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推奨時期:第1部25話でカイザーの名前は出ますが、過去の話なのでいつでもアリかな。



■ QUEST ex2 別れ道 ■

● 1.赤い瞳の少年 ●

「はあッ……はあッ……」
 荒く肩で息をつきながら、カエサルは背後の壁にもたれかかるようにして、そのままずるずると座り込んだ。自分の呼吸さえ耳につく。だが、これ以上息を潜めたら呼吸困難に陥ってしまう。
 ぽたぽたと額から、汗が滴り落ちた。人間、これほど水分が出るものかと、いっそ的外れな感嘆さえしたくなるほどの量だ。肩にかかる程度の長さの、金緑の髪が汗でしっとりと濡れている。
 髪と同じ色の瞳で辺りの様子をうかがって再び体を起こそうとするが、もはや足は微塵たりとも動こうとしない。一度は遠退いた追っ手の足音が通りを激しく行き来するのが聞こえた。唇を噛んで腰の長剣に手を伸ばす。だが、立ち上がれないほどの疲労の中、加えて先ほど衛兵と剣を交えたときに深い傷を負っているとあっては……複数の衛兵相手に何が出来ようか。
(諦めるな……ッ)
 萎えそうになる己を叱咤するが、襲い掛かる焦燥感を止めることは出来ない。
 カエサルが潜む壁を挟んですぐの通りを複数の足音が通り過ぎた。しかし、ほっとしたのも束の間、がさがさと言う足音が、不意に闇の中から肉迫してくる。
(しまった)
 こんなところまで潜り込んで来るとは……。
 全身を緊張が襲う。がさりと一際大きな音がして、目の前の茂みが掻き分けられた。
「……誰だ?」
 咄嗟に出た言葉は、我ながら間抜けだと思う。
 人の家の庭先に侵入しておいて言う言葉ではない。だが。
「自分の家の庭で、不審者に誰何されるとは思わなかったな」
 あどけなくそう言い返したのは、まだほんの子供だった。赤い髪の揺れるその下、無邪気な赤い瞳がカエサルを見つめる。どうやらこの家のご子息らしい。
「おぬしこそ、人の家の庭先で何をしている。……通りが何かと騒々しいな。あれはおぬしを追う衛兵か」
 カエサルは沈黙を返した。もう体力がない。傷を受けた腹部も脈打つような痛みと熱を放っている。
「ふむ……では待っていろ」
 言って少年は踵を返した。元来た茂みを再び、がさがさと戻って行く。
「待ッ……」
 咄嗟に制止の声を上げようとするが、瞬間傷が悲鳴を上げた。蹲る。その間に、少年の姿は見えなくなっていた。代わりに、20エレ(30メートル)ほど離れた場所で門を開く音と複数の話し声が聞こえた。
(ああ……)
 嘆息する。これでもう、ここまでの逃亡劇が全て終わりを告げたのだろう。少年にしてみればカエサルは侵入者。衛兵に追われているとなれば、怪しい奴だ。突き出すのが筋であって助けるいわれはない。
 だが。
 門を閉じる音から程なくして、複数の気配が遠退いて行った。ややして少年が再び姿を現わす。
「追い払ったぞ。今ならこの近辺は安全だろう。……歩けるのか」
 カエサルを覗き込んだ少年が眉をひそめた。怪我に気が付いたのかもしれない。
「大丈夫だ……」
 言いながら無理矢理体を壁から起こす。
(う……)
 ゆらり、と体が傾いだ。そのままばさりと、起こした上半身が地へ落ちる。
「あ、おいッ」
 声変わり前のやや甲高い、慌てたような少年の声を最後に耳にして、カエサルの意識は深い闇の中へと沈んでいった。




● 2.運命との出会い ●

(……?)
 次に目覚めた時、カエサルの瞳に飛び込んで来たのは、これまでの18年間の人生の中で1度たりともお目にかかったことがないような、高く広い、美しい天井だった。良く見れば、凝った模様が掘り込まれている。そして横たわっているのは、やはりかつて体験したことがないほど肌触りの良い、心地良いベッドだった。ゆっくりと視線をさまよわせる。
 広い、部屋だ。壁や調度の類を見ても、かなりの財をかけて造られているだろうことがわかる。だが部屋の中身そのものは機能的と言おうか、いっそ無愛想と言おうか、あまり余分な物が置かれていない。窓際に置かれた書き物机と中央の長椅子にテーブル、僅かな飾り棚。
 最も目を引くのは奥の壁一杯に並べられた本棚で、分厚い、価値のありそうな本が詰め込まれている。どれほど読書家の、重厚な老人の部屋なのだろうと思わせる。
 彷徨わせた視線が、ふと止まった。カエサルが横たえられているベッドの脇に椅子を置き、先ほどの赤い髪の少年が似合わない分厚い書物に視線を落としている。灼熱の瞳がふいっと上げられた。
「目が覚めたか」
「……ここは」
「おぬしが侵入した屋敷の中だな。ちなみに占領しているベッドの持ち主は、俺だ」
「……それはすまなかった」
 ぱたんと書物を閉じ、少年が答える。ベッドの持ち主がこの少年。と言うことは。
「あの書物は、君が……?」
「あ?……ああ。俺のだ。まあ元を質せば祖父君のであり父上のであるが。今の所有者は一応俺、と言うことになっている」
 驚いた。こんな年端もいかない少年が、あんなものを読もうとは。
「それより、傷はどうだ」
「え?……あ」
 そっと体を起こす。……信じられない。癒えている。良く考えてみれば、泥のようだった全身の疲労も綺麗に消えていた。
「治っている……」
 まさか、この少年が?
「良かった。これほどの怪我の治癒を試してみるのは初めてだったのでな。少々不安が残った」
「……君は、魔術師なのか」
 少年は、黙って首を横に振った。
「まだ魔術師とは言えぬ。見習いですらない。来年、エルレ・デルファルに進学する予定ではいるがな」
「では魔力が」
「あるようだな。おかげで、祖父に父にと叩き込まれて適わぬ」
 そう顔を顰めた少年は、宿題を嫌がる年相応の子供のように見えてカエサルは小さく笑った。
「腹が減ってはいないか」
「……そう言えば」
 ロドリス王国を出てから、ろくに食べ物を口にしていない。カエサルの表情を見て少年が立ち上がった。
「よし。食物を運んで来てやろう。固形の物でも口にすることが出来るか。それともオートミールのようなものの方が良ければ……」
「いや、大丈夫だ」
「わかった。待っていろ」
 椅子から立ち上がり、少年が扉へと足を向ける。部屋を出て行きかけて、ふと思いついたようにカエサルを振り返った。
「そういや、おぬしの名を聞いておらぬな」
「……カエサルだ」
「カエサルか。良い名だ。英雄に多いな。俺はシェインだ」
 にっと白い歯を見せて笑い顔をカエサルに向けると、少年――シェインは、扉の向こうに姿を消した。それを見送って、再びベッドに沈み込む。
(英雄、か……)
 シェインが椅子の上に残していった書物に目を向けた。古い魔術書だ。元々祖父のであり父のであると言うことは、魔術師の家系なのだろうか。豪奢な邸宅。庭も恐ろしく広かった。貴族階級なのは間違いない。
(変わってるな……)
 衛兵に追われる見ず知らずの男を家に引きずり込んで、自分の私室にひとり残すとは。相当豪胆なのか相当間抜けなのか、果たしてどちらだろう。
(……まあ、子供なのだし)
 利発な子供のようには見えたが。
 それから、ふうっと深い溜め息をついて天井を見上げた。祖国ロドリスを追われて、幾日経ったのだろう。山から国境越えをし、教皇領エルファーラの深い森を抜け、ヴァルス王国へと入った。
 エルファーラに最も近い街アンソールに辿り付いたのは、深夜だった。だが、ロドリスからカエサルを追う刺客が背後に迫っている。カエサルは馬を乗り捨て、アンソールに侵入する為に、防護壁をよじ登った。背後に『聖なる森』を控えている為、アンソールはそちら側の守りが薄い。
 だが、街へ転がり込んだところで見回りの衛兵に見付かってしまったのだ。今度はヴァルス衛兵相手に逃走劇を演じる羽目になり、迷い込んだ貴族邸の庭先でシェインに助けられたのだった。
(数奇なもんだな……)
 つい先日までは、自分がヴァルスにいるなど想像もしなかったものを。
「待たせたな。ミース(乳母)が口うるさくてな。深夜に食べ物を食べるなだの何だのと」
 ぶつくさ言いながら戻って来たシェインは、それでもその手にはパンとスープ、ティーセットの乗ったトレイを確保して来ていた。香ばしい香りに胃が活発になる。
「俺がここにいることは……」
「知らぬよ。まあ、さすがに俺ひとりで運び込むのは無理だから、下働きの者に内緒で頼み込んで運んでもらったのだが」
 つくづく悪いことをしたと思う。いらぬ気苦労をかけ、ベッドを奪い、安眠を奪っている。
(……あれ?)
 しかしそもそも、この少年はこんな時間にあんなところで何をしていたのだろう。良家のご子息は就寝の時間帯だ。
「こんなものしかなくて悪いのだが」
「申し訳ない」
 礼を言いながらベッドから体を起こした。これほど心地良いベッドにはなかなか横になれるものではない為、いささか惜しい気もしたがいつまでも占領するわけにはいかない。
「立てるか」
「おかげさまで」
 シェインがトレイを置いたテーブルに向かって、長椅子に腰掛ける。感謝しながら食事に手を伸ばした。
(うまい……)
 ひさびさのまともな食事、と言うことも手伝って、思わずがつがつと食べてしまう。先ほどの椅子に再び腰を下ろしたシェインが、膝に書物を乗せて頬杖をつきながら呆れたような視線をカエサルに向けた。
「相当飢えているみたいだぞ」
「相当飢えてたんだ」
「……俺は今、ひどく良いことをしたような気分だ」
「まったく良いことはするものだな」
「……」
 ぺろりと平らげたカエサルに、シェインは微かに慄いたような目線を向けた。
「生憎だが、これ以上持って来られない。朝にはまた用意するゆえ、今はそれで我慢してくれ」
 飢えた挙句にカエサルがシェインを食べるとでも思ったかのような言い草に、思わず吹き出した。
「気遣い、ありがとう。本当に、申し訳なかった」
「いや……事情は聞かぬ方が良いか?」
 立ち上がってシェインは、空になったトレーを飾り棚の上へと運んだ。代わりに、カップに2人分の茶を注いで戻って来る。
「……」
「構わぬ。言いたくないのなら」
 大して気にした様子もないシェインに、カエサルは微かに眉根を寄せた。
「……君は、変わっているな」
「そうか?」
「普通は庭先の侵入者に、ベッドを貸し与え、夜食を提供したりなどしない」
「ああ。具合が良くなさそうだったのでな。怪我人病人を放り出しては、俺自身の寝覚めが良くない。俺の為だ」
「……俺が、悪人だったらどうするんだ?」
「退治する」
 ぶッ……。
 思わず吹き出す。あっけらかんとした物言いに、おかしくなったのだった。
「面白いよ、君は」
「子供だと思って舐めてもらっては困る。人を見る目には自信があるのだ。……恩を仇で返すような悪人には見えなかったのでな」
「そうか?」
「ああ。泣きそうな顔してたぞ。悪人は、あんな情けない顔はしないものだ」
 きっぱりと言い切られると、いささか複雑なものがある。
「国に、裏切られた……」
 シェインがカエサルの前に置いてくれたカップから上がる湯気を見つめながら、ぽつりと呟いた。シェインが黙って視線を向ける。
「……言葉にロドリス訛りがあるな」
「そう。ロドリス人だ」
「ロドリスからこんな深夜に旅してきたのか」
「まあ……旅というか」
 逃げてきたというか。
「行くところはあるのか?送らせても良いが」
「……」
 ぽりぽりと顎をかいて、カエサルはそれ以上言葉を紡ぐのをやめた。言を途切らせたカエサルに、シェインは僅かに小首を傾げる。
「ないのか?」
「……ない。戻る場所もない」
「行く宛がないのなら、行く宛が決まるまでしばらく、置いてやれるよう祖父君に交渉してみても良いが」
「父君ではないのか」
「父はその、何だ……まあ、普段はここにはおらぬのでな」
 僅かに言葉を濁して、シェインは苦笑いを浮かべた。
「そんなことを気軽に言って良いのか」
「おぬしが我が家に災難をもたらさないと誓うのであればな。後は祖父君が判断するだろう」
 あまりにも大雑把な物言いに、カエサルはまたも吹き出した。つくづくと変わっている。仮にも貴族の子息が、こんなんで良いのだろうか。仮にカエサルに害意があったとしたって「誓う」と言うだろう。
(本当に……豪胆なんだか間抜けなんだか)
 わからない。
 尚もくすくすと笑いながら、カエサルは片手を挙げてシェインに答えた。
「……誓います」




● 3.手に入れたもの、失ったもの ●

 思えば、出会った瞬間からカエサルはシェインと何か通じるものがあったのだろう。恐らく逆もそうだったに違いない。それが具体的に何とは言えないが、例えて言うならそう――波長のようなもの、だろうか。
 魔術師、いや正確にはまだ魔術師となり得ていないが、魔力を持つ人間ならではの鋭い感性とカエサルとの波長を信じ、シェインはカエサルを受け入れたのだろう。今となってはそう思う。
 結局、偶然に偶然を重ねた遭遇のまま、カエサルはシェインの家に使用人として居着いてしまった。
(まさかヴァルス貴族の家にな……)
 それも、ただの貴族ではない。
 祖父、父と2代に渡ってヴァルス王国宮廷魔術師を務めるクライスラー家だなどとは思ってもいなかった。父が家にいないと言ったわけが、それでようやくわかった。宮廷魔術師、及び宰相は王城に居館を与えられる。緊急時にでも対応が利くよう、そこへ常駐するのが常だ。王都に居館を構え、王城内には居室のみが与えられる大臣クラスとは格が違う。
 そして、クライスラー家の家系はそれに留まらない。更に遡れば、外務大臣だのエルファーラの教皇庁に務める神官だの、その前もまた宮廷魔術師だのと、まさに由緒正しきお貴族様である。
「カエサル。シェインがどこへ行ったかご存知?」
 カエサルは手先が器用で、建物の修繕や庭先の整備などに長けている。カエサルがクライスラー家に転がり込んだ半年前、ちょうど修繕師を務めていた老人が屋根から滑り落ちて重傷を負い、代わりにカエサルがその役職へとスライドした。
 祖国を追われて「これからどうしよう?」と思っていたところだったのだから、全く幸運この上ない。あり得ない不幸の後には、ちゃんとあり得ない幸福が約束されているのだなあなどと竹箒に顎を乗せて空を仰いでいたところだったので、少し動揺した。
「あ、エミール様」
 シェインの姉だ。こまっしゃくれた顔をした弟とは違い、上品な、切れ長の瞳の優しげな女性である。白銀の髪と黒い瞳が、彼女を一層たおやかに見せていた。
 カエサルの『幸運』のひとつでもある。……一方的なものではあるのだが。
「またヴァルター殿を撒いて、街に行方をくらましたようですよ」
「……止めて差し上げてね?」
 ヴァルターは、クライスラー家の執事である。この家では、奔放な嫡男と執事の『外出戦争』が日課となっている。大抵はシェインがまんまと街へと姿を消すのだけれど。
「はあ……」
「本当に落ち着きのない子なんだから……」
「でもエミール様。あれでこそシェイン様なのですし……」
「カエサルは本当にシェインに甘いのね」
「は、はあ……」
 くすくすとエミールが笑う。何となく、赤面して頭を掻いた。
 シェインの外出癖は、昼夜を問わない。貴族と言う身であれば、本来ならもっと護衛に気をつけるべきなのだろうが、シェインは一切そういうことに頓着しないし、祖父も父もとりあえずは好きにさせているようだ。
 『それで害が加わるようなことがあれば、それを甘受する己の修行不足』と言う、何とも凄まじい教育方針のようである。甘いのか厳しいのか判断がつかぬところだ。
 それはともかく、カエサルにしてみれば、シェインの『昼夜問わない外出癖』のおかげであの夜助けられたのだから、止められようはずもない。……そう。あろうことか、カエサルが庭先に転がり込んだあの日も、シェインはあの時間からお出かけあそばすところだったのだ。
(まったく街で何をしているのやら……)
 謎である。
 だが、いつまでもこうしてここに安穏としているわけにはいかない。いつまでも、ここでシェインとエミールのそばにいたいのはやまやまなのだが……。
――ロドリスへ、戻らなければ。

 カエサルの両親は、ロドリス王国ガレリア地方の領主コンラッド家に仕える下働きの人間だった。住み込みではなく通いであった為、カエサルはコンラッド家の人間を良く知らない。
 ロドリス王国と国境を接するリトリア王国は、長年の仇敵である。そしてガレリア地方は、最もリトリアに近い地方だった。
 その、カエサルの運命を変えた一夜の出来事を、今でも鮮明に覚えている。ガレリア山脈を背後に控えた黒々とした闇の中に煌々と燃え盛る灯り。――炎。
 詳しいことは、カエサルも良く知らない。ただ、コンラッド家の当時の領主はリトリアの人間と通じ、ロドリスと戦争を起こそうとしていたリトリアに情報を流していたのだと言うことだった。そしてそれを知った王城ハーディンの結論は、コンラッド家の焼き討ちだった。
(お父さん……お母さんッ……!!)
 その夜に限り、帰りが遅くなった両親は、リトリアに加担した主人と共に炎の中に姿を消した。一抹の不安を覚え、コンラッド家付近まで足を運んだカエサルが屋敷を包んで盛大に立ち上る炎に息を飲んでいると、焼き討ちを実行した兵士たちがカエサルを発見したのだ。
 そしてカエサルは、ロドリスを追われることとなった。
 だが、信じている。カエサルの両親は謀叛に加担などしていない。ごく下々の使用人だったのだ。知るはずがないではないか……。
 それを、良く調べもせずにまとめて焼き討ちにかけたハーディン王城を、許すことが出来ない。
 結局、コンラッド家が潰えたせいで、リトリアは一旦ロドリスに仕掛けるのを見合わせたようだが、カエサルにとって重要なことはそんなことではなかった。
(……いつか、必ず……)
 両親の仇をとってやりたい。




● 4.築き上げたもの ●

 裏門の修繕をしていたカエサルは、背後から突然衝撃を受けて門に激突をした。
「ぐえ……」
「カエサル!!おぬしも共に来い!!」
「え!?」
 シェインが、後ろから抱き付いて来たのだ。ぎょっとして振り返ると、シェインの後ろからは執事のヴァルターが鬼の形相で追いかけてくる。
「なッ……」
「逃げるぞッ」
「え、お、俺もですかぁ!?」
「俺とヴァルターとどっちを取るのだ」
 そういう問題ではないと思う。
「あああ、もう……」
 なぜか自分で修繕していた門を、開けずに乗り越える羽目になりながら、カエサルはシェインに導かれるままに屋敷の敷地から外へと飛び出した。
「シェイン様!!カエサル!!お前まで一緒に!!」
 ヴァルターが門越しに怒鳴る声が追いかけて来る。
「帰ってきたら厳罰に処すぞ!!」
(って言われたって……とほほ)
 全力疾走で上司から逃げる羽目になりながら、身軽にひょいひょいと通りを抜けていく主を見失わないように追いかける。
「脱出成功だ」
 路地を幾つか曲がって、シェインが振り返った。汗ひとつ浮いていない。こっちは汗だくである。
「……シェイン様」
「何だ」
「……俺、減俸になっちゃうんですけど」
「ま、仕方ないな」
「とほほ……」
 とは言え、ここまで来てしまっては仕方がない。今更嘆いてももう減俸確定なのであれば、せめて今くらい悩むのをやめた方がお得と言うものだ。
「カエサルはウチに来て以来、アンソールの街でろくに遊んだりもしておらぬだろう。若いのだから、家に籠もってばかりいては腐るぞ」
「……若いんだからって」
 そう言うシェインは、カエサルより8歳も年下である。
「シェーイーン!!」
 街の中心、噴水のある広場に、街の子供たちが集まっていた。こちらへ向かって手を振っている。
「おう」
「そっちのおじちゃんは誰?」
(……おじちゃん)
 まだ、10代なのだが。
 がっくりと肩を落とし、苦笑いを浮かべた。
「俺の友達だ。カエサルと言う」
 シェインが屈託なく言う。その言葉に、思わず顔を上げた。まじまじとシェインを見つめる。
「……何だ?」
 視線に気付いて、シェインが訝しげな顔をした。咄嗟に首を横に振る。
「な、何でも……」
 顔が、赤らむのを感じた。
(――友達)
 使用人、ではなく。
「ほらカエサル。ぼうっとしているのではない!!行くぞッ」
「え、い、行くってどこへ……」
「街の外れにあるダンジョンに、今夢中なのだ」
――ダンジョン!?
「だだだだだめです!!そんな危ないッ……」
「安心しろ、ただの洞窟だ」
「……何だ」
「だが、みんなは『ダンジョン』だと言って、夢中だな。冒険者気分で楽しんでいる。余計なこと、言うなよ」
 取り乱しかけたカエサルに、シェインはひそっと囁いた。そして子供たちの中に駆け出す。
「行くぞッ。今日こそお宝発見だッ」
(お宝発見って……)
 まるでガキ大将だ。
 子供たちの先頭を切って走っていくその後姿を追い、自分の年の半分くらいの子供たちに混ざって街を駆け抜ける羽目になりながらもカエサルは顔が笑っていくのを止めることが出来なかった。
(本当に、目の離せぬご主人様だ)
 築き上げたものは、信頼ある主従の関係なのだと思っていた。
 だがシェインにとっては。
(――友達)
 かけがえのない、存在。




● 5.別れ道 ●

「……ロドリスへ、帰るのか?」
 クライスラー家へ奉公するようになって、1年が経過した。明日にはシェインは、リトリアにあるエルレ・デルファルへと旅立ってしまう。
 魔術師になる為には、幾つかの道筋がある。いきなり誰かに弟子入りするも良いし、私塾で学ぶのも良い。無論、外国へ行かずとも各国にはそれぞれ魔術を指導する学院が備えられている。
 だが、最も有名でエリートコースとされているのがリトリアのエルレ・デルファルだ。やはり由緒正しいお貴族様のご子息は、どれほど破天荒でもエリートコースへと放り込まれるらしい。
「ええ。シェイン様がいなければ、俺はここにいる理由はありません」
 もうひとつの心残りであるエミールは、再来月には結婚して王都レオノーラへと行ってしまう。
「でも、俺は帰って来るんだぞ」
 拗ねたように唇を尖らせるその仕草は、やはりまだ幼い。カエサルは苦笑した。
「ええ、わかっています。……けれど、シェイン様は将来宮廷魔術師となる尊い御身。卒業なさった後も、この屋敷に留まることは、もはやほとんどないでしょう」
「なるかどうかはまだわからぬ」
「シェイン様なら、確かなことです」
「……」
 何か言いたそうに、けれど、言葉を飲み込んでシェインは悔しそうに俯いた。
「あの夜、シェイン様にだけはお話しました。俺の両親のことを」
「……」
「シェイン様に受けたご恩は、カエサルは決して忘れません。お力になれることがあれば、その時は必ず。……何の保証もないカエサルを無心に信じて下さったシェイン様を、裏切ることは決してありません」
「……約束するな」
「必ずです」
 ようやく、駄々をこねるのをやめようとしたシェインに、カエサルは密やかに告げた。
「俺は、ハーディン王城に潜入します」
「……え?」
 意図が読めず、シェインは目を瞬いた。カエサルを見つめる灼熱色の瞳に、困惑が浮かんでいる。
「シェイン様が無事、宮廷魔術師として王城に上がった暁には、俺を利用して下さい」
「……」
 困惑の色が、みるみると切迫したものに変わっていった。やはり、利発な少年だと思う。
「……俺の、間諜になると言うのか」
「俺はハーディン王城に復讐したい。シェイン様の役にも立ちたい。……齟齬は、ないでしょう」
「馬鹿を言うなッ!!」
 シェインが声を荒げた。壁にその、まだ幼さを残した手の平を叩きつける。
「言ってることがわかってるのかッ!?」
「もちろんです。……ロドリスは常に、ヴァルスに、アルトガーデンに対し、火種を胸中に燻らせている。遠くない将来、諍いのひとつも起きるやもしれない」
「そういうことではないッ。間諜と言うのがどれほど危険な任務かわかっているのかと言っている!!」
 間諜は、その役割を十分に果たすには王城の奥深くまで潜入する必要がある。そしてその存在が露見した場合、訪れる結末は悲惨な死だ。裏切り者に対する、周囲の人間の怨嗟は深い。ゆえに、加えられる拷問も凄惨を極めることが多い。
「そんなことを頼めると思うのか!?おぬしを危険に曝すような真似などはッ……」
「俺が、志願するのです」
「よせッ!!」
 尚も制止の声を上げるシェインに、カエサルは静かに首を横に振った。
「利用、して下さい。俺は、有益な情報を可能な限り、あなたにお届けしましょう。……シェイン様が宮廷魔術師になるには、まだ少々お時間がかかります。その間に俺は、少しずつ準備を進めます。王城なんて、いきなり潜入できるもんじゃないですからね」
「そ、そうだぞ。すぐに何とかなると思ったら大間違いだ。そんな無茶なことはやめて……」
 今にも泣きそうだ。カエサルは、余りにも年下過ぎる友人に微笑みかけた。
「幸い、俺はまだ若いです。シェイン様ほどじゃないですけど。……大丈夫です」
「カエサル!!」
「俺は、あなたが思うよりも遥かにあなたから恩を受けている。歪み(ひずみ)掛けた心に、柔らかな日常を返して下さった。……役に立ちたいのです」
「そんな恩返しなど欲しくない!!ならば共にシャインカルクへ上がってくれた方がよっぽど……」
「けれどそれでは、俺の復讐にはなりません」
「……」
 言葉を失って、俯く。柔らかなその髪に、そっと手を伸ばした。
「シェイン様。俺に、名前を下さい」
「……名前?」
「間諜としてのコードネームです。あなたと俺しか、俺の本名とコードネームの2つを知ることはない」
 シェインが悲しい顔を上げた。カエサルを見つめる瞳が潤んでいる。現在の別れを惜しんでいるだけではないだろう。
「……決めたのか」
「決めました。……もう、お会いすることはないやもしれませんけれど」
 ハーディン王城に入り込むことが出来れば、ヴァルス官僚と親しく交流することは出来なくなるだろう。間諜とあれば尚のこと。正体がばれることを防ぐ為には、極力干渉を持ってはならない。
「……カイザー」
「……」
 ぽつり、とシェインが短い間の後に呟いた。『カイザー』とは『皇帝』を意味する。シェインは、見えない帝冠を『英雄』らしい名を持つ年上の友人に授けたのだった。
「それが、俺のコードネームですね」
「……やるからには、決してへまをするな。おぬしの曝し首など見たくはない」
「ええ。俺も曝されるのはゴメンです」
 軽く肩を竦め、カエサル――カイザーは、立ち上がった。手には僅かな荷物。
「立派なお姿を、遠くから密かに拝見させていただきます」
「必ず宮廷魔術師の地位についてみせよう。……おぬしの代わりに、ハーディン王城を討ってくれる」
「仕掛けるようなことはなさらないで下さいね」
 思わず苦笑すると、シェインは鼻の頭に皺を寄せた。
「するか。向こうの火種が燃え上がったら、と言う話だろうが」
「……行きます。お元気で」
「……おぬしもな」


 あれから16年。
 彼の小さな主は、約束通り国を治める最若手の重鎮となった。
 その『立派な姿』を見る機会には未だ恵まれずにいる。
 だが。
(カエサルは、元気です……)
 ハーディン王城には7年前に入り込むことに成功した。以来着実に地位を高めている。少しずつではあるが。
 信念は変わっていない。
 シェインの手足となり、ハーディン王城を討つ。
 全てが終わった時、再びシェインと合い見えることは出来るだろうか。かけがえのない友人に。
(いつの日か)
 
 全てが、終わったら。


                                                         Fin

2006/06/20