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プロローグ 〜一矢〜 誰より好きだと思った。 誰よりそばにいて欲しいと思った。 俺に必要な人――そう思ったから、傷つくのさえ覚悟で気持ちを伝えたんだ。 それは付き合い始めた今だってもちろん変わらないし、この先も同じ気持ちでいられると思ってる。そういうつもりでいる。 女の子は男と違って目に見える表現をして欲しいもんなんだってのも一応はわかってるつもりで、この先も笑顔で隣にいられるように……笑顔で隣にいてくれるように、俺なりに努力をしているつもりもある。 不安になって欲しくないから。 傷ついて欲しくないから。 だから……。 だから、信じててよ。 不安になるなったって無理なのかもしれないけど、でもわかっててよ。 俺にとって、あんた以上に失えないものなんて、何もないんだから。 ◆ 1 そのマンションは、中野区の隅っこの方にある。 七月に入ったばかりでこのところまだ梅雨の名残が残っていたけど、今日は久々に晴れ間が覗いていた。昼下がりの抜けるような青空は、もう夏がそこまで来てることを教えてる。 ケーキが四つ入った箱を片手にタクシーを降りると、あたしの額にはすぐに汗が滲んだ。うー。暑いよぉ。でも海の水はまだ冷たく感じるんだろうな。早く海水浴とか行きたいなあ。 マンションのエントランスからエレベーターで五階まであがる。少し古い造りをしている建物で、オートロックとかでは残念ながらない。 目的の部屋にたどり着いてチャイムを鳴らすと、ドア越しに「へいへーい」と声が聞こえた。それから物音と足音に続いて、ドアが開く。 「お、来やがったな」 「……あたし、帰る」 出会い頭に彼女に向かって言う言葉かっ? むっと上目遣いで睨み上げると、付き合って一ヶ月ちょいの彼氏である一矢が笑った。 「嘘、嘘。いやん、広瀬サンたら怖い顔」 「せっかくSATSUKIのケーキ買って来たのに。きっと一矢の口に入ることはないんだろうなあっ」 むっとしたまま言ってやる。でも一矢はあたしの睨む視線を全く意に介さず、話の流れとも全く関係なく腕を伸ばすと、玄関口に佇んだままのあたしを引き寄せた。おもむろにぎゅーっと抱き締める。 「あー……」 「『あー』?」 「……幸せ」 「……」 あのねえ。 脈絡を持とう、脈絡を。ってかここ、玄関先だし。しかも他人の家の。 そう思いつつも、そんなふうにしみじみと、しかもぎゅーってされたまま言われてちょっと嬉しくなってしまう自分。……はっ。簡単に懐柔されてしまうとこだった。危ない危ない。 「そんなこと言ったって、陥落されてやんないもん」 「ち。家に上げてやんねーぞ」 一矢があたしを解放すると、玄関からすぐのダイニング兼リビングのソファに笑子さんの姿が見えた。こっちの様子には一切興味ナシナシな感じで携帯をいじってる。 「笑子さーん」 この部屋の主である一矢の友達明弘くんことあっきーの彼女さんである笑子さんは、何だか線の細い感じの人。全部が華奢で、真っ茶の長い髪も細くてへにょんってしてて、超イマドキな可愛い人だ。 笑子さんはあたしに応えて、ちょっとだけにこって笑った。だけどすぐにふいっと携帯に視線を戻しちゃう。少し変わってる人だと思う。 「ケーキ、買って来たんだけど。笑子さん、好き?」 一矢を押し退けて中に入ると、エアコンがひんやりと効いていた。狭い部屋をくるんっと見回すとあっきーの姿はどこにもない。一矢と笑子さんだけだったみたいだ。 「あっきーは留守?」 一矢がぶつぶつ言いながらあたしの後ろをついてくる。それから、あたしの質問に答えた。 「学校」 「……はあっ?」 脳天から素っ頓狂な声が出た。 「あっきーってまだ学校行ってんだっけ?」 ケーキと一緒に持参してきた、水で作れるコーヒーのリキッドを取り出す。 勝手にキッチンに入って冷蔵庫のミネラルウォーターで三人分のアイスコーヒーを作りながら、びっくりした。だってあっきーってあたしより一つ上で、浪人も留年もしてないって聞いてるから、普通は卒業してるはず。 「あいつ、大学院」 「……………………」 うわー。脳味噌の出来と性格って関係ないもんなんだ。 「何であっきーってあのキャラで大学院行ってるかな……」 どう考えても渋谷のチンピラなのに。 失礼なことをぶつぶつ言いながらコーヒーを準備してリビングに持って行く。 ただの学生のくせにあっきーはそこそこ広い部屋に住んでいて、2DKある。リビング兼ダイニングの部屋にはちっちゃいソファと折り畳みのローテーブルがあって、テレビとかサイドボードなんかもあって、要するに普段いる空間がここなんだと思うけど、結構綺麗に片付いている。 アイスコーヒーのグラスを受け取りながら、一矢があたしを労った。 「おう。ご苦労」 「……」 労ってないよね、これ。 「あっきーっていつ帰ってくんの?」 「昼過ぎには終わるって言ってたから、もーじきっしょ。笑子さん、どれにする?」 「あっきーが帰って来る前に食べちゃったら可哀想だよ」 テーブルに出しておくと一矢に食べられちゃいそうなので、あたしは目の前から取り上げて冷蔵庫にケーキをしまった。……途端、玄関の方で音がした。 「あ、帰って来た」 リビングで一矢が呟く。笑子さんは僅かな反応すら見せずに携帯。 「おー。紫乃ぶー。来たか。手土産持って来てんだろなっ?」 「持って来ないとうっさいのがいるから持って来たよっ」 何で『家主』と『家主の彼女』と『間借りしている居候』の中で、一番部外者なあたしがキッチンでお茶を準備してるんだろう。 そう思わないでもないけど、仕方なく追加でコーヒーを準備しながら怒鳴り返す。 「だあー。外、暑ぃ。おい、居候。エアコン強くしろ」 何だかあっきーが帰って来ただけで騒々しさが五割増ぐらいした気がする。 『居候』――今日まであっきーの家に転がり込んでいた一矢が、大人しくリモコンに手を伸ばした。 「んで? 紫乃ぶーは何持ってきた? 『黒龍』? 『明鏡止水』?」 「SATSUKIのケーキ」 「お。許せるチョイスだな」 「許されなくていーし。ってゆーか『ぶー』になったわけ? 『ぷー』だったんじゃないの?」 「俺の気分に決まってんだろ、んなもん。つか、どっちだって一緒じゃねぇか。おい、笑子。お前どれ食う?」 「一番高い奴」 相変わらず携帯のディスプレイに視線を落としながら宣う笑子様。すみません、値段は全部一緒です。 「んじゃあ、一矢の追い出しパーティでも始めっかあ。いや、俺と笑子の同棲記念かな」 勝手なことを言いながら冷蔵庫からケーキの箱を取り出したあっきーが、リビングに向かいながらあたしを振り返った。 「紫乃ぶー。俺にも飲み物」 「………………わかってるよっっっ」 *** 五月まで渋谷のマンションに住んでいた一矢は、六月に入ってあっきーの家に転がり込んでいた。 理由としては、まあ引っ越しの連携がいろいろな理由によってうまくいかなかったってことになる。……んだろう、多分。 そんなわけで、引っ越し先のキープはされてるものの引っ越せずに、この七月に入ってようやく引っ越す算段が整った。今日一矢があっきーの部屋を出ると、今度は入れ違いに笑子さんが引っ越して来るって聞いてる。二人は同棲を始めるんだそーだ。 「やっと何か気分的に落ち着いたなあ」 あっきーの家でみんなしてゴハン食べてから、あたしと一矢は新しい部屋の方に来ていた。 前に住んでいたマンションからすれば決して広いとも綺麗とも言えないけれど、あっきーの知り合いが斡旋してくれたと言うアパートは『アパート』と言うのがちょっと申し訳ない程度には小綺麗。三階建てで、一階だけど角部屋だし、男の子なんだし、問題ないでしょ。三軒茶屋と言う場所柄と家賃と考えれば、むしろ上等だと思う。 1Kの部屋の中にはまだ、開けてない段ボールと適当に配置されただけの少ない家具がごろごろしていて。 「いやいや、こんな状態で落ち着いたとか言ってちゃ駄目だから」 「これで心行くまで紫乃とベタベタ出来る」 「あー。やだな、やらしいこと考えてんだ。絶対そうだ」 「考えないような奴、俺は男として認めない」 きゅってあたしを引き寄せて、けらけらと一矢は笑った。そのまま唇を重ねる。 幾度か重ねた後、最後にあたしのほっぺたに軽く口付けて、一矢はもう一度あたしを抱き締めた。 「何か凄ぇなー」 「何?」 あたしもきゅって抱き締め返しながら、一矢の胸に顔を埋めたまんまで聞き返す。聞き返しつつ、背中に回した腕をちょっと上げて、一矢の襟足んトコをいたずら。指先で短くなった毛先をくるくるしてみる。 今月に入って、一矢は長かった髪をすぱっと切った。 今までも後ろに一本にまとめてたから、驚くほど正面図が変わったわけじゃなかったけど、それでもやっぱり短くなったら印象がちょっと違う。 前みたいに軽そうにはあんまり見えなくなった。短い方が、あたしは似合ってると思う。 「紫乃が当たり前に俺の腕ん中にいるのが」 「じゃあ大事にしないとバチが当たるね」 「それはどうか知らんが」 「あたしが当てる」 あたしを抱き締めたまんま憎まれ口を聞いて笑ってるけど、でも、大好きでいてくれてるのがちゃんと伝わって来た。抱き締める腕から、寄せる頬から、触れる唇から。 一矢の気持ちを引き金に始まった、あたしたちの恋。 あたしの失恋の傷ごと引き受けてくれた一矢は、ひねくれたこと言ってても、本当はあたしのこと、とっても好きでいてくれてるんだなあってちゃんと伝わる。 だからあたしは、不安になったりしない。 あたしが一矢を好きなのより、もっとずっと一矢はあたしを好きでいてくれているような気がするから。 「さあて。片付けるよ、神田くんっ」 「きっと後は広瀬サンが適当に何とかしてくれるはず」 「へえ? あたしが何とかしちゃっていーんだ。何見ちゃってもいーんだ」 「良くない理由がわかりませんが」 「……」 まあね。確かにあたしに見られて困るものがあるほど、そもそも物がないんだよね。 あっきーの家に居候をするにあたって、一矢は自分の持ち物をかなり処分したらしい。元々余分な物をほとんど持っていなかった一矢は、それで決定的に必要最低限の所持品しかなくなった。 あたしに見られて困るようなものと言えば、普通は過去の思い出の類になるんだろうけど……。 「んでもさー、卒業アルバムの一つもないって凄いよね。実家にあるわけじゃないんでしょ?」 手近な段ボールを引き寄せながら尋ねると、一矢も床にあぐらをかきながら段ボールを一つ引き寄せた。びりーって雑把にガムテを剥がしながら、ひらひらと片手を振る。 「売ろうって家に個人情報置いておくほど神経太くありましぇん」 「んじゃどうしたのよ」 「捨てた」 「捨てるかな、普通」 一矢の開けた箱は衣類が詰まっているものだったらしい。あたしの方は、どうやら食器。自分で料理が出来る……どころか上手いと言って差し支えのない一矢は、ひとり暮らしの男の子にしては真っ当に食器類を持っている。あたしでさえ持ってないような調理器具とか持ってたりする。 「ん? 携帯、鳴ってんじゃん?」 新聞紙とかでくるまれてる食器をとりあえず床に一つ一つ並べていると、どこかでぶるる、ぶるるって音が聞こえた。あたしの携帯は背後のバッグん中で、明らかに方向が違うから一矢だと思う。 言ってみると、一矢がジーンズのポケットから携帯電話を取り出したところだった。 「携帯って便利だよねー」 だって固定電話って結構権利買うのも高いって昔聞いたことある。 それを設置しなくったって、ずっと安い金額で携帯電話なら手に入るし、それで十分だし。 一人でそんなことを考えてる間に、ディスプレイに視線を落とした一矢が携帯に出……るかと思ったら。 「あっ。切った」 携帯を持った手の親指をぴこんっと上げて、下ろして、携帯を閉じた。 ……。 「いやいや」 「いやいやじゃなく」 そのまま携帯をジーンズのポケットに戻してしまう。こーれーはー、突っ込みたくなるってものでしょう。それとも突っ込み待ち? 「ほほー? ヒロセの前では出られない電話かあ」 「違いますー。違いますが」 「あ、ほらほらほらほら。また鳴ってんじゃん?」 ぶるる、ぶるるって聞こえる。 段ボールから食器を出す手を止めて細ーい目で見ながら意地悪く言ってやると、一矢が「ちくしょー」みたいな顔をして再び携帯を取り出した。それからディスプレイに視線を落として、渋い顔で再び切る。 ほら。ほらほらほら。怪しいでしょ、これ。これは怪しいでしょおー。 「どなた様から?」 にこっと笑顔で首を傾げてあげると、応えて一矢もにこっと微笑んだ。……『にこ』とか笑い返してる状況じゃないし。 「知らない人から」 「知らない人からかかってくるわけないっしょ」 「俺のアドレス帳に登録されていない人からの電話には出ないことに決めておりますので」 「俺のアドレス帳に登録されてないの?」 「名前が表示されないってことはそうでしょう」 どうやら嘘じゃなさそう。 そう思って、あたしは素直に引き下がった。 「ふうーん? でもさ、二回もかかってくるんじゃ何か用事ある人なんじゃないの?」 「さあねえ。まあ、そんな細かいことはお気になさらず……ってまたかよ」 三度目の着信。 やっぱり用事がある人なんじゃないのかなあ。 一矢が『相手がわかって』切っているわけじゃないことがわかったので、大人しく作業に戻ることにする。段ボールに片手を突っ込んだところで、「うるせえなあ」と呟いていた一矢が、思いがけず電話に出た。 「おう。久しぶり」 さっきの二回とは別の人らしい。微かに電話の向こうから、男の子の声が聞こえてくる。 「え? 何が?」 これ、食器は一度全部洗った方が良いよね。新聞紙でくるんでるの、そのまま使うのもやっぱ嫌だし。 あんまりいっぺんだと大変だから、今取り出した分だけ新聞紙を剥いでその場に積んでいく。ここに出した分だけ新聞紙剥がし終えたら、一度キッチンに持って行こう。 「……あー。そうなん?」 片手で携帯を持って話しながら、もう片方の手で段ボールの衣類を床に放り出していた一矢の手が止まる。 食器を積み重ねて立ち上がりかけたあたしは、そんな一矢をちらっと見てキッチンに食器を持って行った。って言ったって、そんなに広い部屋じゃないから洗い場はすぐそこだ。 「あー、そう。えーと……チカちゃん、怒ってんの?」 しまった。良く考えたらまだ食器を洗うスポンジとか洗剤とかないですけど。 遅ればせながらそのことに気がついて、ぎゅっと眉根を寄せる。うー。買ってくるか。後にするか。……後でいっか。段ボールを開けてるうちに出て来るかもしれない、そんな小物たち。 「俺には俺の事情がいろいろとありまして。……え? そう。あれ、何で知ってんの?」 元の場所に戻って段ボールから残りの食器を取り出す。 と、その箱の一番底に、何かノート類みたいなものがあるのが見えた。ノート、じゃないな。アルバム? 良く写真屋さんとかがオマケでつけてくれるような小さい奴。それがなぜか、食器の下に敷かれていた。 「いや、ハセくんのは無事……っと、うわっ」 アルバムを取り出してみるあたしの方を何気なく向いた一矢が、思い切りぎょっとしたように声を上げた。それから、あぐらをかいてるくせして超無理のある姿勢で腕を伸ばす。そのまま、あたしの手の中にあったアルバムを奪取した。 「……」 「いや、ごめん、何でもない。ちょっとこっちのこと。えーと、何だっけ」 ちょっとお。今の、何さ。 むうっと睨みつけるあたしに、片手でごめんごめんと言う仕草をしながら電話に戻った一矢は、そのままさりげなーく……全然さりげなくないけど、さりげなーく自分の後ろにアルバムを置いた。 「つか、まあそんな感じで今取り込み中ってことで。チカちゃんにはハセくんから謝っておいてくらさい。……うん、わかった。んじゃまた今度」 じとーっとした目で見ているあたしを見返したままで通話を終え、携帯をしまいながら一矢が「いや、どうも」と言った。意味わかんないです。 「どうもじゃなく」 「えーと、まあこれは、あれですよ」 「あれってどれですか」 「怪しくないよ? 別に」 普通に怪しいですけど。 きちんと一矢の向かいに正座して目を逸らさないあたしから、一矢の方が先に目を逸らした。そろーっと視線を泳がせて、愛想笑いと共に視線が戻ってくる。 「まあ、何つーか」 「あたしに見られて困るもの、なくないじゃん」 「いや、困りません。困りませんよ? 困らないんですけど」 「三回も繰り返すってことは困るんだ」 「困らないってば。でもまあ、ほら」 「……」 ま、いっけどさ。 過去は誰にでもあるもんだし。あたしだってそうだし。新しい恋愛を始めたら過去は捨てなきゃなんないってもんでもないし。 思い出は大事。 今の自分を、今の彼を作ってるから。 過去が、これからの未来にヒビを入れるようじゃあ困るけど。 それに……。 「んじゃあ、あたしの目の届かないとこに置いておきなよー」 隠されれば気にならないわけじゃない。 けど、気にしない。 だってあたしは、一矢があたしのことを大好きでいてくれていることを知ってるから。だから、不安なんて感じないから。 あぐらを崩したような座り方をしている一矢の膝をぺしぺしと叩くと、苦笑いをしながら、一矢が「降参」するように両手を上げた。 「まあ、ホント、やましいわけではないので気にしないでくれるとありがたいです」 それから一矢は、苦笑混じりにあたしの頭を撫でた。そのまま、またぎゅーって抱き寄せる。 「俺は本当に今、紫乃がこうしてここにいてくれるのが一番幸せだから」 ◆ 2 窓からこぼれる朝日の眩しさに、少しずつ意識が浮上する。 夢現のまま目を開けて、すぐそこに一矢の寝顔を見つけたあたしは、その無邪気な姿に一人で小さく笑った。 起きてる時は、邪気だらけのくせにね。寝顔は可愛かったりする。 目を細めて、あたしは一矢の寝顔を眺めた。微かな寝息。指を伸ばして前髪をそっと摘んでみるけど、一矢は完全に寝こけていて気がつかない。いたずらし放題。 ホント、静かに眠るんだよね。まるで死んでるみたいで、時々ちょっと怖くなって温もりを確かめたくなる。鼓動に耳を寄せたくなる。 寝息も、良く聞かないとしてるんだかしてないんだか良くわからない。無心な、静かな寝顔だけは本当に無邪気。 ……この人が、今のあたしの、大切なひと。 意地が悪くて、口が悪くて、態度も悪くて、甘えたがりで寂しがりで。 だけどあたしを大事に思ってくれて、必要としてくれて、気が合って、楽しくて……『あたし』を見せられる。 他の人のことを想っていた過去すらも受け止めてくれる、あたしにはとてもとても大切な人。 こてん、とその胸におでこを寄せる。体温が伝わる。鼓動が聞こえる。 (わぉ) 意識ないくせに、一矢の片手があたしを抱き寄せた。もちろんぎゅっとじゃないけど、優しくそっと。 それが、何だか妙に嬉しかったり。 寝てる時は全然動かないくせして、あたしに反応して抱き寄せてくれたりする。それだけのことが凄く嬉しい。 好きになっていく。 少しずつ少しずつ、だけど確実に――近くにいるほどに好きになる。 子供みたいなとこも、大人ぶるとこも、抱えた傷も、ため息も。 同じ目線で夢を語れる君が好き。 同じ高さで笑い合えるあなたが良い。 知るたびに深まっていく気持ちが好き。 知るたびに深まっていく気持ちが嬉しい。 聞こえる鼓動――あなたが今、ここにいる。 君のそばに、あたしがいる。 大切にしていくからね。 大切に、していこうね。 来週になると、あたしは誕生日を迎える。一矢と過ごす初めての誕生日。 忙しいのわかってるから、ずっと一緒にいたいなんて言わない。特別なことなんて何もなくたって良い。 だけど……。 「一緒にいてね」 少しだけで良いから。一時間でも二時間でも良いから。 「おめでとう」の言葉を、最初に聞きたいよ。 *** 「あ、そーだ」 渋谷のスタジオで一日曲作りに励んだその日、メンバーのカンちゃんに送ってもらう道中で、あたしは一矢が今日バイトに入っていることを思い出した。 一矢はあたしと同じでミュージシャンだけど、自分でバイトをやっていたりもする。 ちょっと顔を覗かせて行こう。 バイトは明け方までやってるから一緒に帰るとかは出来ないけど、ちょっと話せるだけでも良いし。それに、今週いつ会えるかな。あたしの誕生日の日、少しでも会える時間ないかなあ。ってゆーか、覚えてるかな……。 カンちゃんの車を途中で降りると、あたしは大通り沿いに一矢のバイトしているレンタルショップに向かって歩き出した。渋谷とは言え繁華街からは離れているからそんなにゴミゴミしてないけど、この時間でも完全に人気が絶えることもない。 (驚くかな) 別に驚かないか。ちゃんと働いてるかな。 確か深夜に休憩時間があるはずだから、差し入れを買って行ってあげよう。 そう思いついて、途中にあるコンビニの前で足を止める。 誰かに何かを買って行ってあげるのは、選ぶのが楽しい。もらう人の喜ぶ顔は、思い浮かべるだけで嬉しくなる。 (何買ってこーかなー) コンビニだけどね。 食べ物? 飲み物? 煙草とか? 甘いものにしようか。一矢は結構甘いの好き。でも深夜だしな。 考えながらコンビニに入ろうとして、ちょうど出て来た女の子とすれ違った。 派手と言えば派手なタイプで、くるんくるんのきんきらきんのお嬢様ヘアを高い位置でアップにまとめてる。くっきりと黒いアイライナーと付け睫毛全開のバチバチした大きな目。凹凸のはっきりした体つきと胸の谷間を強調するようなキャミワンピに、ほっそいピンヒール。 「わ」 よそ見をしていたのか、彼女は避けようと言う素振りなくぶつかって来た。その衝撃で一瞬よろけたあたしの手から、携帯が落ちる。彼女はそんなあたしをちらっと見たけど、興味なさそうな目付きだけを見せて無言でそのまま出て行った。 (ちょっとおっ) ごめんなさいとかっ! (い、いやいやいや……落ち着こう) まあまあまあ。 ぶつかったことに気がつかなかっただけかもしれないし。 幸せいっぱいのあたしは、そんなつまらないことで怒ったりはしない。うん。怒らない怒らない。ってか怒ってもあたしが疲れるだけで。 しゃがんで携帯を拾うと、改めてコンビニに入ってゆっくりと品物を眺めていく。こういうのは気分を切り替えたもん勝ちだと思う。 でも……全身から『女っ!』って言う香りが匂い立ってる感じのコだったなあ。男の子に甘えるのとか、上手そう。 それは、ちょっとしたコンプレックスと……一抹の憧れにも近かったりする。 あたしは昔っから「もっと女らしくしろよー」とか言われて、男の子にも男友達みたいに扱われることが多くて。 あたし自身も男の子に甘えたりするのはあんまり得意じゃなかったし、どっちかと言うと女の子には甘く優しく、男の子には厳しくみたいになりがちだから……何か、あーゆーコって男の子から見ると可愛いんだろうなあとか。 ……ま、あたしはあたしなんだけどさ。 そう思いながらお茶のペットボトルとお菓子、それから一矢が吸っている煙草を買うとコンビニを出た。レンタルショップまでは、ここからすぐだ。 時間はもうすぐ零時ってところ。電車なくなっちゃうかも。でもタクシーで帰れない距離じゃないし。 ショップに入ると、レジカウンターにはぬぼーっとした男の子が一人で立っていた。一矢はいない。どっかその辺の棚でも整理してんのかな。 (あ、新譜出てたんだー) 以前イベントで対バンしたことのある男の子たちのニューアルバムを見つけて眺めたりしつつ、一矢を探して店内を歩く。お客の姿はちらほらってところ。みんな一人客みたいで、黙々とディスクケースを手にしている。 「いたっ……」 一矢は、DVDの並んだ棚と棚の一番奥にいた。返却されてきたDVDを棚に戻してるらしい。 その横顔を確認したあたしは、わざと一列隣の通路から一矢のいる方向へ向かった。だってこっちから行ったらばればれ過ぎて面白くない。 後ろからツンっていきなりやったら、びっくりする……。 「……だーかーら、ごめんーって」 棚を挟んで通路の向こうに一矢ってとこまで近づいて、一矢の声が聞こえて来た。それを聞いてきょとーんと足を止める。 独り言にしては、豪快。ってゆーかそんな店員嫌だ。 「もおっ。嫌われちゃったのかなあって思ったじゃないっ」 一矢の言葉に応えて女の子の声が聞こえる。長身の一矢の陰に隠れて見えなかったらしい。誰かいたんだ。 別に気にすることはない……と思いはするものの、その、鼻にかかった甘えた声に、気が引けた。 「やーだなー。俺がチカちゃんを嫌いになるわけがないっしょー?」 答える一矢の声が、躊躇に拍車をかける。 『チカちゃん』……? 何だか最近その名前をどこかで聞いた気がして、あたしは記憶を探した。 そうだ。引越しをした日、一矢が電話の相手に向かって言った言葉の中に出て来たんだ。 (じゃあ、この前の電話の相手って) 『チカちゃん』のお友達? 一矢の答えを聞いた女の子が、きゃはははっと可愛らしい女の子らしい甘えた笑い声を上げた。 「そうだよねー。ねえ、バイト、何時までなのぉ?」 「えーとね、朝の五時までだったりしますが」 「うっそぉー。まじでぇ?」 「はい」 「えー……」 ちょっと俯いて微かに唇を尖らせる可愛い仕草が想像できるような、そんな甘えた不満の声。 それからチカちゃんは小さく小さく、こう言った。 「ねえ、ばっくれて脱け出しちゃおーよ」 (なっ?) うわ、びっくりした。何? それって何の誘い? 遊びに行こうってこと? 何で一矢がバイトを脱け出してチカちゃんと遊ばなきゃなんないわけ? むっとしながらもその場から動けないで入るあたしの耳に、一矢が「はは……」と困ったように笑うのが聞こえた。 「そーれーはー……俺もほら、生活かかってますんで。ハセくんに聞いてない? 俺、引っ越してさあ」 「あ、うんー。聞いたー。今度はドコ住んでるのぉ?」 「三茶」 「あ、あたし用賀だから超近いじゃん」 だから何なのさー……。 聞きたくないけど、気になって聞かずにいられない。立ち竦んだまま、あたしは見えないチカちゃんに敵対心が湧くのを感じた。 で、でも! ただの友達かもしんないし! 「とほほな経済状況なのれ、貧乏人はあくせく働かなければならないのですわ」 「あたしが奢ってあげるのにぃ」 「家賃?」 「あたしのお財布に頼んであげよっかあ」 『お財布』は頼みを受け入れてくれるもんなの? それともそれは、『お財布な人間』を差してるの? 何となく頭痛がしてくる。と同時に、何してんだかあたし、と思う。んで更に何してんだ一矢、と思う。 「とりあえず気持ちだけで」 隣の通路で唇を尖らせているあたしに気づくはずもなく、カタカタと小さな物音と共に一矢の声が聞こえてくる。一応店員さんとしては、お片づけ作業は続行しているらしい。 「んー。じゃあ今日はいいや。ねえ、今度いつクラブ来んのぉ?」 「うーん。いつ行けるかなあ。しばらく行けないかも」 「えー。遊ぼぉよぉ。一矢いないとつまんないよぉ」 「おっと。嬉しいこと言ってくれますな」 「ホントだもーん。あ、クラブ行けないんだったらさぁ」 「うん」 「あたしん家に遊びにおいでよぉ。今、三茶なら近いんだしさぁ」 「はは」 「一矢なら入れたげるぅ」 (ちょっとおっ!) 鼻にかかった甘ったれた声に、あたしは唇をきゅっと噛んだ。 どーゆーカンケーなのよっ? (お、落ち着け落ち着け……) で、でも別に、一矢はあたしのこと好きでいてくれてるって知ってるもん。だから本当は妬く理由なんかないはずだもん。 だけどさ、だけどさ、だけど……やっぱり、他の女の子に甘ったれられてるの聞いてたら、嫌。 ……どういう知り合いなんだろ。 「だからぁ、今度はあたしからの電話、出てよねぇ」 今し方まで機嫌良さそうにきゃはは言ってた声に、ちょこっと拗ねるような色が滲む。責めるような声音にも甘えが滲み出ていて、あたしは小さくため息をついた。 「あー……そうれすねえ……。ごめんね」 もう。一矢も一矢だよ。なーんか優しい感じ。 そりゃ、人に優しいのは悪いことじゃないよ? だけどさ……もっとビシっとしなよ、ビシっと! 段々一矢の対応にもイライラしてると、チカちゃんが拗ねた口調のまんまで続けた。 「この前かけた番号だからぁ、登録し直しておいてよね。もう、消しちゃヤだよ」 え? 消した? 「あー、うんー、まあでもさ……」 一矢が口篭る。チカちゃんは続きを待つように少し黙り、一矢が困ったように続きを口にした。 「ほら、俺、彼女さん出来ましたので。ハセくんに聞いたでしょ?」 あたし? 一矢の言葉に目を瞬く。あたしと付き合うことになって……それで、女の子の連絡先、消したの? チカちゃんが反論するように口を開く。 「そんなん、理由になんなくない? 消せって言われたわけぇ? うざくなーい? そういう女」 「いや、言われたわけじゃないんですが」 「じゃあ自分でぇ? 彼女出来たって別に女友達の連絡先とか、普通にアリでしょぉ?」 うん。 なぜかあたしがチカちゃんの言葉に頷く。 別に女の子の友達がいたって普通だし、あたしだってそんなん……。 「そうだけどさ」 一矢が少し曖昧な言い方で吐息をついた。 「そうだけど、『女友達』にもよるんじゃない?」 あ……。 その言葉で、一矢と付き合い始めてから感じたことのなかった不安が、少しだけ胸の内に忍び寄る。 一矢が前に遊んだりしてた女の子の一人なんだ――そう、気がついた。気がついて、心臓がどくんと音を立てた。 (別に、知ってたもん……) あたしと付き合う前、ふらふらふらふらと遊んでたような奴だってことは。それは知ってる。本人の口からも前に聞いてる。「俺はいろんな女の子と遊ぶよ」って言ってたのは確かで、その『遊ぶ』の意味がどういうことなのかってことも、あたしはわかってるつもり。 その上で好きになったし、付き合い始めたんだ。前はそうだったかもしれないけど、今は違うって知ってる。 知ってるつもりだけど……。 (じゃあ……) ずきんずきんって心臓が痛い音を立てて速くなる。 ……じゃあ、チカちゃんともきっと寝たことが、あるんだ。 胸の内で聞こえた自分の声が、思いがけないほど深く痛く突き刺さった。 「別に言わなきゃバレないじゃん、そんなん」 「それはそうかもしれないけど」 「大体、彼女とかカンケーなくない?」 「こらこら」 「別に結婚してるわけじゃあるまいし。ってか結婚してたって別に関係ないしぃ。『毎日カレー食べとけ』って言ってるよーなもんでしょ。そんなの、普通に無理じゃない」 わかってても、そこにそういう相手が今いるのが、かつてそういう関係にあった人と今一矢が話してるのが、凄く嫌だった。 過去なんて気にしてたらきりがない。知ってる。あたしだってそういう意味では人のことは言えなくて、元カレと一緒にバンドで仕事してたりするし、それを気にしてなんて欲しくない。 それに今しきりと誘ってるのは彼女の方で、一矢の方は一応柔らかいとは言えお断りの姿勢を見せてるわけで。 うん、わかってる。前にそうだったとしても過去は取り消せないし、あたしと出会う前の出来事だし、気にしても仕方がない。 だけど、だけどさ、だけど……。 (か、帰ろうかな……) 今一矢と話しても、笑顔が引きつっちゃいそう。 楽しい気分で会いに来たのに、しゅるるって気持ちがすっかり萎んだ。 「一矢さぁ、面倒臭くない? そーゆーの。彼女に悪いとかって遊ぶのやめたりとかさぁ。似合わないよ」 ……。 「はは。似合わないですか」 「似合わない。どうせすぐ遊びたくなるんだから」 「今のところそんな予定はなく」 「もういーじゃん。もう何ヶ月とかあたしと遊んでないじゃん」 「まあまあ、チカちゃんだったら、俺なんかよりもっとイイ男が遊んでくれるっしょ」 駄々をこねるようなチカちゃんは、何だか凄く甘ったるい可愛い拗ね方をしていた。言外に「構ってよぉ」って匂わせるような話し方。 一矢も苦笑い混じりみたいに優しーく断わるもんだから、何だかカップルの痴話喧嘩でも聞いてるみたいだよっ……。 「ふーんだ。そうかもねぇーだ」 「怒んないで下さい」 「怒んないよ。もういい。あたし、帰る」 「わざわざ来てくれたのに、ごめんね。送ってあげたいとこですが、バイト中の身なので」 「いーよ、もう」 「気をつけてね」 ようやくチカちゃんが一矢のそばを離れる気配がした。何気なく出入り口の方に視線を向けて、チカちゃんらしき人が出て行くのが見えた。さっきコンビニでぶつかったコだ。 あのコ、一矢に会いに来たコだったん……。 「何してんだか」 「ふぎゃっ」 ぼーっとチカちゃんを見送っていると、真横から声がいきなり聞こえてびっくりした。同時に、ぱかんっと頭を叩かれる。 「立ち聞きは趣味が悪いですなあ」 手にしたDVDを別の棚にしまう為に移動しようとして、ぼけっと突っ立ってるあたしに気がついたらしい。一矢が呆れたような、どこかむっとしてるような顔つきでそっぽを向いたまま言う。 「うん……趣味悪いね。ごめんね」 事実なので素直に謝罪した。一矢が横目でちらっとあたしを見る。 今し方チカちゃんに向けていた柔らかい態度と全然違って尖った感じで、何だかあたしは少し寂しくなった。凄く、ポツンとした気分になった。 「……誰?」 「別に……」 尋ねたあたしに、どこかそっけなく答える。その態度に、胸の内にもやもやしたものを抱えていたあたしはきゅっと唇を噛んだ。 チカちゃんにはあんなに優しく答えるのに? あたしには、そうなわけ? 「何でそーゆー態度かな」 黙って棚にDVDを戻していく横顔を睨み上げる。一矢がこっちを向いた。あたしは更に続けた。 「可愛い女の子にはあーゆー優しい言い方すんのに」 「はあ? 何言ってんのあんた」 「何かあったコなんだ」 いけない。ここは一矢のバイト先で、そんなトコで喧嘩なんてしちゃったら一矢にだって立場ってものがあるのに。わかってるけど、キツい口調が止めらんなくなった。必要以上に一矢に甘える女の子に、優しくする一矢にイライラして、悔しくって……。 「前に何かあったコだから、あーゆーふうに優しくすんだ」 ……これって、ヤキモチだ。 あたしの言葉に、一矢の方もむっとしたような表情を浮かべた。 「何ですか、それ」 「そうでしょ。そういうカンケーのコなんでしょ。今もこうやって会ってんだ」 あたし、凄く嫌なこと言ってる。 自分でそんなこと、わかってた。 過去は過去。何をしてたとしたって、今は今。それに、チカちゃんが一方的に会いに来たんだってことくらい、さっきの会話聞いていればわかる。 わかってるのにこんなことを言ってるのは、ただの言いがかりだ。 なのに、もやもやした感情が膨らんで、自分でも口が止められなかった。 一矢が呆れたような顔をした。 「本気で言ってんの? それ」 「……」 「あ、そ」 ふうっと深い吐息をついて、それっきり一矢はDVDを棚に戻す作業に戻ってしまった。その横顔に、あたしはまた一層悲しくなった。 言い返してよ。 ねえ、何で言い返してくれないの? 「あ」 不意に一矢がレジの方に視線を向けて小さく呟く。あたしもつられてそっちを見ると、レジカウンターの前には何人か列を作るように並び始めているところだった。 「お前、今から帰んの?」 あたしを置いてそっちに歩き出しかけた一矢が、やっぱり……って感じで一旦足を止めて、ちらっとあたしを振り返る。 「……うん」 お客さんがいなくなるまで待ってたって全然構わないのに、何だか一矢のその言葉は「帰れ」って言われているような気がした。帰らなきゃいけないような気がした。 「武藤か神崎に迎えに来てもらえよ。俺は送ってやるわけにいかんので」 顔を背けて頷くあたしに、一矢もレジの方に気を取られたまま、早口で言う。それから一瞬だけぞんざいにくしゃってあたしの頭を撫でて、レジの方に向かって歩き出す。 「んじゃ気をつけて」 「……うん」 会いに来たのに。次いつ会えるか、聞きたかったのに。 少しでも笑顔で話せたら、それで良かったのに。 渡せなかった差し入れは、片手に持ったままだった。 ◆ 3 朝起きた時とか。 仕事のちょっとした隙間の時間とか。 家で時間がある時とか。 夜寝る前とか。 そばにいない時は、いっつも心のどこかで連絡を待っているような気がする。心の片隅で、ずっと姿を探しているような気がする。 会えない日とかでも一矢は必ずメールとか電話とかくれたりするから、付き合い始めてからあたしは寂しい思いとかしたことがなくて。 ……なかった、けど。 ここ三日、一矢からの連絡を受けずにいるあたしの携帯は、何だか少し色あせて見える。 ―― 一矢さぁ、面倒臭くない? 今まで誰に気兼ねすることなく、チカちゃんみたいな女の子と遊んだりしていた一矢。 あたしのこと好きだって思ってくれるようになってから、そういうことしてないって前に聞いてる。 ねえ、でもさ、本当は面倒臭いかな? 今まで誰を気にすることなく好きなようにしてたんだから、あたしに悪いとか考えるようになったりするの、面倒? ――どうせすぐ遊びたくなるんだから そうなのかな。前にずっとそういうふうにやってきたんだったら、また前みたいに遊びたいと思うようになる? チカちゃんみたいなコと遊び回ったりしたいとか思うようになったりするのかな? 「馬鹿」 付き合い始めて一ヵ月半。 そろそろテンション落ちてきてる? チカちゃんに誘われたりして、そういう生活に戻りたくなったりしないよね? そう言えばこの前アルバム隠したりとか……あの日、少しそっけなく見えたりとか。 (やだなやだな) 怒ってるの? それとも呆れてるの? 面倒臭くなってるの? メールが来ないのは、他の人と遊びたくなったとかそういうんじゃないよね? どうしてるのかな……。 *** 七月十八日。 あたしがヴォーカルをやっているD.N.Aの衣装提供をしてくれるアパレルメーカーさんの話があって、その日あたしは一人で事務所を訪れていた。 お話を終えてロビーで煙草を咥えていると、二階から一矢のバンドのヴォーカルくんが降りてきた。啓一郎くん。 「あ。広瀬、久しぶりじゃん」 「久しぶりだっけ」 「五月以来じゃない? あ、違うか。あれ、六月だっけか」 あたしといつ会ったか、ぶつぶつと記憶を掘り起こしながら啓一郎くんが階段を下り切る。そのまま何も言わずにぼすんと向かいのソファに腰を下ろした。眠そう。 「眠そうだね。忙しいの? クロス」 「んー? や、どうなの?」 「いや……あたしに聞かれても」 あんたんトコのことでしょが。 呆れつつ、煙草を指に挟んだままであたしもぼすんと背もたれに深く寄りかかった。寄りかかりながら、啓一郎くんをちらーっと見る。 一矢も、上にいるのかな。 いないのかな。 「啓一郎くん、上で何してたの?」 「寝てた」 「ごめん。ここで寝なきゃなんない理由がわかんないらしいよ、あたし」 「バイト明けでぇー、あと三十分後に和希とここで待ち合わせてっからぁー」 あくび混じりの間延びした回答を聞いて、悪いけどちょっとがっかりする。それじゃあ一矢はいないんだな。 (怒ってんのかな) 三日。 やだな、あたし、少し不安になってる。夜に一人で鳴らない携帯を睨んでいると、嫌な想像が頭を掠めたりする。あの日見たチカちゃんの姿が脳裏に横切ったりする。 まさか、なんて。 「……死んでんのかな」 唐突にぼそっとそんなことを呟くあたしに、眠そうに目を閉じていた啓一郎くんが薄く目を開けた。 「何が?」 「やー、こっちのことですぅー……独り言とゆーことで受け流して下さ……」 「一矢?」 「……」 わかってんなら聞かないでっ。 むうっとタコみたいな口をしてやると、啓一郎くんはちょっと意地悪な顔でにやーっと笑った。うわ、感じ悪いです、この人。 「うまくいってんでしょ」 よいしょとソファの上で体を起こして、啓一郎くんは両手をポケットに突っ込んだ。 「何か言ってた?」 「んにゃ。逆。何も言ってないから、そうなんだろなと思ってるだけ」 「そういうもん?」 「そういうもんじゃねーの? いちいち言わねーだろ普通」 男の子同士だと、あんまし彼女とどーとかこうとかって話、しないのかもしんない。 でもね、啓一郎くん。今、喧嘩してるんだよ。ってゆーか、嫌な感じでばいばいしたまんまになってて……。 怒ってんのかなとか、呆れちゃったのかなとか、でもあたしだってあんなん聞いたらむかつきもするのわかってよとか、頭の中でぐるぐるしてて。 ……あたしの知らないところで、また、チカちゃんから電話が来てたりするのかなとか。 「クロスの仕事で、一矢に会ったりしてる?」 「うん」 「元気?」 「うん」 「……」 「……何だよそれ」 それきり黙るあたしに、今度は啓一郎くんが呆れたような表情を浮かべた。無言のまま灰皿に煙草を放り込んで、あたしはしみじみとため息をついた。 「クロス、ここんトコ何してんの」 「ここんトコって?」 「この三日くらい」 あたしと一矢が音信不通な間。 「えーとねー……こないだはー、アー写撮りがあってー……あとはここ二日くらいリズム録りしてんよ。麻布のスタジオで」 「リズム録り?」 ってことは、一矢は録りだ。 それを聞いて、ちょっとだけほっとする。仕事で忙しくしてんのかな。 「啓一郎くんって、彼女さんとどのくらい連絡取り合ったりすんの?」 「はあ? 今度は何の話だよ」 ぽんぽんと話題の飛んでいるあたしに、啓一郎くんは眉を八の字みたいな変な形にしながら立ち上がった。禁煙してるって聞いたから、落ち着かないのかもしんない。お財布を取り出しつつ自販機に向かう。 「オレンジジュース?」 「えーと、それはやめて、コーヒーで」 「ほうほう」 何やら含みのある返事をしながら硬貨を押し込む。ゴトンと重たい音がして、コーヒーの缶を取り出した啓一郎くんがそのままこっちに一本放った。 「ありがと」 「彼女と連絡? 別に考えてねーなあ、俺」 「啓一郎くんってマメじゃなさそうだよね」 「うるせえよ」 顰め面で髪をくしゃくしゃと掻き混ぜてこっちに戻って来ると、啓一郎くんはまた元の位置にすとんと座り込んだ。 「ひどい時は二週間まるまる音沙汰なかったこともあるけどー」 「うわ。最低」 「うるせえっての! でも普段は別に、二日とか三日とかで何らかの連絡は取ってんじゃないの? メールとかでもいんでしょ、この話」 「うん」 二週間か。二週間はひどいな。でも、それもありうるんだ。啓一郎くんの場合。ってか、基本的に二日か三日とかなんだ。 「一矢はんなことねぇだろ。あいつ、そーゆートコはマメだかんなー」 啓一郎くんは組んだ自分の膝に頬杖をついて片手の缶コーヒーをカチンと開けた。 「うー」 「何だよ。『うー』って」 「いや、何でもないです」 啓一郎くんにもっと一矢のことを聞いてみたい気もしたけど、聞いてみてもきっと男の子同士だからわかんないかもしれない。そう思えば、言葉を飲み込む。 たった三日間。 だけど長い三日間。 あの日から、何だかちょっと不安になったよ。 具体的に何が不安なのかは良くわからない。だけど、「一矢はあたしのこと好きなんだ」と思えてた気持ちが、しゅるんって小さくなってる。 あたしが思ってたほど、あたしのこと好きじゃなかったりするのかな。 胸の内に小さな水泡みたいに立ち昇ってくる不安の泡。 もしかして……。 ……もしかして、付き合い始めてみたら好きじゃなくなってきちゃったりしてるのかな。 *** 「あー、買った買った。もう向こう二週間くらいはカップラー生活しなきゃなんないくらいたくさん買った」 啓一郎くんと別れて事務所を出たあたしは、その足でそのまま下北沢に向かった。待ち合わせをしていた友達の琴子ちゃんと一緒にお買い物を堪能して、ちょっと疲れたところでカフェに入る。 今日は平日のはずだけど、それでも通りは結構混んでる。エアコンのがんがんに効いたカフェの窓際に陣取って、ティスカッシュとアイスコーヒーをそれぞれオーダーすると、琴子ちゃんはオッサンみたいに踏ん反り返った。 「さっきのキャミワンピ、めっちゃ可愛いね。編み編みサンダルと合わせたら、むっちゃイイ感じです」 「でっしょ! 良かったぁ、まだあって。絶対次のクロスのライブには着てくんだ」 「次って、サマフェス? 足首の骨折りそうだからやめた方が良いと思うですけど」 スタンディングのライブで、キャミワンピと上げ底のサンダルなんて、ほとんど自殺行為で殺傷行為だと思う。自分にも周囲にもろくなことがない。 想像して冷や汗をかきつつ琴子ちゃんに進言していると、ウェイトレスさんがドリンクを運んで来てくれた。 「女は、例えそれが原因で死ぬことになるとしてもファッションに命を懸けるのよっ」 「いや、死ぬくらいならやめた方が良いと思う」 「ふっふっふ。これでついに啓一郎があたしに振り向く日も間近ねっ」 「……命がけなんだね」 琴子ちゃんは熱烈な啓一郎くんのファンで、だけどただのファンでもなくて、友達でもある。 一矢と昔一緒にバンドを組んでた世良くんって言う人がいて、世良くんと中学時代の同級生だった琴子ちゃんはその辺の流れで高校時代からずっと追っかけてるらしい。 あたしと琴子ちゃんが知り合って友達になったのも、そもそもクロスのライブがきっかけだった。 琴子ちゃんは啓一郎くん本人とも直接知り合いだし、本人も琴子ちゃんがファンやってるって知ってるし、ものすっごいサバサバしてるコだから別に迷惑とかってこともないみたいだし、『ファンが友達になった』と言うよりは多分『友達がファンな顔して遊んでる』が正しいと思う。 啓一郎くんには今彼女さんがいるって聞いてるけど、それについては本人に「あたしを差し置いて彼女作るとは太ぇ根性だっ」とお代官様のように足蹴にしたと聞いている。そんな感じ。 なので、どうしてもその格好を啓一郎くんに見せたいんだったら、わざわざライブじゃなくて本人に直接見せに行けば良いじゃんとか思う。 「にしてもお腹空いてきたな。ね、何か食べようよ、ケーキとか」 「ん。そうだね」 再びメニューを覗き込んでそれぞれケーキを追加オーダーすると、ちょっとだけ後悔した。太るかなあ。 「紫乃、何だか少し元気ない顔してない?」 やっぱりもう少しカロリーが低そうなプリン・ア・ラ・モードとかにすれば良かったとか胸の内でうんうん唸っていると、琴子ちゃんがあたしを覗き込むようにしてそう宣った。 「え? いや、ケーキよりプリンの方が良かったかな……」 「一矢が何か悩ませてんの?」 「……」 いや、プリン……。 「悩んでるってほどじゃないですけど」 「うまくいってんでしょ?」 「……ちょっと今喧嘩っぽいかなーとか」 「喧嘩ぁ? また一矢がどうせ悪さしたんでしょ」 「はは……」 そういうわけじゃないんだけどさ。 そういうわけじゃない、と思うんだけどさ……。 追加注文のケーキが運ばれて来て、フォークを取り上げる琴子ちゃんにつられて、あたしもフォークに手を伸ばす。 「一矢ってさ」 「うん」 「前は、どんなふうだったの?」 あたしは話に聞いているだけで、実際一矢がどんな生活をしていたのかは良く知らない。知りたいの半分、知りたくないの半分で恐る恐る聞いてみると、琴子ちゃんが顰め面をした。そんな顔されると聞くのが怖くなるですけど。 「えー? どうって……まあ、過去は過去でしょ?」 曖昧に濁されると何だか凄く嫌だ。 むーっと琴子ちゃんを見据えるけど、琴子ちゃんはカエルのツラに何とかって感じでフォークをひらひらと振った。 「聞いたってしょーがないじゃん、そんなの」 「それはそうだけど」 「別に今遊んでるわけじゃあるまいし。それとも何かあんの?」 尋ねられて、あたしはため息をついた。 ため息をついて、先日の出来事を話し始めた。 具体的に何がどうってほどじゃない。別に一矢がチカちゃんを口説いていたわけじゃなし、むしろお断りしてたのは確かに聞いてる。 だけど何か不安で、何か怖くって、何……。 「紫乃、ちゃんと一矢のこと、好きになってんだね」 一矢の方があたしのことを好きでいてくれてるような気がしてた。だって、始まりは一矢だったから。 だけどあたしの気持ちが、前よりもっとずっと強くなって。 それで。 ……それで、逆に、一矢は? 「一矢があたしのことを好きって言ってくれて、それで付き合い始めて……」 「うん」 もしかして、付き合い始めてみたらがっかりしちゃった? あたし、思ってたのと違った? 付き合い始めたら付き合う前より好きになってるのは、あたしだけだった? 「あたしはその気持ちは信じてたし、信じてるし、好きでいてくれてるんだろうなあって思ってて」 あたし、この前までは自信あったの。 一矢がちゃんとあたしのこと好きでいてくれてるって思ってた。あたしが好きなのより、一矢の方があたしのこと好きだって思えた。そんな気がした。 だけど、そんな自信ってこんな簡単に消えちゃうもんなんだ。 だって確かな根拠なんてどこにもない自信だから。 一矢がそう信じ込ませてくれていただけで、目に見えるものなんて本当は何もなくて、だから一矢がふいって手を引くと急に自信なんか全部どこかに行ってしまう。怖くなる。不安になる。……そして、知らない間に自分がどれだけ好きになっているのかを知る羽目になる。 「怒ってるのかな……」 口にしてみると泣きたい気がした。 「だけど、だけどあたしだって、嫌だったよ。そりゃ立ち聞きしたのは悪かったけど、だけど……」 「うん」 「あんなふうに『遊び相手だったコ』に話すの聞いてて、嫌だったよ……」 うー、泣きたい。 一矢がこのまま怒ってどっか行っちゃうんじゃないかって想像が、あたしを泣きたい気分にさせてるんだ。 「だったらさ」 琴子ちゃんが向かいから腕を伸ばして、あたしの頭をポンポンと軽く叩いた。 「自分からメールしてみなよ、とりあえず。あいつ、紫乃には甘えてんじゃないの?」 「え?」 「だって自分が悪かろうが悪くなかろうが、面倒だからとりあえずさっさと折れちゃえってタイプだもん、あいつ。なのに意地張ってるんだとしたら、紫乃に対して大人ぶって適当に済ますってのが出来なくなってるってことなんじゃないの?」 「……」 「理解して欲しいんじゃない? 紫乃が信じてくんなきゃ、嫌なんじゃない? じゃなかったら、その場で適当に切り抜けてると思うけどなあ」 言葉に詰まるあたしに、琴子ちゃんはにたっと笑って付け加えた。 「でも、他の女の子にしてるみたいな取り繕った上辺の一矢と付き合いたいわけじゃないんでしょ?」 「そりゃ……」 「だったらしょーがないじゃん。しょせん本性はただのガキなんだから。喧嘩も時には必要だよ」 そうだけど。 そうだけどさ。 一矢、忘れてるの? 今日さ……今日……。 ……あたし、誕生日なんだよ……。 ◆ 4 <今何してる?> 琴子ちゃんと別れて家に戻ったあたしは、ベッドの上で膝を抱えて、携帯と睨み合っていた。 <怒ってるの?> 消去っ! これじゃああたしが一方的に悪いみたいじゃないっ。 <謝って> 消去。……どんだけ上から目線? 一矢に送るメールを作っては削除して、作っては削除して。 あああああああ。何て打てば良いの? <会いたいよ> ……。 ……消去。 ため息をついて、あたしは携帯をベッドの上に投げ出した。 会いたいよ。 あたしは、会いたいよ。 でも、一矢は会いたくないのかな。 ううん、会いたくないまで言わなくても、別に会いたいとは思わないのかな。 抱えた膝にぎゅうっと額を押し付けて、ついでに目を瞑る。チカちゃんの姿が瞼の裏に蘇る。可愛くって、女の子……って言うより『女』してて、男の子に甘えるの上手で、多分奔放で。 一矢は、あーいうコと遊んだりしてたんだな。あたしとは随分違うタイプだけど、本当はあーいうコの方が好きだったりするのかな。 そんなふうに思うと、何であたしのことを好きになったのかが良くわからない。 周囲にいた女の子と少し毛色が違ったから物珍しかったのかもしれない。だったらそんな興味、付き合い始めた時点で失せちゃっても仕方ないような気がする。最初こそテンション高くっても、少し慣れてくると色あせて見えたりするかもしれない。 考えれば考えるほどドツボにハマっていくのがわかってるくせに、考えるのをやめられない。馬鹿みたい。 寂しいよ。 本当に居心地の良い場所を見つけたんだ、君の隣に。 失したくないよ。 だからこの先の未来は、誰かにあげたくないんだ。 ねえ、今、何考えてるの……? 一矢の馬鹿。 一矢の馬鹿。 一矢の馬鹿。 ……あと三十分で、あたしの誕生日が終わる。 *** 午前零時まで、あと十分。 「ひゃぅっ」 寂しくって寂しくって、泣きたくなったのを悔しいから堪えてクッションに顔を埋めていると、突然携帯がぶるるって揺れた。びっくりして変な声を出しながら、体もびくって揺れた。 「一矢っ?」 どきってして携帯を取り上げる。だけど、慌てて覗き込んだディスプレイに表示されてるのは見知らぬ電話番号だった。 「誰?」 一矢だったら名前が表示される。だけど番号しか出てないってことは、あたしの知らない番号ってことで。 見知らぬ番号の電話に出るのはちょっと怖い。少し躊躇って電話を見つめていると、やがて着信が切れた。部屋が再び静かになる。 「誰だったんだろ」 出ないくせに、気になったりする。 「わ。まただ」 少しの間、電話をじっと見つめていると、再び同じ番号から着信があった。どうしよう? また少し迷って、それからあたしは恐る恐る電話に出ることにした。 「はい……」 「あ、良かった」 「……」 受話器から聞こえた声に、心臓がどくんって跳ね上がった。頭で理解するより先に、体がその声の主に気づいたみたいに先に反応した。 それから頭が理解する。 一矢……? 「え?」 「電話、出ないかと思った」 え? え? え? あれ? あれ? だって番号、誰の番号? 違ったよね? 電話番号、あれ? 思い切り混乱して、思わずディスプレイも見直したりして、でもどう聞いても一矢の声で……。 「一矢……」 「はい」 「番号……」 「うん」 そこで一度黙った一矢は、あたしの問いにはすぐに答えないで、「カーテン開けてよ」と言った。 「何で、そんなとこ、いんの」 カーテンを開けると、アパートのある薄暗い路地の街灯の下、携帯電話を耳に当てた一矢がこっちを見上げてる。あたしの部屋は路地に面しているわけじゃないから直接話すには少し遠いけど、見えないほどの距離でもない。 「怒って家に入れてくれないかもしれないので」 「今、来たの?」 「そう。仕事終わったその足です」 「……電話、どうしたの?」 変えたの? 一矢を見つめたまま尋ねると、耳元で声だけが近く聞こえた。 「俺、信用出来ないですか」 「……」 「うん。出来ないんだろなとは思う」 微かに混じった笑いが、何だか胸に痛い。 「それは別に自分のせいだからしょーがない。だけど、正直言えば、ちょっとへこみました」 「一矢……」 それを聞いて、わかった。 あの日も、あれから連絡がなかったのも、怒ってたんじゃなくて……あたし、傷つけてたんだ。 「わかってるけど、わがままなもんで、信じて欲しいとか思ったりします」 返す言葉が見つけられなくて黙ったまま一矢を見つめる。街灯の下、一矢も真っ直ぐこっちを見ながら小さく笑った。 「今まで滅茶苦茶な生活してた過去は取り消せないし、その頃知り合った人との関係だって消せない。だからどうやったら信じてくれるのかわからないんですが。……俺、あんたに隠し事とか嘘とか、何もないよ」 「……うん」 「俺、あんたしかいらない」 切なさと自嘲が滲む声と、窓越しの距離がもどかしい。 一矢の言葉が、不安定に揺れてたあたしの胸をぎゅうっと締め付ける。 「バイト先知られてるから手落ちではあるんですが、とりあえず電話を変えてみました。紫乃が嫌がるような人から連絡が来ることは、もうない」 「……」 「ごめん。信用出来ない奴で」 ……ごめんなさいっ……。 「嫌じゃなければ、まだ俺と付き合ってて欲しいんですが」 不安だったのと、自分が情けないのと、それから安堵と……入り混じって、涙が出た。 「ごめんなさい」 「……断わられたのかな」 ちがあーーーうっ! 「じゃなくて! そうじゃなくてっ……」 「じゃあ、何であんたが謝るの?」 「だって……だって、ただのヤキモチだもん……」 自分のことを信じて欲しいと思うのは当たり前で、あたしだって疑われてたら嫌で、だけどあたしは信じてあげてなかったんだ。 ――武藤か神崎に迎えに来てもらえよ。 カンちゃんが元カレだって知ってる一矢は、ちゃんとあたしのこと信じてくれてるのに。 「自分で知らない間に、どんどん好きになってくよ」 一矢がちょっと驚いた表情を浮かべたのが見えた。 「どんどん好きになるんだ。あたし、自分がこんなに一矢のこと好きだって、気づいてなかった」 「何だよそれ……」 「だから、一矢がどっか行っちゃいそうで怖くなったんだ。……ごめんなさい。嫌なこと言ったのわかってる。自分で止められなかったの」 だって今、一矢よりもあたしの方が、きっとずっと好きだと思ってるよ。 一矢が笑う。さっきの寂しそうな笑い方と違って、ほっとしたみたいな笑い方だった。 「そっち、行っても良いですか」 「うん。……待ってる」 あたしの返事を受けて、一矢がひらっと片手を振った。だけど、歩き出しかけた足をすぐに止めて、再びこっちを見上げた。 「あ、そーだ」 「え?」 「遅くなったけど」 「うん?」 「誕生日、おめでとう」 時計の針を見ると、ちょうど零時に変わろうとしているところだった。 ◆ エピローグ 〜一矢〜 「ただいまあー。楽しかったぁーっ」 紫乃の誕生日があった週の週末、俺は一日オフで紫乃も昼過ぎから無理矢理オフで、散々なことになってしまった彼女の誕生日をやり直した。 とは言っても、しょせん大して何が出来るわけでもないんだが。 それでも、千葉にある巨大テーマパークで夕方前から遊び回って、お姫様はご満悦のご様子だ。 テーブルの上にコトンっと置かれた携帯には、俺がなけなしの金で某ジュエリーメーカーに特注した誕生石入りのオリジナルストラップがぶら下がっている。大したもんじゃないが、財政難の俺としては携帯を変えると言う出費と相まって自己破産寸前だ。こんなに働いてるのに。 「お風呂で良く揉んどかないと、足、筋肉痛になるかなあ?」 「お揉みしましょうか?」 自分の家のように俺の家に『帰って』来た紫乃が、困ったように眉根を寄せながらふくらはぎをトントンと叩いている。にっこりと爽やか極まりない笑顔で提案すると、しらっと冷たい視線が飛んできた。 「えっち」 「足でしょ? ふくらはぎでしょ? 何がえっち?」 「違うことされそう」 「それはするでしょう」 「だから! 自分でやるっ」 ちっ。 「でもいっぱい遊んだね」 家の鍵を壁沿いに置かれているキャビネットの上に放り出して冷蔵庫を開けていると、床に座り込んだ紫乃が俺を見上げて機嫌良さそうに笑った。 「楽しんだ?」 「うん。すっごい楽しかった」 「それは何より。ビール、飲みますか?」 「うんっ」 無邪気に白い歯を覗かせる紫乃につられて、俺も笑顔が零れる。ビールを手渡すと、愛しくてそのまま口付ける。 「あー……」 何でこんな可愛いかな、こいつ。 「何?」 「幸せ」 「……ああ、そう?」 呆れたような声を出されるが、黙殺。 しょげたりとか、不安がったりとか、そういうのナシに元気でにこにこしてて欲しい。 そりゃあ人間だから時にはへこんだりすることもあるだろーが、俺が原因ではあって欲しくない。 「あ、アルバム。まだあんなトコにあるってことは、あたしに見てくれってことなのかな」 「馬鹿、それは……」 「『隠し事は何もない』って言ってた? この前」 「……」 まだ俺のことなんて信用出来ないかもしれない。 疑ったりとか、不安になったりとかするのかもしれないけど。 「あーもう。見ても良いけど、知らねーよ? 俺」 「え、何? そんなに怖いものが入ってるの? 何? 予備知識として聞いてみて良い?」 信じてくれるよう、努力するよ。あんたが笑顔で俺の隣にいてくれるんだったら。 「ガキの頃の俺が写ってる家族写真」 「ええええーっ! 見たいっ! 見なきゃっ!」 「だから怖ぇもんだって言ってんだろっ? 呪われてもしらねえぞっ!」 「大丈夫」 何の根拠なんだか、紫乃はいやに自信満々にアルバムを抱き締めてブイサインを突き出した。 「一矢’S インフォは、オールカモンで」 「……」 何があっても、紫乃を裏切らない。 他の誰もいらない。 紫乃だけいてくれれば、それで良い。 この先もずっと、きみのとなりで。 俺にとって、あんた以上に失えないものなんて、何もないんだから――――――。 |
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2009/02/15 ▼あとがき(別窓) |
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