛らしく悲鳴のひとつでもあげれば良いのか」 それは無理な注文だ。 ぼそっと言った俺に、またもしつこく、今度は腰に手を回そうとした『口ひげ』の動きが止まる。『ナイフ男』が言ってはいけないことを口にした。 「げぇ、こいつオカマだ」 「……」 撃沈。 今の俺の精神的ダメージは計り知れない。慰謝料ものだ。ぜひ責任を取ってもらわなければ。 「命を捨てたいなら協力してやる」 服の下、ロングソードの代わりに装備しているシサーのショートソードを抜き出し、『口ひげ』が逃げる間もなくその喉元に切っ先を突きつけた。喉の奥から「ひ……」と言う掠れた悲鳴が漏れる。 ヴァルスにいる間は気づきもしなかったことだが、この世界は武器屋だの防具屋だので普通に剣やなんかの武器だ防具だと売っているわりに、帯剣しているような人はそんなに多くはない。と言って、別に奇異な目で見られるわけじゃないんだけど。旅人は多かれ少なかれ護身具は持っているわけだし。 ただ、その街に定住しているような人ってのはあんまり武器を持っているわけじゃなかったりする。何となれば、おっっっっそろしく、高いので。 シャインカルクからただでロングソードを入手している俺は、剣の値段なんて考えたこともなかったので、フォグリアでそれを知ってぶったまげたのだった。 だから、シサーのように傭兵が本業だったり用心棒だったりパーティ組んでる冒険者だったり盗賊だったりと、武器を携帯している人間は職業柄と言う人がほとんどなのだそうだ。街中のゴロツキなんかは自力でダンジョンなどで武器を入手することも出来ないし、武器屋で買うような懐もなかったりするので、大した得物を持っていない。もちろん絶対そうとは言い切れないんだけど。 「カズキッ」 側面からキグナスの声が飛ぶ。後方で静観の姿勢にいたはずの『ナイフ男』が、手の中の刃物を光らせてこちらに駆けて来るところだった。こっちも男だとわかって遠慮する気をなくしたんだろう。 「……っのやろぉッ」 悪いのは俺たちなんだろうか。 咄嗟に『口ひげ』の腹部めがけて膝を振り上げ、呻き声を上げてその場に崩れるのを見届けもせず、『ナイフ男』の手にショートソードの柄を叩きつける。ダンジョンで出た魔物や『銀狼の牙』に比べれば、そのスピードは遅すぎて比較にならない。 (俺、喧嘩なんかしたことなかったんだけどな) ローレシアに来てからの日常で、かなり鍛えられたらしい。 「キグナス、平気か?」 ナイフが弾き飛び、左手で右手を覆うようによろけた『ナイフ男』の頬に更に肘鉄を食らわせると、『ナイフ男』は顔を仰け反らせてバランスを崩しながら地面へともんどりうって倒れこんだ。その物音に重なるように「おー」とのんきな返事が返ってくる。見れば、『ひょうたん』はぜいぜいと肩で息をしながら頭を押さえて地面に蹲っていた。 「何だ、このガキ共ッ……」 呻きながら起き上がろうとするのを阻止する為に、『ナイフ男』の腹を足で押さえる。 「別に手荒な真似がしたいわけじゃない。黙って消えてくれればこれ以上は何もしないけど、どうする?」 『ナイフ男』が黙ったままなので、片手に握ったままだったショートソードの切っ先を喉元に突きつけた。 「それとも刻まれたいのか?」 ぶんぶんぶんぶんッ。 勢い良く男が首を横に振る。俺も別に刻みたいわけじゃないので、肯定されずに済んでありがたい。足をどけてやると、慌てて立ち上がった男が逃げだそうとするので、キグナスが忠告してやる。 「忘れもんだぞ」 俺の後ろに転がっている人間を一体お忘れのようだ。 その言葉に、さんざんロッドで殴られたらしい『ひょうたん』と2人、『忘れもん』を抱え込んでほうほうの体で逃げ出していく。思わず苦笑いで見送ると、キグナスと顔を見合わせた。 「あんな大人にゃなりたくねぇ……ってか」 言いながら、またも芝生の上に座り込んでそのままごろんと仰向けに倒れた。それを横目で見てショートソードを鞘に収める。 「やるじゃん」 「あー?」 「魔法使わないで勝つなんて」 俺の言葉にキグナスは盛大に顔をしかめた。 「あれでも一般市民だろ……。使うわけにいかねーよ……。ぎりぎりだよ、ぎりぎり」 「そう?」 「そう!!大体ソーサラーは基本値からしてファイターとは違うんだからな」 そんなゲームのようなことを言われても。 「俺はファイターじゃなくて学生だってば」 言いながら、少女が隠れているはずの木陰に視線を向ける。声を投げた。 「もう、大丈夫だよ。おいで」 俺の声に、恐る恐ると言った様子で少女が木の幹から顔を覗かせる。さっきより幾分上空を移動した月が、彼女の髪を照らした。 「おいで」 もう1度声をかけると、ようやくがさがさと茂みをかきわけてこちらへ近づいてくる。こうしてちゃんと見てみると……随分と、貧しい身なりをしているように見えた。 「……ありがとう」 躾はなっているようだ。きちんと頭を下げて礼を言う少女の前にしゃがみこんで、彼女より低い目線になって笑顔を作る。キグナスも俺のすぐ隣で、膝に両手を押し付けて体を支えながら、前かがみに少女を覗き込んだ。 「カズキおねーさまもキグナスおにーさまも、強いのね」 「―――――!!」 ……果たしてさっきの『ナイフ男』の『オカマ』と言う言葉と、どちらが衝撃的なんだろう。と言って、まさかこの少女に『ナイフ男』と同じ責任の取らせ方をするわけにはいかない。 「……っくっ……くっ……」 言葉を発することが出来ずに、しゃがみこんだままがっくりと地面に額がつきそうなくらいうなだれた俺に、キグナスが隣で声を押し殺して笑うのが聞こえた。うなだれたままじろりと睨んでやる。 「……笑いたきゃ思い切り笑えよ。体に悪いぞ」 「……ぶ、はっはっはっは……あいてッ」 本当に笑いやがったのでその足を思い切り蹴り飛ばし、バランスを崩してころんと芝生に転がったキグナスは放っておいて、俺は少女の顔を覗き込んだ。 「俺のことは、カズキでいいから」 「でも、年上の人は、呼び捨てにしちゃいけなのよ」 「俺だけは例外でお願いします……」 土下座でもしそうな勢いで頼み込むと、少女は不承不承といった様子でこくりと頷いた。 「んで?何で追っかけられてたんだ?」 別に俺たちが『強い』わけじゃなく、相手がこれと言った得物を持っていなくて大して強くもなかったからこそ追い払えただけ……と言うことは別に、やくざまがいの『わるもん』と言うわけではなかったんだろうけれど。 にしたって、この時間にこんな小さな女の子が、大の男に追いかけられていると言うのは普通じゃない。 キグナスの問いに、少女は少し困ったような顔をした。べそでもかきそうな表情で、上目遣いにキグナスを見る。 「……」 そのまま、黙りこくってしまった。どうしたものか。 「名前は?」 仕方なく、違う質問を投げてやる。少女はくりんっと俺を翡翠色の瞳に映しこんで、瞬いた。 「ティナ」 「ティナか、良い名前だね」 「ありがとう!!」 基本的には素直なコのようだ。ティナは、俺の言葉にくしゃっと笑顔になる。 「おとーさんとおかーさん、心配してんじゃねーか?」 横からキグナスが芝生にあぐらをかいて、ティナを見上げた。その言葉に、ティナがもじもじとする。 「パパとママは、いないの。でも……ディアーナが、心配、してるかもしれない……」 ご両親はいないのか……。 「ディアーナ?」 「ティナの、お姉ちゃん」 「そっか。んじゃ帰らなきゃだな」 「……」 また、黙ってしまう。俺とキグナスは顔を見合わせて首を傾げた。 「……何か、帰れない理由があるの?」 出来るだけ優しい声で尋ねてやると、ティナはしばらくじっとしていたが、やがてこくんと頷いた。……帰れない理由がある? 「どうして?さっきのおじちゃんたちと、関係あること?」 「……ううん」 関係ないのに追いかけられてたのか? 「何か、しなきゃいけねぇことがあるとか?行かなきゃなんねぇとこがあるとか」 キグナスが首を傾げたままで聞くと、ややしてティナは小さく頷いた。 「ティナ、おばーちゃんの為に行かなきゃいけないとこがあるの」 「じゃあ、お兄ちゃんたちが代わりに行ってあげるよ。その代わり、ティナはおうちに帰ろう」 どういう事情があるにせよ、こんな時間に少女がうろうろしているのはどうかと思う。親はいないにしても家族はいるみたいだし……だとすれば心配しているのは間違いないだろうし。 「おいおい、カズキ」 「だって、家に帰さないと、まずくないか?危ないし」 どうせ、こんな小さなコがひとりで行こうとするところなら、それほど大げさなものじゃないだろう。 ティナは困ったような顔で、ぽよぽよしている眉毛をきゅっと寄せた。きょときょとと俺とキグナスを見比べる。 「……ホント?」 「うん。本当。約束するよ」 「その代わり、ワケ、ちゃんと話せよー」 あきらめたようにため息をついたキグナスが補足すると、ティナはにっこり笑って「うんッ」と頷いた。 ● 2 ● 「ここかな……」 「本当に大丈夫かよ……」 ひょこん、と洞窟をのぞき込んで呟くと、キグナスが不安な声を出した。 フォグリアを出て北へ向かうと、そう離れていないところに茂みに隠れて小さな洞窟がある。緩やかに下り坂になっているらしいその入り口に、俺とキグナスは立っていた。 ティナが行かなければいけないところ……それがこの洞窟、なんだろうと思う。 「あのガキんちょ、本当にこの時間にこんなとこまで1人で来るつもりだったのかよ……」 暖かい色味の仄かな灯り―ロッドの先に灯った『導きの光』がキグナスの呆れ顔に陰影を作って照らし出した。 「あのね、ティナのおばーちゃん、具合が良くないの」 ぽよぽよとした眉を悲しげに寄せて、ティナはことの経緯を一生懸命話してくれた。 「おばーちゃんの?」 「そう。ティナはおばーちゃんとディアーナと3人で住んでるの。おばーちゃんは今、高い熱がずっと出て、とっても苦しそうなの」 ふうん……。 「『癒しの雲』かけてあげたら」 俺の言葉に、キグナスが苦い表情でため息と共に答えを吐き出した。 「それが出来りゃあ苦労ねぇけどな。病には魔法治癒は、ほとんど効果がねぇんだよ」 そういや前にシェインもそんなよーなことを言ってたっけ。あの時はそんな真面目な話じゃなくて、ただの二日酔いだけど。 「何で」 「知らねぇ。多分事実を知ってる奴はいねぇんじゃねぇかな。でも一応、学校で教わる理由は、ある」 「何」 「魔法ってのは総じて、自然の力や何かを借りて、人間が持つ能力を越えた力を発揮する……不自然な現象なんだよ。ここまではわかるか」 「うん、まあ」 何となく。 曖昧に俺が頷いたのを見て、キグナスが続ける。 「んでだ。例えば魔物から受けた傷。これは、外的要因から受ける損傷だよな?」 「うん」 「つまり自発的、自然的に人体に起こりうる現象じゃない。自然現象ではありえない、他者の介入によって起こる損害だ。言い方を変えれば、不自然な現象だ」 ああ……言いたいことがわかってきた。 「対する病ってのは、臓器の疲弊や衰弱などから起こる内的要因……自然現象に該当する。だから、不自然な作用である魔法では、自然な作用である病には効果が期待出来ない、と」 「なるほど……」 でも……。 俺の疑念を読みとってか、キグナスが軽く肩を竦めた。 「とは言っても、細菌の介入による病や媒介生物がいるような病ってのは外的要因じゃないのかって話もあるし、全ての自然現象に魔法が全く無効なのかってーと、そーでもねぇんだよなぁ。んだから、一応言われてる説はそんなんって話」 「わかった……」 聞くまでもなく答えてくれたので、俺もそれ以上追及するのはやめた。 「ふうん。でもキグナス、ちゃんと勉強してるんじゃん。頭いーじゃん」 前に馬鹿とか言ってたけど。 思わず感心して素直に誉めると、キグナスは動揺したように真っ赤な顔をした。 「な、な、な、何だよやめろよ」 ……可愛い奴。 「まあじゃあ、魔法が効かないのはわかった。……ティナ、それでどうするつもりだったの?」 大人しく俺とキグナスの会話を聞いていたティナは、話題が自分に戻ると「うん」と嬉しそうな顔をした。 「ティナ、おばーちゃんを治してあげたいから薬屋さんにお薬下さいってお願いしたの」 そしたらね、とティナは悲しげに目を細めた。 「今はおばーちゃんを治せる薬が作れないんだってゆわれたの」 「薬が作れない?」 思わずキグナスと同時に問い返す。ティナの翡翠色の瞳が、みるみる潤んでいった。 「お薬を作るのに必要なキノコが生えている洞窟にね、今は入れないんだって。だからお薬が作れないんだよってゆわれたの。おばーちゃんが死んじゃうぅ〜……」 あ〜あ。泣き出しちゃったよ。 「んで、何であいつらに追いかけられてたんだ」 ティナの頭をぽんぽんとなぜてやると、ティナは大粒の涙を溢れさせながらキグナスを見た。 「おばーちゃん、死んじゃうと思ったから……キノコ、持ってるって言うおじさんのおうちに忍び込んだの」 つまり盗みに入ったのか。そりゃあ彼らが怒っても仕方がない。 「ティナ。どんな事情があっても、人のものを盗むのは悪いことなんだよ」 出来るだけ優しく、諭すように言うと、ティナは少ししょげたような目で俺を見下ろした。 「それじゃあ、あのおじさんたちが怒っても当然だ。ティナだって、せっかくキノコ持ってるのに知らないおじさんが持ってっちゃったら、怒るだろ?」 「……うん」 「それと同じなんだ。……キノコは俺たちが何とかしてあげるから」 「お、おい」 「本当!?」 キグナスの慌てたような声と、ティナのぱっと輝いた声が重なった。 「うん。本当。だからティナはおうちに帰ろう」 ……そうしてティナを家のそばまで送り、その足でティナに聞いたキノコが生えると言う洞窟まで来たわけだが。 「あーったく、信じらんねぇお人好し」 「うるさいな」 それにしっかりつきあっているお前だって、人のことを言えた立場じゃないと思うんだが。 ……放っておけなかったんだ。髪と瞳が、ユリアを連想させて。――ユリアが泣いている姿が、見えるみたいで。 「先帰ってもいーぞ」 「んなわけにいかねぇだろ」 薬に使用すると言うそのキノコは、簡単に言やあヒカリダケの一種らしい。それ以上詳しいことはティナの拙い説明からは、キノコ専門家ではない俺にはわからないけど。 この辺りではその洞窟にしか生えず、しかも夜にしか見つけられないそうで、フォグリアの薬剤師は毎夜の日課としてその洞窟に行くんだそうだ。 「すぐ帰れんのかな」 「薬剤師が毎夜仕事後に行く洞窟なら、大したことでもなさそうだろ」 問題は『なぜ今洞窟に入れない』のかだ。 変な魔物でも棲みついてるんじゃなきゃいーんだけど。 「行ってみよう」 「お前って意外と剛胆な奴だな……」 ここでぼーっと覗いてたって仕方ないじゃないか。 「行ってみなきゃ何が『ヤバい』のかだってわからないだろ」 それは俺だって積極的に、そんなわけのわからない洞窟なんかに入りたいわけじゃないが。 「怖くねーんだ?」 仕方なく灯りを掲げながら、キグナスが先の方を窺うように歩きだした。一応剣の柄に片手をかけて、その隣を歩く。 高さも幅もそれほどない、小さな通路だった。低い天井は水分をたっぷりと含み、てらてらと濡れて光っている。 「怖い?何が」 天井からぽたっと落ちてくる水滴に顔を顰めながら、尋ねる。 「何がって……わけわかんねー魔物が襲ってくるかもよ、とか……うひゃッ、冷てえ」 「……ああ」 絶え間なく落ちてくる水滴で湿った前髪を、指先で弾いて小さく息をつく。 「そんな思いなら十分した」 「……そういう問題か?」 十分したからもうしねぇってもんでもねぇと思うけどなあー、と呟くキグナスの声を聞き流す。……もう、恐怖も苦痛も飽和状態だ。きりがない。 内心そんなふうに思っていると、ふっと灯りが勢い良く下降し、キグナスが視界の隅から消えた。 「……楽しいか?」 「楽しいわけねぇだろッ!?」 ずるっと足を滑らせたらしいキグナスが、激しく地面に尻餅をついたところだった。 「今更だけど、足下、濡れて滑るから気をつけた方が良いよ」 しかも、下り坂だし。 「今更だよッ」 「俺と一緒に歩いてるんだから自分で気づけよ……」 「うわあ、汚ぇー……んだ?これ。苔?」 そりゃあ足場は岩場なんだし濡れてるし日は当たらないんだし、苔くらい生えるだろ。 滑った苔と泥と水滴でローブが汚れたキグナスに手を貸して立ち上がらせると、その汚れが俺の手にまで移った。 「汚い」 「だからって俺で拭くなよッ」 「返して欲しいかと思って」 「欲しいわけねぇだろッ!?」 何がいるかわからない洞窟で、こんな大騒ぎしてていーんだろうか。 通路はそんなに長くはなさそうだった。灯りに照らされた先に、丸く通路の終わりが見える。が、その先までは良くわからない。 「意外に短ぇなぁ」 だから薬剤師が日課で来るような程度の場所なんだってば。果てしなく続いてたらやってらんないと思う。 「……? 何だ?」 「水音?」 穴の先から、水音が聞こえてくる。それも結構、激しく。 「滝でもあるのかな」 「こんな洞窟の中にか?」 確かに。 「ま、行ってみればわかるだろ」 と言うか、行ってみなきゃわからない。 ここに来て急激に急勾配になった足下に注意しながら、ゆっくりと下りていく。近づくにつれて、キグナスの顔が強ばっていった。 「……カズキ」 「……うん」 生き物の、気配がする。 激しい水音にともすればかき消されそうなほど微かに……生き物の、息遣い。 通路の終わりまで来て、そこから先は少しだけ広くなっていた。丸く、くり貫いたように。天井も高くなっている。そして通路から続く……俺たちが立っている場所を、向こう側と隔てるように激しく水が流れていた。幅は4メートルとかそのくらい。 ぐるりと半円を描くように流れる水流の入り口は、かつては水門があったように見える。俺たちが歩いてきた通路と同じくらいの大きさの水路が黒く伸びていて、このホールに続く壁の部分には木っ端になった水門の残骸が引っかかっていた。 流れていく先も同様に暗く続く水路を、激しい水の流れが塞いでいる。こちらの水門は壊れているわけではなさそうだが、中途半端な位置で止まったままで水がなくても通り抜けは出来そうにない。 向こう岸には更に奥に続くらしい通路が、黒く続いている。そしてその先には、何かほんのりと灯りがあるように見えた。 ……と、くどくど説明したが、当面俺たちの目を釘付けにしているのはそんなものではない。 「キグナス」 「あ?」 「あれ、何て言うんだ」 水流を隔てた向こう岸、水が流れ込んでくる壊れた水門間近にうずくまる巨体。 間違いなく、魔物だ。 「わかんね……ワイアーム……か……?」 わいあーむ? 全身を鱗で覆われた、爬虫類のようなその巨体は、ワイバーンに似ても見える。頭のてっぺんに尖った角のようなものがあり、鬣のように長い後ろ首にひだひだが生えていた。蝙蝠の羽に似た形の翼が、今は力なく地面に伏せられている。やはり地面に投げ出された長い首を微かに擡げ、赤い瞳を光らせてこっちを睨んだ。が、やっぱり力ない感じだ。 手足は、ない。大変動きにくいワイバーン、と言った感じの生き物。 「随分、元気ない感じ」 咄嗟に構えていた剣を、下ろす。キグナスもロッドを下ろした。あの様子では、すぐに攻撃を仕掛けてくる感じではない。ついでに言えば、間に水流があるのも妙に安心させる。……翼があるんだから、あれがまともに動くんであればあまり関係はないけど。 「弱ってるみてぇだな……」 暗くて良く見えないけど……ぐったりして動きは鈍いし、睨む目線にも強さが感じられない。動作そのものが緩慢で……よく見ればもしかして羽も、ぼろぼろかもしれない。 「どうしたんだろ」 「クケェェェ」 のろのろと口を開けて、多分威嚇なんだろうけど、へろんへろんに鳴く。気力を振り絞るようにして、首をゆっくりと擡げた(もたげた)。 剣を下ろし、ぐるりと水流沿いに吹き出し口の方へ向かう。向こう岸に渡るつもりもなければ、そもそも水が激しすぎて渡りようもないんだが、そちら側に回ればワイアームの様子ももう少しよく見えるかもしれない。 「おい、危ねぇって」 「だって動けなさそうだよ」 「そいつがワイアームなら、炎を吐くぜ、確か」 吐いたら本人が死んじゃいそう。 俺の動きを警戒するように、ワイアームが視線を動かす。水の吹き出し口まで来ると、その距離はだいぶ近くなった。と言っても……まだ3メートル近くありそうだけど。 「クァァァァァッ」 バシン!! うわお。 雄叫びをあげて尾を振り、壁に叩きつける。弱々しかったものの、それでも全長が3メートルくらいはあるその尾が叩きつけられたのだから、それなりの衝撃があった。が、それで力尽きたようにかくんと首を落とす。 ……放っておいたら、そのまま死にそうだよなぁ。 「どうしようか」 「何が」 「これだろ?多分。薬剤師が来られなくなった理由って」 言ってから、首を傾げる。こっち側にヒカリダケがまったく生えていないってことは、肝心のキノコは多分ワイアームが門番のようにうずくまっている向こう岸の、更に奥の穴の先だろう。あの、ほんのりと明るいその光源。だとしたら、ワイアームがいなかったとしたって、薬剤師ってのはどうやって向こう岸に渡るんだ? 「そっか……」 ワイアームだけじゃなくて、この水の流れも原因のひとつかもしれない。と言うことは、ワイアームとこの水の急流ってのは因果関係があるのかもしれない……。 「何?」 「この水門を壊したのって、ワイアームなんじゃないか?」 「へ?何の為に?」 ワイアームが身動きしないのを見て、キグナスもこちら側に近づいてくる。しゃがみこんで、ひしゃげて残った水門の残骸をしみじみと覗き込む俺を、対岸の魔物が沈黙して見つめた。 「何の為にって言うか……目的があるわけじゃないだろうけど。この水って当然外のどこかから流れ込んでるだろ。何かドジってこの水流に巻き込まれて、ワイアームのあの巨体がこの勢いで水門に叩きつけられたんじゃないかな……」 そうじゃなくても、この水門、古そうだし劣化してる感じだし。 「あー……んで、ようやく上がったは良いけど、出られないと……」 そう考えれば、かつては行けたはずの向こう側にいきなり行けなくなった理由が見つかる。橋とかあった形跡はないし、かつてはもっとちょろちょろとで……問題なく渡れたんじゃないだろうか。 水流に巻き込まれて叩きつけられたんだとすれば、ワイアームが何かぼろぼろなのもわかる気がするし。 「あいつは出たくて、こっちは出てって欲しい。利害は一致してるんだよな……」 そう呟いた俺を、唇を尖らせたキグナスが見上げた。 「つったって、どうやって出すんだよ」 それが問題なんじゃないか。 何か、ないだろうか。 しばらく、ワイアームを眺めながら2人で黙り込んで考える。キグナスがぽんと手を叩いた。 「誰かが囮になって、ワイアーム怒らせて通路の向こうまで駆けていくとか」 「……誰がやるんだよ囮なんて。俺は嫌だぞ」 「じゃあいねぇなぁ」 俺がやることに決まってたのか? 「大体、あの様子で追いかけてなんか来られないだろうし、仮に来れたとしたってあの狭い通路を通れるようには見えない」 「確かに。……んじゃあ、一旦フォグリアに戻って爆弾でも買ってくるか。で、天井を爆破する」 「埋もれちゃうんじゃないか?それに、仮にうまく穴だけあけられたとして、ヒカリダケってここにしか生えてないんだろ。そういう繊細な植物が、そうも激しく住環境が変わって生息出来るものなのか疑問なんだけど」 「うーん……」 俺の反論に、キグナスが不貞腐れたような目線を投げかけた。 「俺の意見、否定ばっかりするなよ」 「じゃあ否定されないような意見を出してくれ」 「お前も何か出せ」 わかったよ。 「水を塞き止めよう。とりあえず」 「ええ!?塞き止めるう!?どうやって!!」 「それをこれから考える」 大体ワイアームを何とかしたところで、この水流を放っておいたら向こうに渡れないって点では一緒じゃないか。 「何するにしたってこの勢いで水が流れてる限りはどうにもならないだろ」 「そりゃそうだけど」 「焦ってもろくなことにならない。落ち着いて考えよう」 言いながら、もう1度破損している水門に目を向けた。それから反対側の水門。 体を乗り出して水位がどのくらいあるのかを、視認出来る範囲で確かめてみる。 わき起こる水泡で凄く見にくいけど……そこそこの水位はありそうに見えた。とは言え、薬剤師が渡っていたんだと仮に考えれば、奈落のように深いわけがない。飛び降りれてよじ登れる高さだと前提すれば、1メートルそこそことかが妥当だろうか。 下の方まではわからないが、水が入っているその上の方の壁には苔や水草が生えているわけでもない。最近まで水に浸ってなかった証拠だろう。 それから向こう側の水門の奥、暗く続いていく水路の天井に目を向ける。今は壁にぶつかってあがる水飛沫とそもそもの水位で良くわからないが、併せて考えると水が引けばそれなりの高さを得られそうだ。 ……これだけの水量がこれだけの勢いで流れているってことは、流れ込む先はある程度のキャパを期待出来そうな気がする。少なくとも、岩の割れ目からちょろちょろと染み出る湧き水には、なっていないんじゃないだろうか。 つまり、水さえ止まれば水路を辿って外へ行ける可能性が高い。 大体、つっかえることなく実際に入り込んでるんだ。侵入口に関しては、水さえなければ通過できるだけの高度はあるだろう。こういうのって、地形にもよるだろうけど、大体同じ工程で作ってると考えれば、排出口の方だって似たような作りになってることって多いんじゃないかな……。飛べるかまでは責任持てないけど。 「あ、でもそうか……」 仮に何らかの手段で水を止めたとしても、肝心のワイアームがあの有様じゃあ……自分で出るなんて真似出来ないかな……。 ……。 「キグナス」 「あ?」 「魔物ってのも、回復魔法は効果あるんだよな?」 攻撃魔法しか効かないなんて、そんな都合が良いことがあると思えない。 「そりゃあ……ってまさか」 「よし、じゃあそれで行こう」 「んなことして、襲って来たらどうすんだよ!?」 「じゃあ今片づけるか?」 死にかけみたいな今ならたやすいだろう。 間髪入れない俺の問いに、キグナスは「うッ」と言葉に詰まった。 「それはー……」 ――剣は、他人を傷つける為に振るっては、いかん。己を守る為に振るえ。 かつて、アギナルド老が俺に言った言葉だ。 「元気になって襲って来たら、そん時戦うさ」 俺自身は、正直、どっちでも良いような気がしている。あのワイアームが元気になって外へ放たれれば、誰か襲うんだろうし、別に今更魔物の命を奪うことなんか、言っちゃあ何だがどうと言うことでもない。 ……どうでも、いいんだ。別に。 ただ、何かが引っ掛かって。心の、隅で。 襲われてもいない弱った魔物、これ幸いと片づけることが、ナタの言う『摂理』に適っているとも思えないし。 襲ってくる魔物に、それどころか人に剣を突きつけることにさえ何の躊躇いもないし、必要とあらばあのワイアームだって斬るけど、今は必要に迫られてない。……『殺戮の為の殺戮』は、違うような……。 心の片隅に、何か、異物感があるような……。 ――ずきんッ…… (……) どっちでも、いい……。 なぜか一瞬襲った頭痛に微かに眉根を寄せて視線をそらしたまま沈黙する俺と、呻きひとつ上げないワイアームを見比べていたキグナスは呆れたようにため息をついた。 「んでどうやって塞き止める?」 それが問題だ。 「魔法でぱーってなんとかして」 「あほ言え。シェインにでも頼め!!」 いないもんは頼めない。 「どうしようかなあ……」 ……可能不可能はさておいて、水を塞き止める手段は何があるだろう?水の通り道を何かで塞ぐ……しかない、よなあ……? 何かって、何で? (……) あれ、でも……。 今、これだけの水の量があって、それを塞き止めたら行き先をなくしたこの水ってのはどうなるんだ?普通は塞き止められたその手前でたまる、よな。先に進めないんだから。 ずっと溜まって動けないんじゃ、当たり前だけど溢れる。 これまで、この破損した水門が閉じていたんだとしたら、行き場をなくした水の逃げ道がどこかにあるんじゃないだろうか。 どこか……この洞窟に来る、手前に。 「……いったん、外に出てみよう」 「え?外?」 「うん。……普通、水門が作られた場合、何カ所か水門を設置するんじゃないかな……」 「そういうもんか?」 知らないけど。 「こんな小さな水路なんだから、水位調整の水門じゃない気がする。だとしたら農業水とか、そういうのの為の引き込み水路なんじゃないかな」 それも、この有様じゃあ多分今は使われてない。用済みになったような水路だろう。 「普通水門って、水路の入り口には設置されてると思うんだ。こっちの水門で何したかったのかわかんないけど」 もしかすると水路が不要になって、キノコを採りに入る薬剤師たちが設置したのかもしれない。 ともかく、普通は表に水門がなきゃ不便でしょうがないだろう。 多分、ここの水路に引き込んでいる大きな水源があるはずだ。そこが閉まって水が塞き止められれば戻って流れていけるような道を持つ水源が。 そこに多分、分岐点となる水門がある。そこを閉じられれば、こっちへの流れ込みは抑えられるんじゃないだろうか。 「他にやりよーがねぇもんなあ。んじゃ行くか」 元来た道をとりあえず戻る。俺の考えが正しければいーんだが。 「でもさ……」 不安がひとつ。 「水源が凄い遠かったら、どうしよう?」 ● 3 ● 「おおーッ。カズキ、正解だあー!!」 洞窟を出てまた少し。水が流れ込んでた方角から見当をつけてやや南へと茂みをかき分けて歩いて行った俺たちの耳に、再び水音が届いた。幸い、魔物には遭遇していない。 「足もと気をつけろよ……」 がさがさと茂みをかき分けて俺の前を水音目指して歩いていくキグナスに、注意を喚起する。足を踏み外したら川へ真っ逆様なんてことになったら、洒落にならない。 「おー」 不意に目の前が開ける。俺たちの立つ茂みから先、少し行った眼下に川が流れていた。幅はさしてない。その割に水量が多いせいで、水の流れが速いんだろう。 「これ、たどってきゃいーんじゃねぇか?」 「うん」 滑らないよう注意して川縁まで下りる。川沿いにずっと、歩きやすいとは言えないまでも一応道らしきものがあった。 「とんでもねぇことになっちゃったなあ」 確かに。 思えば、単に夕食食べて宿に戻ろうとしてただけなのに、何だって俺たちは街を出た川縁なんかを歩いているんだろう。 ……全部俺のせいな気もするが。 「ま、人助け人助け」 自分で答えてキグナスがふわふわとあくびをした。 「……シサーたち、まだ戻ってないかな」 「どうかな。ま、大丈夫だろ。部屋は違うんだし、別にばれねーよ」 何だか親の目を盗んで遊びに出ている子供みたいな言い種だ。 「なあ」 足元に目を落とし、流れる川の水音に耳を傾けながら歩いている俺に、やはり足元に視線を落としたままがさがさと歩いていたキグナスがふいっと俺を振り返った。 「おまえ、後悔してる?」 「……何が?」 「わかんねえ。いろんなこと」 「……」 きょとんと目を見開いてキグナスを見つめた俺は、そのまま小さなため息をついた。 「……しようがないだろ。出来るほどの選択肢が俺には最初からなかった」 「それはそーかもしんねぇけど……」 それから少し低い、どこか掠れた声が聞こえた。前を向いてしまったキグナスの、その表情まではわからない。 「……おまえ、いつから知ってた?」 「何を?」 「レガード様の囮だってこと」 「……」 いつからだろう。最初から気付いていたのかもしれないし、気付いてなかったかもしれない。良く考えればすぐにわかることだし、もう……よくわからない。 「さあ……」 結果として答えられたのはそれだけだった。キグナスがしばらくの沈黙の後、再び口を開いた。 「俺さあ……はっきり言われたわけじゃねぇけど、知ってたんだよ」 「ああ、うん」 それはそうだろう。 屈託なく頷いた俺に、キグナスが少しだけ振り返った。 「怒らねぇのな、おまえ。俺のこともシェインのことも」 「……」 激しい水音の合間を縫うように、不意に虫の甲高い鳴き声が聞こえた。いや……蛙かな、これ。『クルルルル』って感じの……秋の、田んぼ道みたいな……。 不意に、1度しか行ったことがない、祖父の家を思い出した。 「……最初はさ、他人だろ」 「……?うん……?」 「ましてことは国家規模だ。他人である俺の命を餌にしてでも、身内で国運を握ってるレガードを見つけたいと思うのは、仕方ないと思う」 「カズキ……」 「他人だから」 俺だって人のことは言えない。国なんか知ったこっちゃない、さっさと帰せって。 そう思ってたから。 「人間関係が出来たのは、その後だから」 「……」 出来て……たんだな。いつの間にか。しみじみと考えなんかしなかったけど。 でも、こうして考えてみればあっちの世界のことだってそうだ。普通に過ごしているその間は、俺は、人間関係で悩むようなこととかも特になかったから……大切なものを、人を、自分が持っていることに気がついてなかった。気がついたのは、こっちの世界に拉致されたから。 失ってから、気づくもの。 ……そう、既に知っているから、もしかすると俺は「帰りたい」と素直に思えなくなっているのかもしれない。 あっちに戻ることで、掌から零れるものがあると、知っているから。 「それに、シェインが信じてくれたからユリアがいたんだって……勝手にそう思ってるよ」 シサーたちがいるってのはでかいだろうけど。 「……唐突に、何で?」 尋ねると、キグナスは伸びをするように片手を天に伸ばしながら答えた。 「なんか。さっき見てて思ったから」 「さっき?」 「ティナを追ってた奴ら。……戦い方、見てて」 戦い方? なぜだか、キグナスの言葉の意味がわからないにも関わらず、その言葉はやけに胸に突き刺さった。さっきの、洞窟で感じた心のどこかが痛むのに似た……。 「……あ。あれ、水門じゃないか?」 水音が一層激しく聞こえてくる。キグナスが、『導きの光』を灯したロッドを掲げた。近づくにつれて激しい水音の正体が現れる。 「分岐点だ……」 俺たちがずっと歩いてきたその川が、少し先で二手に分岐しているようだった。 ……あれ? 良く見れば分岐している川の一方、右手にややカーブしている方は流れ込むのに段差を乗り越えるようだ。当たり前だがそんなに凄い段差ではないんだけど。対するもう一方……道なりならぬ川なりにほぼ直線に流れる方は、むしろ下り気味になっている。 勢いがあるから段差をものともせずに二本ともに流れ込んでいるんだけど、これじゃあいかにも直進している方が多く流れ込むだろう。……ああ、そうか。水を引き込むために、そういうふうに作ったのか……。で、川なりに流れている方に設置されている水門を閉じると、そこにぶつかって右手カーブの方に流れ込むわけだ。 「あれを閉めよう」 方向から行っても角度からいっても、あの洞窟に続く水路は直進してる方としか考えられない。 近づいてみれば、水門は放置されて長いように、苔むしてしかも錆び付いているようだった。 「壊れねぇだろーなぁ……」 その危険性は十分ある。けど。 「やってみるしか、ないだろ」 水門が引き上げ式なのは見てわかる。今は閉めたいわけだから、つまり下ろすだけ。開けるより遙かに力はいらないはず。 「動くかな」 「どうなってんだろ……」 近づいて、覗き込むように身を乗り出す。 「暗くて良く見えないな……灯り、もう少しくれるか」 「あいよ」 キグナスが腕を目一杯伸ばして、こちらに灯りをくれる。どうやら鉄製の長いハンドルが水門と連動していて、これを手前に引くように引き上げると水門が下りる、ような気がする。 ハンドルのある辺りも草がぼうぼうで、ハンドルそのものも何だかドロドロしていてあんまり触りたくない感じだけど……ここまで来て「汚い」と言う理由では帰れないだろう、やっぱり。 「キグナス、こっちやって」 言いながら俺は、水門の上に渡されている小さな橋のようなスペースに飛び乗った。見る限り連動しているハンドルは、あっちとこっちで2カ所。水を塞き止める水門なんて相当重たいわけで、ひとりで操れるシロモノではないらしい。 「わかっ……うええ。汚ぇ」 文句を言うな。 「既に全身汚いんだから、大差ないだろ」 言いながら、対岸に飛び降りる。そちらにも同じようなハンドルがあり、汚さの加減も同様だった。 あとは壊れないことを祈るばかりだ。 「行くぞ」 「おー」 観念したらしいキグナスが答える。全身の力をかけて引き上げるが動かない。全体重をかけて血管キレちゃうんじゃないのってくらい渾身の力を込める。 「くぅぅ……」 対岸からキグナスが呻くのが聞こえ……。 ――がちゃん!! ギギギギギ……。 錆びた軋みが聞こえた、と思ったら。 「うわ」 「うひゃー」 急に全身が軽くなり、一瞬体がふわりと浮いた。その勢いで尻餅をついて投げ出される。重力が味方してくれたらしい。 ギィィィィィ!! バターーーンッ。 「や……った……」 「つめてッ……」 激しい金属音と水音を立てて、水門が閉じた。流れ込んでいた水が、流れを遮る鉄板にそのままの勢いで叩きつけられ、俺のいる場所にまで水飛沫を上げながら右手のカーブへと突っ込んで行く。 「戻るか」 「うん」 後は出口側の中途半端な水門を、開けなきゃ。 がさがさと草をかきわけて道を半ば駆け戻る。俺もキグナスも時計を持っていないので正確な時間はわからないけれど、フォグリアの公園にいた時に比べると、月の位置はだいぶ動いていた。早起きな鳥のさえずる声が聞こえ始めている。 ……まずい。朝になっちゃう。 気がついてみれば、空こそまだ白々とはしていないものの、朝独特のひんやりとした清浄な空気が、夜を覆っていた。 洞窟へ再び戻ってきた俺たちを、ワイアームの力ない視線が出迎えてくれる。こちらに敵意がないことを理解しているのか、もう警戒するような姿勢は特に見せなかった。……面倒くさいのかもしれない。 水の流れは、俺たちが移動している間におさまったみたいだった。かなり緩いものになっていて、水かさも大したことない。これなら今でも渡れそうだ。 「これはどーすんだ?」 閉じ掛けの水門に近づく。木で出来た巻き上げに絡みついている鎖、こいつを巻き上げてやれば上がるんだな、多分。 「動くかな」 巻き上げについているハンドルに手を掛けて力任せに回してみると、さっきの水門同様重いのは最初だけで後は割とすんなり動いた。重いのは重いんだが。物理的に。 全てを巻き上げた時には水門の方もきっちり上がっていて、上がるとその上方にある留め金ががしゃんと音を立てて水門を銜え込んだ。 これでワイアームの通路は確保出来たはずだ。あとは……。 ワイアームが首をもたげてこちらを見る。それを受けてキグナスを見ると、凄く複雑な顔をされた。 「本気でやる気かよ?」 「他にどかす手段があるのか?」 「そりゃ……ねぇけどさ……」 だから戦いたいんだったら、俺はそれでも構わないけど。 「襲ってきたら逃げるなり戦うなりすればいい。大体、こっちの……」 言って、顎で外へ続く通路を指す。 「通路に逃げ込んじゃえば、追って来られないだろ」 通れないんだから。 「そりゃあそうだけど。……わかってんのか?魔物を回復させて外に放すのは、誰かが襲われるかもしれないってことなんだぜ」 「……うん」 そんなこと、わかってる。けれど。 「魔物を根絶やしにする為に片っ端から退治してくのと、襲われて抵抗するのとは、別物なんじゃないか」 多分。 ナタとかアギナルド老とか。 彼らが言っていたことが、そういうことなんじゃないかって……そういう気がするから。 「魔法、かけるぞ」 「うん」 キグナスがロッドを構えた。何かことが起こるのを察知したように、ワイアームが小さな雄叫びを上げて身をよじる。口の中で唱える呪文が、微かに俺の耳に届いた。 「……『癒しの雲』」 ワイアームの雄叫びに被せるように、ふわりと暖かな色合いの光が、その体を優しく包み込んだ。 ● 4 ● 「寝てる、かな」 その家の前で足を止め、小声でキグナスに囁く。困ったような顔でその家を見上げるキグナスの横顔は、うっすらと姿を現した日の光で仄かに照らされている。 ようやく俺たちがフォグリアのティナの家まで戻って来た頃には、すっかり世間は朝に向けて動き始めようとしていた。実際、朝早い農家の人たちは既に畑に出ているのを見かけたし、おかげで出て行く時は門兵と押し問答しなけりゃなんなかったのが、既に開門しているおかげで問題なく入って来られた。 とは言え、一般の人が起き出すにはまだ早い。 「ふわ〜ぁ……」 眠い。 回復魔法で、全快とまではいかないものの、何とか翼を動かせる程度には回復したらしいワイアームは、状況を理解しているのか何だかわからないが、幸い俺たちに襲い掛かってくるようなことは、なかった。 これで、薬剤師も元通りキノコを取りに洞窟に入ることが出来るようになるだろう。 約束のヒカリダケは、俺の持つ右手の布に包まれている。女装している俺のウェストに巻かれていたストールのようなものを、風呂敷代わりにしているんだが。 「一旦、宿に戻るか。街が動き出してから届けにきても……」 キグナスが言い掛けた時、俺たちの目の前でその扉がそっと開かれた。 「お、おはようございます」 思わずキグナスが挨拶をする。扉を開けたのは、まだ若い女性だった。焦げ茶の髪と瞳の、優しそうな女性。どこか清浄な空気をまとっている。 ……ドアを開けたらそこにぼけっと人が立っていたら……怪しいよなあ、これはやっぱり。 とか思っていると、彼女がにこっと俺たちに向けて微笑んだ。 「あなたたちですか?」 「は?」 「ティナの、わがままがご迷惑をお掛けしたのは……」 あ。 「……ご存知だったんですか」 「聞きました。どうぞ、お上がり下さい。狭いところですけど」 「あ、でも」 「お疲れでしょう?何もありませんが、少しお休みになってって下さい」 「……はあ」 キグナスと顔を見合わせる。こうまで言われてあくまで辞退するのも失礼な気がするし。 「じゃあ、少しだけ」 「お邪魔します……」 木造の、小さな家だった。けれど壁に柔らかな色合いの布をタペストリーのように飾っていたり、ドライフラワーをアレンジしてあったりと、居心地良く家を整えている感じだ。 部屋の真ん中に、やはり木製のテーブルと椅子があり、テーブルの上には小さなレース編みのクロスが乗せられていた。テーブルの中心にもドライフラワーがセンス良く飾られている。 「お茶を、お持ちしますね」 「あ、すみません」 勧められて、とりあえず椅子に座ったりしてみる。ついつい顔を見合わせていると、彼女がトレイを片手に戻って来た。ティポットとお揃いのカップが2つ。 「どうぞ」 「ありがとうございます……」 「すみません……」 何となしに2人して恐縮しつつ、目の前に置かれたカップに手を伸ばした。彼女も椅子のひとつに腰をおろす。 「申し遅れました。ティナの姉の、ディアーナと申します」 ああ……おばーちゃんとディアーナの3人で住んでるとか言ってたっけ。 俺とキグナスもとりあえず自己紹介なんかして、布ごとヒカリダケをディアーナに差し出す。 「本当に、何てお礼を申し上げて良いのか……」 「いえ別に……。多分、もう洞窟にも入れると思うので、良かったら薬剤師の方に伝えていただけますか」 「はい。あの、つかぬことをお伺いしても良いかしら……」 「は?」 「……男性、なのかしら?」 うあ……。 「あの、ええと、まあ、その……」 そうだった。疲れてて忘れてたけど、この格好で口利いたら、『オカマ』と思われるのがオチなんだった。 「わけがあるだけで、別に好んでやっているわけじゃないんですけど」 「ふふ、そうですか。いえ、姿に違和感がなかったものですから……声を聞いてびっくりしちゃっただけです」 つい真っ赤になってもぞもぞと言い訳をすると、ディアーナがくすくすと口元に手をあてながら微笑んだ。恥ずかしすぎる。 「ティナにお礼を言わせたいのだけど、まだ眠っているの」 ああ、まだ早い時間だから、寝てるだろう。 「いいです、別に。よろしく伝えてください」 「でも申し訳ないわ、何かお礼が出来れば良いのだけど、お金はそんなに……ないし」 言ってディアーナは小さく首を傾げた。 「もしかして、旅のお方ですか」 「え?……あ、はあ……まあ」 「そう……。あの、良かったら、先見、致しましょうか」 「は?」 黙々とカップを口に運んでいたキグナスがぽかんと声を上げた。――先見? 「わたし、少しだけですけど……その人の、未来を見る能力があるんです。と言っても、真面目に修行を積んだりはしていないので……プリーストになれるほどではないんですけどね。ぼんやりとしか、見えないし」 と言うことは、プリーストの能力に、そういう未来を見るようなものがあるってことなんだろうか。 「プリーストって予知が出来るの?」 「それは人によるみてぇだぜ。修行で会得する魔法とはちょっと違う、なんつーか、素質みたいなもんがあるみたいだから」 「ふうん」 キグナスの答えに、ディアーナが微笑んだまま頷いた。 「ええ。わたしに他の神聖魔法はいっさい使えないんです。ただ……母が、エルファーラの出身だったので」 「え?」 それと先見の能力と何か関係が……? 首を傾げた俺が問い返す前に、ディアーナが手を差し出した。 「手を、貸していただけますか?」 「え?あ、はい……」 「わたし、触れないと見ることが出来ないんです」 温かな手が、俺の冷えた手に触れる。両手でそっと包まれて、まだ若い女性に失礼だけど……何だか、母の手のような感じがした。安堵するような、安らぐような……癒されるような、空気。 その温もりにぼんやりとしていた俺を真っ直ぐ見つめていたディアーナの瞳が、困惑するように曇る。微かに眉根が寄せられた。……え?何? 「……どうしました?」 「……いえ」 言いながら、手を離す。今見た光景を思い出すように、あるいは言葉を選ぶように、ディアーナは口を開いた。 「失うものの代わりに、得るものもあるはずです。痛みを、恐れないで……」 「……え?」 失うもの?……が、ある、ってことなんだろうか。この……先に。 「わかりませんけど。そんなふうに見えただけです。見失った何かを取り戻す時、大きな痛みを伴います。でも、手を貸してくれる人が」 「見失った何か?」 さっきの『失うもの』とは何かニュアンスが違う。別のものを指してる?見失った何かって? 助けてくれる人……。 「……紫の……」 ――ナタ? 「それ以上は、わかりません」 「……そうですか」 何だろう。 何か、ちょっと、不吉な感じがしなくもない。……この先、また、ナタと会うことがあるんだろうか。 「ありがとう」 それからディアーナはキグナスの手をとった。……瞬間、驚愕したように目を見開いた。 「……え?」 その顔を見てキグナスも目を丸くする。ぱっと手を離したディアーナは、驚いた自分を恥じるように作ったような笑顔を浮かべた。 「あ、ごめんなさい……少し、驚いただけです」 少しなんてものじゃなかったけど。 「何が見えたんですか」 尋ねると、ディアーナは躊躇うように口ごもり、小さく首を横に振った。 「いえ……はっきりとは、何も。ただ……」 考え、言葉を選ぶようにして口を開く。 「あなたが、誰かを大切に思うように、あなたを大切に思う人がいます。魔法で取り返せるものと、取り返せないものが。……そうとしか、わたしには言えませんけれど……」 「……」 思わずキグナスと顔を見合わせた。ディアーナはそれ以上口を開こうとしない。勢い、沈黙が流れる。窓からは清々しい朝の光が差し込んできていた。 「……あ、そろそろ帰らないとまずいんじゃねぇか」 沈黙を破るように、キグナスが口を開いた。壁に掛けられた時計は6時を回ったところだ。 「そうだな……」 頷き、カップに残ったお茶を飲み干す。 「それじゃあ、俺たち……」 「あ、はい……その、すみません。何だか……お礼にならなかったみたいで」 曇った顔でディアーナが見上げる。俺は小さく首を横に振った。 「元々、安全な旅じゃないから。注意を喚起する意味でも、気を引き締める良いきっかけになったと思います」 「……そう、言っていただけると」 「それよりお茶、ごちそうさまでした」 ディアーナに見送られて、外へ出る。彼女を振り返って、キグナスがもそもそと言った。 「別に、気にしないでいいから」 「あ、はい……」 「ティナによろしく」 とは言え、気になる。 「……ま、気をつけろってことかな」 「あー……別に、気にしちゃいねぇよ。……っと。まじでやばいんじゃねぇか?」 「そうだね」 「あのオヤジ、宿の掃除はしねぇくせに朝だけは早ぇからなぁ……」 「シサーたちが起きてなきゃ問題ないんだけどね……」 「風呂に入りてぇぇぇッ」 両手を空に伸ばしてキグナスが呻く。朝の光を浴びてみれば一層、互いの汚さが目に付いた。 「急ぐか」 「走ろうッ」 言うなり、キグナスが駆け出す。 ……さっき言った言葉は、ディアーナを慰める為だけに言った言葉じゃない。 元々安全な旅ではないから。気を引き締めていかないと、誰かが命を落としてもおかしくない。 いつの間にか出来ていた、こちらの世界の大切なもの。 尊敬する人、友人、そして、想う人……。 いつか必ず、掌から零れるもの……。 「ふわぁ〜……」 とりあえずは、休もう。 短いあくびをかみ殺し、俺はキグナスの後を追って朝日の中を駆け出した。 Fin 2006/10/23 |
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