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◆ プロローグ 恋は諸刃の剣――いつ、どこで聞いた言葉だっただろう? 恋は幸せを連れて来る。 その幸せは至上のもので、この世にこれほどの幸せがあるのかと生まれたことに感謝したくなる。世の中の誰より、自分の幸せを信じられる気持ちになる。鮮やかに彩られた未来は、光り輝く甘いものに見える。 では、悲しみを連れて来た時は? 胸を切り刻む痛みで呼吸が詰まり、引き裂かれていく心に消えてしまいたくなる。当て所ない砂漠を一人、永遠に彷徨い続けていくような心持になる。黒一色で閉ざされた未来に、気が狂いそうになる。いや、いっそ気が狂ってしまいたくなる。 泣き疲れて眠り、心の悲鳴で目が覚める。 朝の来ない夜。砂を噛むように空虚な毎日。 どこまで歩けば光が射すのだろう。 どれだけ泣けば、笑顔が戻るのだろう。 会いたい。 会いたい。 会いたい。 ―― 誰か、助けて……。 ◆ 1 新しい恋の見つけ方 「うん。いいじゃない」 女の子らしく、綺麗に整えられた部屋を見回して、京子――大橋京子は満足げに呟いた。 代官山にある小綺麗なマンションの一室、そこが今日から彼女の家だ。 仕事がオフのその日、引っ越しと部屋の片づけを終えたところである。 こじんまりとした1DKの部屋は日当たりが良く明るい。小さいながらも初めて部屋の主となったことに、ささやかな胸は期待と不安でいっぱいだ。 そして―― 一抹の寂しさ。 大きな窓からは、さんさんと暑い夏の日差しが差し込んでくる。部屋の真ん中に置かれたクッションを手に取って、京子は小さな吐息をついた。胸の奥がちくりと痛み、そっと目を伏せる。 一矢から受け取るはずだったソファは、この部屋に来ることはなかった。 この部屋に最初に招待するはずだった一矢が訪れることは、もう一生ないのだろう。 あれから三ヶ月。未だ京子の胸からは一矢の笑顔が消えない。 「しょーがないでしょ?」 自分で自分に言い聞かせる。 彼は紫乃を選んだのだ。責める筋合いではもちろんなく、そして責めたところでどうにもならない。 京子は紫乃のことがとても好きだ。他のわけのわからない女性に取られるより、よほどましだろう。……友達だからこそ、尚つらいという部分もあるが。 あれから見かけることはさほど多くはないが、やはり皆無とはいかずに、一矢と紫乃が二人でいるところを幾度か見かけた。それを見る限りでは上手くいっている様子で、胸を抉られる。 「えーと」 沈んだ気持ちを紛らわせようと、殊更に呟いてみる。 「何か足りないものはあるかな。あ、そーだ。アヤちゃんと会う前に、夕飯の買い物をしちゃおうかな」 呟いて、いつだか一矢の部屋で一緒にハンバーグを作ったことを思い出した。 「……買い物、買い物ッ」 僅かな思い出を無理矢理飲み下し、京子はバッグを掴んだ。 済んだことをうじうじ悩んでいても仕方がない。自分は振られたのだ。そうは思うものの、なかなか感情はそれについて行ってくれない。 いつになったらこの苦しさから逃れることが出来るだろう。 いつになったら夜中に泣き出さずに済むのだろう。 どうすれば、会いたいと思わなくなるのだろう……。 *** 京子はかつて、雑誌モデルをやっていたことがある。 その頃の友人と会う約束で、京子は新宿へ向かった。 都心は熱気が凄い。夕方になってもまだ生温い空気の中、夕飯の買い物を済ませてしまおうかとスーパーやデパートの地下を覗いたりもしたが、良く考えれば荷物が邪魔である。結局覗くだけ覗いて、手ぶらのまま待ち合わせ場所へ足を向ける。 「あ、京子。久しぶり」 ケーキが美味しいと有名な駅近くのカフェに入ると、ひんやりとした冷房が京子の体の熱を冷ました。 店内を見回して、友人の辻 亜矢子の姿を見つけ出す。現在も雑誌モデルを続けている彼女は、すらりと背も高く美人である。ブランド品のサングラスとお洒落なファッションが、遠目から見ても一般人ではないことを周囲に知らせている。 「久しぶり」 そう言う京子自身、周囲から見れば目を惹く存在ではあるが、本人にその自覚はない。 亜矢子のテーブルに足を向けると、ウェイトレスが水を運んできた。 「カプチーノをお願いします」 オーダーしながら亜矢子の向かいに腰を下ろす。サングラスを外してテーブルに置くと、亜矢子もサングラスを外して両手で頬杖をつきながら京子に笑いかけた。 「京子、綺麗になった」 「えっ? やだな、何言い出すの」 「好きな人でも出来た?」 「……」 思わず沈黙に陥る。周囲の華やかな笑い声が、やけに耳についた。 運ばれて来たカプチーノを受け取って一口飲むまでたっぷりと沈黙してから、京子はため息混じりに口を開いた。 「振られたの」 「え」 亜矢子が凍りつく。切れ長の目を瞬いてじっと見つめる視線に、居心地が悪くて京子は目を逸らした。 「だから。振られたの」 「やだ、どういうことよ?」 「どうもこうもないじゃないの。……あーあ。わたしも素敵な彼氏が欲しいなあ」 本音を言えば、『素敵な彼氏』などどうでも良い。『彼氏が欲しい』わけじゃない。ただ一矢のそばにいたかっただけだ。一矢でなければ意味がない。けれどそう言ってしまうと、場が湿っぽくなる。そう思って、わざとあっけらかんとぼやいてみせた。 亜矢子には一年以上付き合っている恋人がいる。クラブでDJをやっていると言う彼は、時折雑誌などでも見たことがある。似合いのカップルだ。 「アヤちゃんは、彼と上手くいってる?」 「ん、まあね。ねえ、それより振られたってどういうこと? 相手は?」 「……」 どうしてもその話題から離れてくれるつもりがないらしい。 京子は大きくため息をつき直してから、スプーンでぐるぐるとカプチーノを掻き混ぜた。 「同じ事務所の人」 「何してる人なの?」 「バンドのドラム。……わたしの友達と、付き合い始めちゃった。上手くいってるみたい」 「取っちゃいなさいよ」 とんでもないことを簡単に言う亜矢子に、苦笑を禁じえない。 「馬鹿なこと言わないで。友達だってば。それに、少しだけ付き合ってたのよ。それで振られてるんだもの。もう、どうにもならないの」 「付き合ったんだ」 「うん……一応は……」 と言って、何があったわけでもないけれど。 胸を塞ぐ思いを吹っ切るように、京子は次第に俯いた顔を無理矢理上げた。笑顔で亜矢子に向かって口を開く。 「わかったでしょ。だから、もうどうしようもないの。それに、もう三ヶ月も前の話よ。いーんだ。諦めるって決めてるの。新しい出会い探すんだもん」 「そう……そうね。そうよ。京子を振るなんて、どうせ大した男じゃないもんね。センスのない馬鹿男に決まってるわ。人生踏み外さなくて良かったじゃない」 「……。それは言い過ぎじゃないの……?」 「ごめん。フォローのつもりだったんだけど」 ぺろっと舌を覗かせる亜矢子に、京子は思わず吹き出した。顔を見合わせてくすくすと笑うと、カップに口をつける。亜矢子がテーブルの上に置いた細い煙草を抜き取った。 「ま、男なんてその人だけじゃないわよ。終わったことは忘れなきゃね。そうだ、彼に頼んで誰か紹介してもらう?」 「う、い、いい。やめとく」 「何よ。消極的じゃないの。そんなんじゃ駄目よ。紹介してあげるって」 「いい、いい。やめとく」 必死で両手を振る京子に、亜矢子は不満そうに唇を尖らせた。 紹介や合コンなどでの出会いは嫌――運命の誰かとの出会いは、自然なものであって欲しい。そんな願いを胸に抱えている自分は、幼稚なのだろうか。 作為的な出会いではなく、自然に恋心を抱くような、そんな恋にはそうそう出会えないものなのだろうか。 新しい恋を見つけるなんて、口で言うのは簡単だが、実際にはどうすれば良いのかわからない。 「合コンとか、苦手だし。それに、無理矢理出会うのも、何かちょっと……」 「何馬鹿なこと言ってるの。合コンだって紹介だって、立派な出会いじゃない。その場に来なくて出会わない可能性だってあるんだからね。出会うのは何でも運命よっ」 「うー。そうかもしれないけど」 「わたしだって合コンで知り合ったんだからね」 「そうだっけ」 「そう。あ、その気になった? いつにする?」 亜矢子が紹介で彼と知り合ったと聞いて、思わず一瞬考えてしまう。けれど、やっぱり京子は力なく顔を横に振った。 「やっぱ、やめとく。ありがと」 やれやれ、と細いメンソールを唇に挟んで火をつけた亜矢子は、ふうっと煙を吐き出して話題を転換した。 「そう言えば、京子、伊丹さんって知ってたっけ」 久しぶりに聞くその名前に、少しだけどきりとする。 その動揺を胸に押し殺しながら、京子はぎこちなく頷いた。 「う、うん。『WiWi』の担当をしてた出版社の人ね」 「そう。あの人、今はもう別の部署に異動しちゃったらしいんだけどね」 「うん」 「伊丹さん、結婚したんだってさ」 「え?」 胸が疼く。 京子の動揺には気がつかず、亜矢子は煙草の先で灰皿をなぞりながら、もう一度繰り返した。 「うん。伊丹さん、結婚したんだって」 「そ、そうなんだ」 「それが奥さんの弟さんがかっこいいらしいよ」 「奥さんの弟さん?」 良くそんなところまで知っているものだ。内心呆れつつ首を傾げると、亜矢子は野次馬根性むき出しの顔で、にやにやと笑った。 「そ。新鋭のピアニストなんだって」 ◆ 2 年下のピアニスト 今日も真夏日だ。暑い。 マネージャーの小早川と一緒に指定されたスタジオに入ると、冷房が効きすぎていた。今は外から入ってきたばかりで良いが、後になると寒くなるのではと少し心配になる。 「おはようございます」 「おはよー」 京子がギタリストを務めるOpheriaは、もう解散まで秒読み開始と言うところだ。 そのせいで仕事も数えるほどしかなく、メンバーもそれぞれ次のステップに向けてソロの活動をすることが増えている。 京子も来春には事務所を移籍する予定になっており、今日の仕事も一人でファッション誌の取材が入っていた。 かつてモデルをやっていた『WiWi』の出版社が出している別のファッション誌の仕事で、知っている人がいないかとどことなくそわそわした気分でスタジオ入りをする。控え室に通されて小早川が部屋を出て行くと、間もなくドアがノックされた。 「はい」 「尚英社の伊丹です」 「えっ?」 先日亜矢子から名前を聞いたばかりのせいもあって、京子の心臓が跳ね上がった。 『WiWi』のかつての担当者――そして同時に、京子がかつて片想いをしていた相手でもある。 想いを口に出すことは出来なかったが、バレンタインの時に特別なチョコレートを渡したりもした。結局伊丹は京子の想いに気づくことはなかったが、京子にとっては特別な相手である。 「伊丹さんっ?」 慌ててドアを開けると、そこには久しぶりに見るかつての恋しい人が立っていた。 「久しぶりです」 「どうして。え、今日の雑誌って伊丹さん、関係が?」 「ないことはないってところです」 京子より六歳年上の伊丹は、年の割りに幼い顔立ちをしている。あどけない雰囲気の持ち主ながら、仕事をさせれば機転が利いて人当たりも良い。こうして久しぶりに会ってみれば、心が動揺しないはずもなかった。 「営業やってるんですよ。宣伝の方。京子ちゃんの取材が入ってるって聞いたから、久しぶりだしどうしてるかなと思って覗きに来てみました」 笑顔に、一瞬時が引き戻されるような気がした。 あの頃は、この笑顔にどれほど心騒がされただろう。しかし今は、一矢ほどに気持ちを揺さぶられない。伊丹への気持ちが過去になったことを思い知る。そして、一矢への想いが消えていないことも、また。 「そうですか。元気ですか」 複雑な胸中を飲み込んで笑顔を向ける京子に、伊丹は何気なく前髪をかきあげた。その薬指に指輪が光る。 「元気ですよ、僕は。京子ちゃんも、頑張ってるみたいですね。ちょくちょく見かけます」 「ありがとうございます。……伊丹さん、結婚されたんですってね」 からかうように白い歯を覗かせると、伊丹は目を丸くして京子を見つめた。それから左手の薬指を見て、照れたように笑う。 「やだな、誰かから聞いたんですか?」 「はい。アヤちゃんから」 「ああ。会ってるんですか」 「たまに。この前久しぶりに会って、伊丹さんの噂になりました」 「僕なんて噂になるようなネタ、ないでしょう」 困ったようにしきりと髪をかきあげる伊丹にくすくす笑っていると、廊下の方から「伊丹さん」と呼ぶ声が聞こえた。透明感のある男の子の声だ。京子の位置からは、姿までは見えない。 「ああ、修平くん。どうだった?」 「どうもこうも、まだ何も始まってないからわかんないよ」 修平くんと呼ばれた声が近付いてくる。ドアの外にそっと顔を覗かせると、一人の青年が近付いてくるところだった。京子を見て足を止めると、戸惑ったような表情で軽く会釈をする。 「ああ、紹介するね。こちら、大橋京子ちゃん。以前一緒に仕事をしてたんだ」 「初めまして。大橋です」 頭を下げると、青年はもう一度軽く会釈をして再び歩き出した。すぐそばまで来て足を止めると、伊丹が今度は青年を京子に紹介した。 「こっちは柳原修平くん。今、いくつに見える?」 「え? ええと……」 からかうように問われて、京子は修平を眺めた。背が高く、癖のない黒髪の下の涼しげな目が大人っぽい。落ち着いた雰囲気で、同い年かもしかすると少し年上だろうか。 「ハタチか……二十一、とかですか?」 「はずれ。十七歳なんだ」 「ええっ?」 素っ頓狂な声を上げて修平に視線を戻すと、修平はバツが悪そうに唇を微かに尖らせた。 「人が悪いよ、伊丹さん」 「いやだって、修平くんの年を当てられる人っていないもんだから面白くて」 「ひどいな。ふけてるってこと?」 「大人びてるんだよ」 「十七歳って、だって、高校生?」 驚いて聞き返す京子に、修平は不貞腐れたような表情のままで頷いた。そういう表情をしていると、言われてみれば年相応と言えなくもないだろうか。 それにしても、すらりとしたルックスと落ち着いた雰囲気に黙っていれば年下には見えない。三歳も年下と聞いて、複雑な気分である。 「十七歳って言っても高校三年生なんですけどね。早生まれで。僕の奥さんの弟さんなんですよ」 二人の様子にくすくすと笑いながら、伊丹が修平の紹介を続けた。 「新鋭のピアニスト。彼、ピアノを弾くんだ」 「そうなんですか」 そう言えば、亜矢子もそんなようなことを言っていたような気がする。思い返しながら、京子は思わず彼の指先を見た。細く長い綺麗な大きな手をしている。鍵盤の上を滑らかに踊る姿は、美しいかもしれない。 「京子ちゃんはギタリストなんだよ」 逆に京子のことを口にした伊丹に、今度は修平が驚いたような顔をした。 「え? エレキギター?」 「そう」 「うわー。見えねー」 「こら。失礼だろ」 「あ、すみません」 ぺろっと舌を覗かせる様子に、京子は笑いながら顔を横に振った。実際、Opheriaのことを知らない人には、京子がギターを弾く姿は想像出来ないだろう。 「それももう、おしまいですから」 「ああ、Opheriaは解散するんですね。もったいないですね」 「いえ」 「次はどうするんですか? まさか引退はしないですよね」 伊丹の言葉に、京子は小さく首を傾げた。 「一応、ツインヴォーカルのユニットを組むことになってるんです。だから、歌の方へ」 「そうですか。京子ちゃん、声が綺麗だからその方が良いかもしれないですね。ギターを弾いてる姿もかっこよかったですけど」 「そんなこと、ないです。全然上手くならなくて」 控えめに笑いながら、京子を見つめる修平の視線に気づいて顔を向ける。途端、修平の方がふいっと顔を逸らした。そのまま伊丹に向かって口を開く。 「今日見せてくれる撮影って、この人の?」 「この人って。全く……ごめんね、京子ちゃん。失礼で」 「いえ、そんな」 「そう。京子ちゃんはプロのギタリストだし、雑誌とかポスターとかでも活躍してるんだよ。見たことないのか?」 「俺、そういうの良く知らないもん」 咎めるような伊丹の言葉に、修平は鼻の頭に皺を寄せた。伊丹がため息混じりに京子に顔を戻す。 「修平くんはね、今度ピアニストとしてCDを一枚出すことになってて……。まあ、こういう雑誌の取材とかもいろいろあるし、良かったら覗いてみる?って連れて来たんです」 「そうなんですか? おめでとうございます」 十七歳でCDを出すのであれば、腕は確かなのだろう。素直に尊敬して言うと、修平は少し照れたように「はあ、いえ」とか言いながら指先で鼻の頭をかいた。 「あ、そうだ」 伊丹がふと思い出したように呟いて、ポケットを漁る。 取り出した財布から一枚のチケットを引っ張り出して、京子の方にひらりと差し出した。 「来週の金曜日、修平くんのソロコンサートがあるんです。良かったら遊びに来ませんか?」 「いいんですか?」 「もちろん。都合がつけばですけど」 思わずチケットを受け取りながら、修平の方をちらりと見る。どことなく照れ臭そうな表情を浮かべてやり取りを眺めていた修平は、京子の視線に気がつくと、またふいっと顔を逸らしながら「来れたらでいいですよ」とぼそぼそと言う。大人びて見えていても、やはり高校生だ。シャイな部分を残す姿に、好感を抱いた。 「平気だと思います。楽しみにしていますね」 修平の方に向かってそう笑いかけると、そこでようやく修平は笑みを覗かせた。 「楽しみにしてて下さい。……頑張ります」 *** 修平のコンサートがあるその日、タクシーを会場付近で降りた京子は、歩きながら伊丹の携帯に電話をかけた。昔の名残で、少しだけ心がさわつく。 伊丹は今日、妻と一緒に修平のコンサートに訪れると言うことで、会場に着いたら連絡をするように言われていた。 (伊丹さんの奥さんって、どんな人なんだろ) 見たいような見たくないような、複雑な気分である。 数回のコールの後、伊丹が電話口で応じた。 「京子ちゃん? ついた?」 「はい。まだホールの外ですけど」 今日の会場は、練馬区にある区民ホールだ。その中の小ホールが会場だと聞いている。区民ホールの外にはポスターサイズの立て看板が出ていて、その前で京子は足を止めた。 正装をしてピアノに向かう修平の写真に、失礼ながら思わず驚く。これで高校生だとは思えない。しかしながら、そこに映っているのは確かに先日見た修平に違いなかった。 (凄いなあ……) 「じゃあ、そのまま中に入って来てくれますか? 僕は今、小ホールの入り口のソファにいますから」 「あ、はい。わかりました」 通話を切って改めてポスターを眺めていると、京子の後ろを何人か中に入っていった。いずれも品の良さそうな年配の人々だが、中には若い女性なども混じっている。ピアニストが若いせいか、若いファンの支持も集めているのだろうか。 区民ホールに入ると、小ホールを示す札があった。どうやら地下らしい。案内に従って階段を降りると、すぐに伊丹の姿は見つかった。 「こっちです」 伊丹の方でもすぐに京子を見つけて、ソファから立ち上がった。隣で、小柄な女性が合わせて立ち上がる。会釈をして歩きながら、「あれが伊丹さんの奥さんか」と胸の内で確認した。 優しそうな可愛らしい女性だった。どことなく修平と面影が似ているような気もする。考えて見れば、彼女は伊丹の妻であると同時に修平の姉である。 「初めまして。大橋です」 「いつも伊丹がお世話になっております」 伊丹の妻が頭を下げる。柔らかい雰囲気を持っているが、年齢は京子とさして変わらなさそうだろうか。二、三歳上程度と言う若さだ。 「こっちが妻の佐和子です。以前仕事でお世話になっていた京子ちゃんだよ」 あっさりと紹介する伊丹に、京子は思わず内心苦笑した。全く罪だ。伊丹は京子が以前抱いていた気持ちなど知らないのだから、仕方がないことだけれど。 「始まる前に、楽屋に顔を出して行こうか。その方が、修平くんもやる気が出るんじゃない?」 くすくす笑う伊丹に、意味がわからず目を瞬いていると、佐和子もまた笑いながら京子に言った。 「この前、修平にお会いしてるんでしょう?」 「はい。伊丹さんが連れてらして。あの……?」 「ふふ。修平にしては珍しく、何だかはしゃいでました」 「え?」 「そうそう」 歩き出す二人につられて歩き出しながら首を傾げる。京子を伊丹が振り返った。 「『すっげー綺麗』って、びっくりしてましたから」 「え?」 「京子ちゃんのこと」 思いがけないことを言われて、足を止める。それから思わず真っ赤になった。 「ま、まさかっ!」 「いや本当に」 伊丹の言葉に、佐和子が隣でうんうんと頷いた。 「今日も何だかそわそわしてたみたいですよ。でも、わたしもお会いして納得しました。ふふ、一言励ましてやって下さい。単純だから、きっと頑張っちゃうんじゃないかしら」 「からかわないで下さい。わたし、修平くんより三歳も年上なんですから」 楽屋に向かって人気のない通路へ向かいながら、赤くなった頬をそっと撫でる。からかわれて真に受けてはいけないと唇を尖らせると、伊丹が目を丸くして再び振り返った。 「からかってるわけじゃ……それに、年上の女性に憧れるお年頃でもありますしね。三歳ぐらい、何てことないんじゃないですか? でも、修平くんがあんなふうに言うなんて、本当に珍しいんですよ。……あ、楽屋ってあそこかな」 「そうじゃない?」 何食わぬ顔をして歩いて行く二人の後ろで、京子は動揺した自分にため息をついた。 異性に免疫のない自分に呆れてしまう。三歳も年下の男の子に綺麗だと言われたと、しかも人づてに聞いたくらい何だと言うのだ。 「修平? いる?」 通路沿いにあるドアの前で、二人が足を止める。その背後で京子も足を止めた。ドアの横にあるプレートには、『柳原修平様』と黒いマジックで名前が書かれている。 「いるよ」 中から返事が返ると、佐和子がドアを開けて中を覗いた。その後に、扉を全開にする。 部屋には修平しかいないようだ。正装してパイプ椅子に腰掛けた修平は、組んだ膝の上に雑誌を広げていた。壁には大きな鏡が貼られ、その手前にある小さな棚にペットボトルが置いてある。 「どう? 緊張してる?」 「してないよ、別に今更」 ぞんざいな答えを聞きながら二人の後ろからそっと顔を覗かせると、修平と目が合った。驚いたように修平の目が丸くなる。 「こんにちは……」 おずおずと挨拶をすると、修平がガタンと椅子から立ち上がった。 「あ、こ、こんにちは」 それきり黙ってしまう。京子の前を開けるように体をずらしていた伊丹が、吹き出した。 「修平くん、コンサートよりこっちの方が緊張してるんじゃないのか?」 「よ、余計なこと言うなよ。何でだよ、そんなことねーよ」 大人びた顔を真っ赤にして怒鳴る姿がおかしくて、思わず京子も吹き出した。不貞腐れたような表情のまま、修平が口を噤んで京子を見る。 「楽しみにしてます。頑張って下さいね」 「あ、はあ、はい、まあ、その……」 しどろもどろな姿が先ほどの伊丹夫妻の言葉を裏づけしているみたいで、何だかくすぐったい。どんな表情をして良いのかわからず、京子は頭を下げて修平の視界から外れた。ドアの外、通路に戻って、そっと頬を押さえる。 (もう。何動揺してるのよ。大人びてたって、年下じゃないの) 一矢を忘れていないことを置いておいても、恋愛の対象になる相手ではない。動揺するには及ばないはずだ。年下の男の子の、一過性の憧れを真に受けてしまっては年上の沽券に関わると言うものである。 うんうんと一人で納得をしていると、中から伊丹の声が聞こえ、その内容に京子はぎょっとした。 「じゃあ、僕と佐和子は客席にいるから。京子ちゃん。あと宜しく」 「へっ?」 何のことだ。 先に出ていた通路で仰天していると、部屋から出て来た伊丹が小声で京子に囁いた。 「レコ発だし、緊張してると思うんです。強がってるけどね。励ましてやって下さい」 「な、何でわたし……」 「京子ちゃんに励まされたら喜ぶと思うから」 「そんな!」 「席の場所はわかりますよね。チケットに書いてあるから。それじゃあ、後で」 「ちょっ……」 わたし、何を話したら良いのかわからないんですけど……。 内心の呟きを口に出す機会が与えられないまま、仲良く肩を並べて歩き去っていく伊丹夫妻を見送ってしまう。どうすれば良いのだろう? ドアから少しずれた位置に佇んだまま、開け放された楽屋と伊丹夫妻が去っていった方を見比べていると、楽屋の方で音がした。小声で「閉めてけよ」とぼやく声が聞こえ、振り返るとドアノブに手を伸ばした姿勢で、京子を見つけた修平が固まっていた。 「あ、あの」 何か言わなくては。 とは言え、咄嗟に何を言えば良いのかわからず、それきり言葉に詰まってしまう。対する修平も、目を丸くしたまま無言で京子を見詰めていた。それから気を取り直したように、口を開く。 「どうしたんですか」 どうしたのだろう? それはこちらが聞きたい。 「あの……置いていかれちゃって」 「は?」 「えーと、その、何でもないです……」 もう自分も戻ってしまえ。 そう決めて「それじゃあ」と口にしかけた京子より先に、修平が京子を手招きした。 「とりあえず、入りますか」 「あ、はい」 つい頷いてしまってから、京子は思わず頭を抱えたくなった。入ってどうする。 しかし頷いてしまった以上、おもむろに踵を返すわけにもいかない。仕方なく、京子は招かれるままに楽屋へ足を踏み入れた。 「何か飲みますか? って言っても、そんなに何があるわけじゃないんですけど。お茶でも淹れようか」 「わ、わたしがやります」 楽屋の隅にあるポットを示されて、京子は慌てた。これからコンサートをするピアニストに、まさかお茶を淹れさせるわけにはいかない。 未使用の急須と湯飲みを取って修平と自分の分のお茶を淹れると、勧められたパイプ椅子に腰を下ろしながら京子は内心首を捻った。一体どうしてこんなことになってしまったのだろう。二人きりにされても、どちらかと言えば内気な京子は困るしかない。修平の方も軽快に話してくれるタイプではないらしく、奇妙な沈黙が部屋に流れる。 「あの、それじゃあ、わたし……」 やはり客席に戻ろう。 そう思って言いかけると、黙ってお茶を啜っていた修平が遮るように口を開いた。 「京子さんて」 「はい」 「彼氏とかいるんですか」 「え?」 まさか会って二回目の人にそんなことを聞かれると思っていなくて、京子は困惑した。その表情を見て、修平が視線を泳がせる。 「不躾ですね。すいません。いや、何となく」 「……いませんけど」 「あ、いないんですか」 修平はぱっと京子から見てもわかるほど明るい表情になった。それから「しまった」と言うように、片手で口元を覆う。 「や、深い意味はないんですけど。気にしないで下さい」 「は、はい……」 「えーと、そのー、何か悪かったですね」 「え?」 意味がわからなくて顔を上げる。修平は困ったように視線を落として、ため息をついた。 「義兄さんが、無理矢理京子さんを残してったんでしょ?」 「そんなこと」 「いーんです、わかってんだ。お節介って言うか、何つーか」 ぼやくような口ぶりに、京子は少しだけ笑った。笑みを覗かせた京子にほっとしたように、修平も微かに笑う。 「俺が悪いんでしょーけど」 「どうして? 悪いって?」 「いやー、まあ、だからそのー……」 「はい」 「……綺麗な人だなって、言っちゃったんで」 最後のセリフだけ、異様な早口でぼそぼそと言う。視線を泳がせたままそこで一度言葉を切った修平は、無言のままの京子をちらりと見て、また目を逸らした。 「こういうこと言うと、何かキザっぽくて嫌なんだけど。でも、まあ、本当にそう思ったって言うか、あー、それでその、えーと……」 「……」 「……何でもない。やっぱ」 選ぶように散々歯切れの悪い言葉を繰り返していた修平は、最終的にそれきり押し黙った。見れば、バツの悪そうな横顔は微かに赤らんでいる。それを見て、京子はまた思わず笑ってしまった。修平が憮然と視線を向ける。 「だっせぇとか思ってるでしょ」 「思ってないです。だけど、ふふっ……ちょっとおかしい」 「どうせ。あんまり慣れてないんですよ」 「何がですか?」 「だから、女の子と二人で話すのとか」 赤味の残る頬を気にするようにしきりと撫でながら、修平は空いた湯飲みを鏡の前の棚に置いた。 「まさか。もてるでしょ?」 「誰が? 俺が?」 「だって、ファンの女の子とかいるでしょ? こんなことしてたら、学校でも注目集めるんじゃないですか?」 首を傾げると、修平は「ああ」と小さく呟いてため息をついた。 「そういうのは『もてる』って言わないんじゃないすか。それに俺、きゃあきゃあうるさい人とか駄目なんです。面倒臭ぇし、ついてけない」 「ふうん? そうですか?」 「京子さんは?」 「え?」 「どういう人が好きなタイプ?」 純粋さの残る目で真っ直ぐに見つめられて、京子は少したじろいだ。どうしてこんな話になったのだろうと思いながら、胸に浮かぶ顔を必死で打ち消す。 忘れなければいけない。友達の彼氏だ。もう、その手の温もりも思い出せない。 「べ、別に……」 俯いて押し出した答えが、掠れる。――思い出させないで。考えさせないで。まだ、視界が涙で曇ってしまう。 「ない、です。そんなの」 「好きになった人が好みのタイプって感じ?」 「どうかな……」 俯いて必死に作った笑顔で、京子は小さく答えると立ち上がった。 「じゃあわたし、そろそろ客席に行きますね」 「あ、はい」 突然立ち上がった京子に面食らったように、修平が頷く。歪みそうな顔を見られたくなくて背中を向けると、少し慌てたような修平の声が背中を追ってきた。 「京子さん。すいません、俺、何か気に障りました?」 「違います、そうじゃないです。あの、本番前であんまり長くいたら悪いから」 ドアのところで振り返って笑みらしきものを向けるが、修平はどこか曇った心配そうな眼差しのままだ。修平の不安を取り除く為に、京子はもう一度微笑みを浮かべ直して、口を開いた。 「今は、本番のことだけ考えて下さい。終わったら、また挨拶に来ますね」 「え、本当ですか?」 「はい」 修平の顔が明るくなったのを見て、優しい気持ちになる。弟がいたら、こんな感じなのだろうか。 「だから、頑張って下さいね。楽しみにしてますから」 ◆ 3 心に触れる旋律 修平のピアノの腕前は、ピアノに素人の京子でも驚くほどだった。 鍵盤の上を自由自在に華麗に踊る指は、時に力強く、時に繊細に旋律を紡ぎ出し、音とはこれほど表情があるものなのかと驚かされた。 まだオリジナル曲の発表には手を出していないらしい修平が最初に弾いた曲が、妙に京子の耳にこびりついている。聴いたことのある曲だと曲目を見れば、ショパンの夜想曲だった。繊細で優しい美しいメロディに心が癒され、同時に普段の修平とは重ならない姿が強く心に残った。 音は、人を表わすと言う。 夜想曲を奏でる姿がしっくりと来る修平は、もしかするとそんな繊細さをどこかに隠し持っているのだろうか。そんな勝手なイメージが湧き上がる。心の琴線に触れるような、深い音を出す人だと思った。 コンサートの規模はまだ決して大きいとは言えないけれど、まだまだ若いのだし先々を期待するには十分な素質の持ち主である。今ひとつ伸びないままのギタリストである京子は、思わず自分と比べて落ち込みたくなるほどだ。 ステージを終えた後、京子は伊丹夫妻と共に楽屋を訪れたが、関係者が入れ替わり挨拶に訪れるので余り長居するのも気が引けて、さっさと帰って来てしまった。以降、会う機会はないままである。このまま会うこともなくなるのだろう。元々、伊丹ともさほど親しいわけではない。 京子のその予想が覆されたのは、コンサートから十日ほど経ったオフの日のことだった。 「誰?」 一人暮らしは、快適であると同時に寂しく心細い。 予定のないオフのその日、京子は昼近くまで惰眠を貪ってからのんびりと部屋の掃除をしていた。窓から射し込む眩しい夏の日差しに、布団を干そうか迷っているところへ携帯電話が鳴った。 ディスプレイに表示されているのは、見知らぬ携帯番号だ。出るのを躊躇して、京子は画面をじっと見詰めた。それから迷って、通話ボタンを押す。 「はい」 「あ、えーと、こんにちは……。京子さん、ですか?」 「はい」 「あの、覚えてるかわかんないけど、柳原です」 名乗られて、京子は思わず目を瞬いた。一瞬柳原と言うのが誰だかわからず、先日のピアニストの青年だと思い至って言葉を失う。 「あー、やっぱ覚えてないすね……」 「あ、ちが、そうじゃなくて」 京子の沈黙をどう理解したのか、落胆したような声に京子は慌てた。 「どうして電話番号……」 あの日、京子は連絡先など教えてはいないはずだ。思わずどきどきしてしまう自分を片手で軽く小突きながら、修平の誤解を払拭すべく言葉を探す。 「えーと、すいません。義兄さんに聞きました」 「伊丹さんから?」 「はい。この前、来てくれてありがとうございました。俺、ろくに礼も言えないままバタバタしてるうちに京子さん、帰っちゃったでしょ」 拗ねるような口ぶりに、京子は少し笑った。年下のせいか、どことなく可愛く思えてしまう。 「まずかった?」 「何が?」 「勝手に電話番号、聞いたりして」 「ううん。それより、わざわざ……いいのに」 意外と義理堅い。 素直にそう受け取りながらベッドに腰を下ろす。 電話の向こうで沈黙を挟んだ修平が、ややして口篭りながら言った。 「や、まあ、そのー……口実ですけど」 「え?」 「いや、何でもないです。今、電話大丈夫でした? 何してました?」 「今はお部屋の掃除をしてました」 「ああ。天気も良いですしね。良いですね、部屋の掃除は」 「はい」 頷いてから、それきりの沈黙に吹き出す。『部屋の掃除は良いですね』と言うのも、何だか妙ではないか。 「え? 何ですか?」 吹き出した京子に、修平が困ったような声を出した。くすくすと笑いながら、困惑したような修平の顔が目に浮かぶ。 「いえ。何か妙な会話のような気がして」 「そうですか? すいません。前も言ったでしょ、俺、何話して良いのか良くわかんないんですよ。何かもっとスマートに話せりゃいーんでしょうけど」 「ううん。わたしもそうなんです」 「え?」 「あんまり、男の子と話すのが得意じゃなくて……ごめんなさい。もっと上手く話せれば修平くんも困らないと思うんですけど」 修平が電話の向こうで沈黙する。 「修平くん?」 どうしたのかと呼びかけると、どことなく照れたような声で修平が「あ、はい? あ、すみません、いや、何でもないです……」と呟くように言った。良くわからない。 「京子さん、今日ってオフなんですか?」 「はい」 頷くと、独り言のように「そうかー」と小さな声が聞こえた。何を言って良いのかわからないので黙っていると、修平がぼそぼそと早口で言った。 「あの、良かったら出て来ませんか?」 「え?」 「いや予定があるとかだったら、その、無理にとは言わないすけど。別にそんな面白いこと出来るわけでもないし」 余りにぼそぼそと言われるので理解するのに少し時間がかかった。きょとんと間を置いて、それからその言葉の意味を把握する。――今から会おうと言っている? 「えっ? あ、あの……」 「あー、すいません、迷惑ですね。何でもないです、忘れて下さい」 驚いて言葉に詰まる京子に、修平が焦ったようにまた早口で言った。それを聞いて、なぜか京子の方が更に焦る。迷惑だなどとは一言も言っていない。 「そうじゃなくて。じゃないんですけど、あの……?」 「あ、意味がわかんないって感じですか?」 「まあ……そう、かな……」 意味がわからないと言うか、目的がわからないと言うか。 その言葉を飲み込んで曖昧に頷くと、言葉を選ぶような静寂があった。ややして、吐息の後に再び修平が口を開く。 「いきなりこんなこと言うとびっくりすると思うんですけど」 「はい」 「会いたいんです」 びっくりである。 「え? あのの……」 「駄目ですか?」 真っ直ぐな言葉に、不覚にも鼓動が速くなった。異性にこんなふうに言われたことはほとんどない。動揺しない方がおかしい。 かあっと頬が赤くなるのを感じながら答えに迷う京子に、修平がもう一度念を押すように繰り返した。 「嫌ならそう言ってくれて構いません。……京子さんに、会いたいです」 *** 「京子さん」 「ごめんなさい。遅くなって」 代官山の駅に辿り着くと、駅の壁に背中を預けて京子を待つ修平の姿が見えた。京子の姿を見つけて、ぱっと笑顔になる。 「急に呼び出したのは俺だし」 「でも、わざわざ代官山まで来てもらっちゃって」 「いーんです」 どことなくはにかんだような笑顔で、修平は壁から背中を起こした。そのまま歩き出すので、何となく京子もそれについて歩き始める。 「暑いっすね、今日も。あ、京子さん、昼メシってもう食いました?」 「いえ、まだ……」 「じゃあ、とりあえずどっか店に入りません? 俺、今日六時起きで朝メシ食ってないもんで、腹減っちゃった」 「えっ? 六時起き? 何してたんですか」 代官山は若者に人気のお洒落な街である。駅から少し歩けば人通りが増え、軒並み話題の店が並んでいる。 京子の問いに、少し前を歩いていた修平が振り返って軽く片手を動かしてみせた。 「ピアノです。何か目が覚めちゃって眠れなくなったもんだから弾き始めたら、今度は止まらなくて。そういうこと、ありません?」 京子の場合は、何となく周囲に流されてギターを始めただけだから、そんな経験がない。本当にピアノが好きなのだろう。京子は黙って顔を横に振った。 「あれ? ないんですか」 「わたし、好きでギターを始めたわけじゃないから」 「そうなんですか?」 「うん。だからかな。上達もしなかった」 目を瞬いて京子を見ていた修平は、両手をジーンズのポケットに引っ掛けて小さく首を傾げた。今日の修平はTシャツにジーンズと言うどこにでもいるカジュアルなファッションで、こうしていればただの若者にしか見えない。 「そうですね。楽器を好きになってやんないと、楽器の方もそっぽ向いちゃいますよ」 「ふふ。そうなんですね、きっと。修平くん、三歳からピアノやってるなんて凄いですね」 コンサートの時に買ったCDのジャケットに、修平のプロフィールが書いてあった。三歳からピアノを始め、十二歳でオーストリアに渡り音楽を学んで、十六歳の時に帰国し、現在は国内の学校の音楽科に在籍中らしい。高校を卒業したら、またオーストリアに留学する予定だとも記されていた。 コンクール等の受賞履歴などを見ても京子には良くわからなかったが、父親は指揮者、母親はヴァイオリニスト、先日会った姉の佐和子もフルート奏者と言うクラシック音楽一家であることには慄いた。正直、ハイソ過ぎてついていけない。別次元のイキモノである。 隣に並んで修平を見上げると、修平は微かに面映そうな顔をした。 「それは別に、環境もあるし……。それより、何食いたいですか? 何か食いたいもの、ありますか?」 「あ、わたしは何でも……。修平くんは?」 「俺? そうだなあ。あ、天丼セットうまそう」 ぽろっと言ってから、修平はバンッと自分の口を押さえた。それからそろっと京子を横目で見る。きょとんと見上げていると、修平はため息を吐き出した。 「……って、女の人連れて入る店じゃないすね」 「え?」 「んじゃあ、その辺のカフェでも行きますか? イタリアンとか?」 困ったように眉根を寄せてメインストリート沿いの洒落た店を見回す姿に、京子は何だか微笑ましくなった。見た目に反して手馴れていない様子である。 「天丼、食べたいんでしょ?」 「忘れて下さい、そんな独り言」 「どうして? じゃあわたしは何にしようかなあ」 修平が先ほど目を留めた定食屋の前で足を止めて、ディスプレイの中のメニューを眺める。そんな京子に修平が慌てた。 「き、京子さんっ」 「これ美味しそう。野菜天麩羅セット」 「……まじですか?」 「まじですけど。駄目?」 見上げる京子をまじまじと見つめ、ややして修平が吹き出す。それから優しい目で京子を見つめると、修平もディスプレイに目を向けた。 「意外と、拘らないんですね」 「何がですか?」 「店とか。女の人って、綺麗な店とかお洒落なところが好きなんじゃないんですか?」 「うーん。嫌いじゃないけど……」 一矢が連れて行ってくれた店は、いつも綺麗で洒落ていた。雑誌に載っているようなデートスポットとしてのお店ばかりで、雰囲気だけでも酔ってしまいそうだった。 けれど、今にして思う。 一矢が京子に自分の本当の姿を見せていないと言うのは、そういうところにも現れていたのではないだろうか。それが、また寂しさの一端を担っていたのではないだろうか。 人間は、誰しも綺麗な面ばかりではない。男だって女だって、手を抜きたい瞬間が誰にでもある。お洒落をして綺麗なお店に行きたい時もあれば、逆にトレーナーにすっぴんで近所のスーパーに行きたい時もあるのだ。 飾った姿しか見せないと言うことは、仮面を被ったままだと言うことではないのだろうか。 それでは、本当の姿は永遠にわからない。 「ここにする」 一矢は、紫乃には本当の姿を見せているのだろうか。そう思えば胸が苦しい。本当の姿を見せて欲しかった。それでも、好きになれたと言い切れる。 「京子さん?」 「あ、ごめんなさい。入ろう」 笑顔を作って店に足を踏み入れる京子を、修平が何か物言いたげに見つめたが、やがて言葉を飲み込むようにしてその後を追った。 ◆ 4 あなたの忘れ方 あの日を境に、修平から時折電話が来るようになった。 京子としてもまるで弟が出来たような気分で、心和むし、可愛くも思えるので、短いながら電話の相手をすることもある。 しかしながらそれは、恋心と言える感情ではなかった。 依然として京子の心には一矢の姿がある。 まるでそれは発作のように、突然夜中に京子の心を支配して苦しめた。会いたい。声が聞きたい。どうしてこんなに好きになってしまったのだろう。望めば望むほどに、手の届かない想いが心を引き裂く。 (一矢……) その日、たまたま時間を持て余して、事務所のスタジオで歌の練習をしていた京子は、手洗いにスタジオを出て足を止めた。 ブレインの二階にはリハスタが二つある。もう一つのスタジオの中に、一人でドラムを叩く一矢の姿を見つけた。 一矢がドラマーを務めるGrand Crossは、余り頻繁に事務所を訪れるバンドではない。事務所のスタジオを使うことも滅多にないから、これはひどく珍しいことだった。 どうしたのだろうと思いながら、心臓が鷲掴みにされたように痛む。痛むのに、目を離すことが出来ない。 一矢は無心にドラムを叩いているようで、廊下に佇んで中を見つめる京子には全く気がついていないようだった。いつから叩いているのだろう。半袖のTシャツから覗く腕や額に汗が光り、京子の心がまた一矢に引き寄せられる。 「一矢」 小さく呟くと、涙が目に滲んだ。 声が聞きたい。その温もりに触れたい。なのに、こうしてガラス越しに見守るしか出来ない。 「あ」 泣き出しそうな切ない痛みを堪えて見つめる京子の視線の先で、一矢がドラムを叩く手を止めた。京子に気がついたらしい。やや目尻の下がった目を丸くして、口を動かす。声は聞こえないが、恐らくは京子の名を呼んだのだろう。 息が詰まるような気がしながらも、京子は笑みを浮かべてみせた。軽く片手を振る。ここで顔を伏せて走り去ってしまっては、きっと一矢が気にする。 どうしようか躊躇って、防音扉に手を掛けた。心臓が口から飛び出てしまいそうだ。重たいドアを押し開けると、一矢の声がようやく聞こえた。 「京子ちゃん」 別れてから、一矢は以前のような呼び捨てではなく必ず『京子ちゃん』と呼ぶようになった。以前も時折そんなふうに呼ぶことはあったが、今はそれを聞く度に距離を感じて寂しくなる。 「おつー」 「お疲れさま」 くるくると片手でスティックを回しながらの挨拶に、京子も入り口に佇んだまま笑顔を返した。 今、自分の笑顔はちゃんとしているだろうか。泣く寸前のように歪んでしまってはいないだろうか。 「珍しいね。一矢、さんがここのスタジオにいるなんて」 友達の彼氏を呼び捨てにしてはいけない。一矢がそうしているように、京子も呼び方を変えるようにしている。しかしながら、それがまた京子の心を切り刻む。 何も気づいた様子もなく、一矢はスティックを回しながら「うん」と屈託なく頷いた。 「いっつも使ってるスタジオが、今日ピアノのメンテ入ってて使えんのですわ。やーねー、ハイソでねー」 ぼやくような言葉にくすくす笑っていると、一矢が続けた。 「月に何度かはそう言う日があるんだわ。んでそういう日は使えないわけだけど、今日は俺暇だし、時間を持て余しましたんで。ここのスタジオも空いてるみたいだったから、ちょっと暇つぶしに」 「ふうん? 月に何度もメンテナンスってやるものなの?」 京子はピアノについて良く知らない。修平のこともあって何となく興味をそそられ、聞いてみる。一矢は軽く肩を竦めて答えた。 「普通のご家庭にあるようなアップライトなんかは、そうでもないみたいだけどね。まあ最低二年に一度くらいは調律してねーとか言われるくらいで。でもやっぱり真面目にピアノを弾く人はアップライトとかでも、ちょいちょいやってるみたいだし」 「アップライトって?」 「グランドじゃなくて、箱みたいなピアノ、あるっしょ? コンパクトなやつ」 「ああ。へえ、ああいうのはアップライトって言うんだ」 「そ。んで、俺らが使ってるスタジオに置いてあるのは、グランドピアノなわけ。しかも、そん中でも格上の高ぇ奴」 ピアノにもいろいろと階級があるらしい。 そんなことさえ、京子は初めて知った。 元々楽器をやる人間だったわけではないから、自分がやらなければならないギターを知ることで精一杯だった。 「だから、わりとちょくちょくメンテが入ってるよ。メンテも安くないってのに」 「そうなの?」 「うん。ン万からン十万ってとこかな? まあ、俺の財布が傷むわけではないのれー。いーんれすがー」 では、修平もやはりそうなのだろうか。プロのピアニストとしてやっていくわけだから、そうなのかもしれない。思わず眩暈がした。自分に置き換えて考えてみると、ギターのメンテナンスだけで毎月何十万もかかっては堪らない。破産してしまう。 くらくらする額に片手を押し当てていると、一矢が吹き出した。 「どったの? 京子ちゃん」 そんな笑顔を見せないで欲しい。友達の彼氏だと言うことを恨みたくなってしまう。なのに嬉しい。 「ううん。ギターのメンテナンスにそんなにかかったら、わたし、破産しちゃうなと思っただけ」 複雑な気分になりながら答える京子に、一矢は一層楽しそうに笑った。 「俺もー。ドラムがそんな手のかかるコじゃなくて良かったですわ」 「でもドラムは、セット自体が高いんじゃないの?」 「まあねえ。でもピアノなんかは手に入れるのも高けりゃ維持するのも高いわけで。ドラムは一度手に入れちゃえば、ある程度はね。それでいけるから」 「そっか」 「それに、ドラムセットだって高い奴は高いんだろうけど、俺の持ってるのなんかはたかだか知れてるわけだし。ピアノなんて、高い奴はハンパないじゃん? やっぱクラシック楽器は高いよ」 スティックを回すのをやめて、ぐりぐりと自分の顎に押し当てながら一矢が続ける。 「そうなの?」 「ヴァイオリンなんか、凄ぇ奴は億とかするんじゃなかったっけ?」 「……億?」 「うん。そうじゃなくても、普通に何千万とかするでしょ? 俺は良く知らんけど、ストラディヴァリとかアマティとか」 何です? それ、と聞きたくなるが、馬鹿だと思われたくないので言葉を飲み込む。要するに名器なのだろう。 そう言えば、今は一矢の彼女である紫乃が、いつだか「クラシックはお金がかかる」とか言っていたのを聞いた気がしなくもない。元々彼女はピアニストを目指していたのだったか。家庭の事情から諦めざるを得なかったと言っていたような気がする。 クラシック一家である修平の家は、一体どんな家なのだと突っ込みたくなった。 ピアノでそれだけ維持費がかかるのならば、母のヴァイオリンやら姉のフルートやらを含めると一体どうなってしまうのだろう。 (べ、別次元ね、うん) 今のところ会話がかみ合わないと言うようなことはないが、やはり京子と修平には隔たりがあるようだ。弟気分、などと言ってはいけないような気がする。金の問題ではないけれど、どうにも育ちが違う。 「ところで、最近ご無沙汰ですが、調子はいかがですか」 内心冷や汗をだらだらかいていると、そんな京子の胸中に気づくはずもない一矢が、ふと優しく目を細めた。どきんと心臓が跳ね上がる。別の意味で汗が噴き出しそうだ。 「う、う、うん。何とか」 何が『何とか』なのか自分で良くわからないが、その表情に胸を締め付けられて上気した頬に片手をそっと押し当てた。 「移籍まで、あと四ヶ月? 新しい仕事はやってけそう?」 「うん。メンバーがいなくなっちゃうのは不安だけど」 「新しくユニット組むんでしょ? 新しく一緒にやる人って、もう会った?」 「うん。可愛らしい元気なコで、仲良くなれそう」 「そか。良かった」 一応は気にかけてくれているのだろうか。ほっとしたように微笑まれて、胸の奥が温かくなる。 忘れようと努力をしているつもりだけど、こうした些細なことがまた京子の気持ちを引き留めて、際限ない地獄にはまり込んでいるような気がした。アテのない砂漠をさ迷い歩いているみたいだ。 「一矢、さんは……」 胸の痛みを押し殺して、無理矢理声を押し出す。 「紫乃ちゃんと、うまく、いってる……?」 泣いてはいけない。泣いてしまっては、一矢が気にする。 作り上げた笑顔は上手くいっただろうか。 一矢が一瞬躊躇するような表情を見せ、それから曖昧な笑みを覗かせた。 「まあ、適度に。しょっちゅう殴られてるような気もしますが」 「ふふ。それも仲の良い証拠だよ。知ってる? 女の子の方が強い方が、上手くいくんだって」 「……それを広瀬さんには言わないで戴きたい」 「どうしようかな」 からかうようにとぼけてみせると、一矢がげんなりした顔で「俺、殺されちゃうー」と呟いた。その表情がおかしくて、嬉しくて、そして寂しくて……京子も笑った。 「じゃあ、頑張ってね」 「あ、うん。さんきゅ。京子ちゃんも体壊さんようにね」 「……うん。ありがとう」 小さく手を振って防音扉をぎゅっと閉めると、堪えていた涙が視界を潤した。せめて零れ落ちないように顔を上げて、足早に手洗いへ急ぐ。 声が好き。話し方が好き。笑い方が好き。困ったような表情が好き。気遣ってくれる優しさが好き。ドラムを叩く姿も、スティックを回す指先も、伏せる目線も、髪をかき上げる何気ない仕草も。 その全てが京子の心を抉る。 その全てが、京子の心を引き止める。 どんなに考えても、一矢を忘れる方法がわからない。 (誰か……) 誰か、助けて。 *** 携帯電話が鳴っている。 夜、自分の部屋に帰ってぼんやりとベッドの上で膝を抱えていると、テーブルの上に放り出した携帯電話から軽快なメロディーが流れて来た。 着信音にGrand Crossの設定をしてしまっている辺り、一矢を忘れる気がないのかと自分を疑いたくなる。 手を伸ばして着信表示を見ると、修平だった。出る気になれずに、京子はぼんやりしたまま画面を見つめた。 やがて、留守電に切り替わる。修平は留守番電話にメッセージを吹き込むのが苦手らしく、京子が出ない時はメッセージも残さない。 ぷつりと切れて静かになった携帯を黙って眺めながら、京子はふとどうして修平は自分に電話をかけてくるのだろうと思った。 初めて電話が来た時、「会いたい」と言われた時こそどきっとしたが、今はそこに深い意味など何もないのだろうと思っている。 伊丹も言っていたように、年上に憧れるお年頃なのかもしれないし、クラシックが良くわからない京子が物珍しくて気楽なのかもしれない。 いずれにしても、修平から電話が来ることに必要以上の警戒や勘繰りはしないことにしている。 けれど、今日はなぜかふと気になった。事務所で一矢と別れてから、ずっと一矢のことを考えていたせいかもしれない。 京子が誰かに電話をかけるとすれば、用事があるか、おしゃべりをしたいか、そのいずれかが主な目的だ。しかしながら例外も存在する。 声が聞きたい――京子が一矢に電話をかけることが出来れば、そんな理由で電話をかけることもあるだろう。 修平は、京子に用事があるわけではない。おしゃべりをしたいと言うには、話下手である。男の子だから、女同士のように「お話しよー」と言う感覚で電話をすることも余りないような気がする。と言って、声が聞きたいからとは考えにくい。 どうして修平は、京子に電話をかけてくるのだろう? 「暇つぶし?」 新鋭のピアニストである修平は、忙しそうなのだが。 片手で携帯電話を弄びながら、京子はベッドの上で膝を抱えたまま壁に背中を預けた。 どうにも気持ちが上向かない。一矢と久々に会話をしてしまったせいだとわかっている。一時の幸せが、こうして後に苦さを引き連れてくる。 「今、何してるのかな」 もう家に帰っただろうか。それとも紫乃とデートだろうか。 京子と付き合っていた頃に住んでいた部屋からは、一矢はもう引っ越してしまった。新しい部屋は三軒茶屋だと聞いてはいるが、もちろん行ったことはないし場所も知らない。 一矢の姿を思い浮かべても、その背景はぼんやりとしたままで、浮かぶ情景の部屋は過去のものであることが寂しい。 ため息が止まらず、何もする気が起きず、食欲もないので、ただただぼんやりと膝を抱えて時間を過ごしていると、再び携帯に着信があった。 先ほど手近に引き寄せてベッドの上に放り出したままの携帯には、修平の名前が表示されている。 それを見て少し、珍しいなと思った。 修平は多い時で週に二回くらい電話をかけてくるが、いずれも五分程度の短い会話で終わる。そして、京子が出なかった場合にも、特にしつこくかけてくるようなことはない。一晩で二度も電話が来ることは今までになく、それが京子の目を引いた。何かあったのだろうか。 「はい」 気にかかって、今度は着信を受ける。通話ボタンを押すと、まず最初に街のざわめきが耳に飛び込んできた。 「あ、京子さん?」 「はい。……今、外?」 「そうです。あの、代官山の駅前……なんですけど」 少し言いにくそうに言われて、京子は目を丸くした。代官山の駅前? すぐそこである。 「どうしたの? 代官山で何かあったの?」 尋ねる京子に、修平は一層口篭った。それからしどろもどろに何か答える。が、街のざわめきに消されて聞こえない。 「ごめんなさい、何?」 「あの、京子さんに、会えないかと思って……」 言葉に詰まった。 電話で話しこそするものの、会ったのは最初に電話があったあの一度きりである。あれから一ヵ月半ほど経過している。 「あ、や、今どっか外にいるとか、仕事中だとか、用事があるとか、何かそういうのがあったら別にそのいーんですけど。まあ、出来ればってだけの話で……」 つくづくと修平は手馴れていないようだ。京子の答えより先に慌てたような先回りの言葉が聞こえた。それも最後には小さくなってしまう。おかしい。 「ううん、平気。今、家だから」 くすくすと笑いを漏らしながら答えると、修平の声が明るくなった。 「本当ですか」 「うん。駅前に行けば良い?」 「出てきてもらうのも悪いんで、俺がそっちに行……あ、その方が悪いですね」 気を使ったつもりで、一人暮らしの女性の部屋を尋ねる方が却って悪いと言うことに遅ればせながら気がついたらしい。どうにも気が回りきらないところが、若い男の子らしくて可愛く感じてしまう。元々京子は、母性本能が強い。 「ふふ。この前のところに行けば良いですか?」 「あの、はい、はあ、じゃあそうしてもらえますか? 何か、悪いんすけど」 「いえ。じゃあ五分後くらいにはつくと思います」 通話を切って、窓を開けてみる。気づけばいつの間にか十月も半ば――秋も深まり、夜ともなればそれなりに寒い。 上着を着て駅へ向かうと、代官山の駅前はまだ行き交う人の姿が少なくなかった。 (昔、一矢が言ってたっけ) 地方に行くと、東京が都会だと感じると。 人の多さ所以だろう。あの時一矢は、地方に行くと二十時くらいには人気が感じられないと言っていたのだったか。今の時刻は二十一時半である。 「こんな時間に呼び出して、ごめんなさい」 先日と同じように壁に背を預けていた修平は、京子の姿を見ると体を起こして駆け寄ってきた。こうして見ると、やはり十七歳だとは少し信じられなくなる。電話口で話している分には、時折見せる幼さが可愛くもあるのだが。 海外に留学したり、上品な大人たちと交流したりしているせいなのだろうか。落ち着きと品が、修平を年齢以上に大人びて見せるのだろう。それは少し、可哀想な気もした。 「平気。仕事をしてる時は、もっと遅くなることだっていくらでもあるんだし」 「あ、そっか」 「うん」 屈託なく笑う京子に、修平は少しだけ眉根を寄せて京子を見下ろした。背の高い京子より、修平はほんの僅か背が高い。 「大変ですね」 自分のことを横に置いておいて心配げな修平に、京子はまたおかしくなった。 「やだな。そんなことないです。修平くんだって大変でしょ? まだ高校生なのに」 「俺は……あ、立ち話もアレだし、ちょっと歩きますか」 「そうですね」 西口から少し緩く続いている坂道を、ゆっくりと並んで歩き出す。代官山の駅周辺には、京子の知る限り公園などはない。人の多い通りから離れ、何となく人気の少ない方向へ歩きながら、吐く息がうっすらと白いことに気がついた。いつの間にか、もう冬がすぐそこまで忍び寄って来ているのだ。 一矢と初めて二人で会った時も、寒い冬の日だった。 「あの、どうしても京子さんに最初に言いたくて」 「え?」 切なく目を細めてため息をついていると、そんな京子には気がつかずに修平が高揚したように口を開いた。気がつかなかったが、どうやら少し興奮しているようだ。 「言いたくてって? どうしたんですか」 「俺のアルバム曲、先月の有線リクエストのクラシック部門で、一位になったんです」 「ええっ?」 仰天して思わず足を止めてしまった。大きな声を上げてしまった自分に気がついて口を押さえる京子に、修平が笑った。 「クラシック部門だから、京子さんたちがやってるポップスとかロックなんかより全然目立たないですけどね」 「そんな!」 とは言ったものの、確かに京子も今までクラシック部門など目に留めたことがない。目に留めてもわからない。日本では、ポップスやロックに比べて、クラシックの需要は偏っている。そして日本のマーケットは若者至上主義である。 とは言え、京子だって音楽業界に身を置いてきて、何らかのランキングで一位に入ることがどれだけ凄いことなのかは身に染みて知っているつもりだ。Opheriaは、アルバムにしてもシングルにしてもリクエストにしても、一位など記録したことは一度もない。 「凄い」 素直に感嘆を表情に浮かべて呟く京子に、足を止めて振り返っていた修平は嬉しそうに全開の笑顔を見せた。 「おめでとう。凄い。凄いですね」 「ありがとう。……うん。京子さんに褒めてもらえたから、俺も俺を褒めてやりたい気分」 「ふふ。何ですか、それ」 再び歩き出しながら、深く気に留めずに笑う。 が、修平が続けた言葉に、京子は笑みを飲み込んだ。 「だって俺、京子さんが好きだから」 ――え? また足を止めてしまった京子の少し先まで歩いて、修平も再び足を止めた。住宅街の街灯の下、振り返る修平の顔に影が揺れる。 「何……?」 「俺、京子さんのこと、好きなんだ」 最初はどこか躊躇いがちに、けれど次第に開き直ったように、修平ははっきりと言い切った。言葉が頭の中で形にならず、反応が遅れる。そしてその意味を理解した瞬間、京子の心臓は大きな音を立てた。 「やだ、からかわないで下さい」 「からかってません」 足を止めたままの京子と修平の横を、駅に向かう人が急ぎ足で過ぎていく。けれど、周囲の目線を気にするような心の余裕がなかった。顔が熱くなる。胸の内の鼓動が、加速していく。 「だって。そんなの信じられないです」 「どうして?」 「どうしてって……」 修平から目を逸らしながら、京子はその場に立ち竦むのをやめて歩き始めた。少し遅れて、修平もそれに続く。 どうしよう。何を言えば良いのだろう。好き? 好きって? 修平が京子のことを? そんなまさか。……まさか。 「だって、修平くんと知り合って、まだそんなに経ってないし」 時間の経過は果たしてどれほど重要なのだろう。 自分で言いながら疑問が湧く。 京子が一矢に惹かれ始めたのは、再会して間もなくだ。 「関係ない、そんなの」 どこかむくれるように、修平が反論した。返す言葉を探す。 「それに、わたしのこと良く知らないし」 知りたいと思う気持ちこそが、好きだと思うことに繋がるのではないだろうか。 京子とて、一矢を深く知ってから好きになったわけじゃない。 「それはそうかもしれないけど、でもどんな人かは全くわからないわけじゃない。もっと知りたいと思うのは、駄目なんですか」 「と、年下だし」 修平が一瞬押し黙った。 振り返ると、修平は悔しそうな表情で京子から視線を背けた。 「年下は駄目ですか」 「……」 「頼りない? そりゃあ、京子さんから見たらガキかもしれないけど」 その表情を見て、修平にはどうにも出来ないことで傷つけたことを感じた。激しい後悔が胸の内に生まれる。けれど、取り消す言葉も出ては来なかった。代わりに、追い討ちをかけるような言葉が京子の口から零れ出た。 「わたし、好きな人がいるの」 修平の目が京子を向く。愕然としたような悲しい色が、その瞳に揺れている。 「そう、です、か」 「はい……」 そのまま、修平は言葉を探すように、あるいは心を整理するように沈黙していた。京子もかけるべき言葉がわからずに黙った。冷たい風が、二人の髪を揺らす。 やがて修平が、顔を上げて悲しげな笑顔を覗かせた。多分、他にどんな表情をして良いのかわからなかったのだろう。 「そっか。だったら、しょーがねーや……」 「……」 「上手くいきそうなんですか? 彼氏、じゃないですよね」 ずきんと胸が痛む。嘘はつけないので、京子はさらさらの髪を揺らして顔を横に振った。 「全然。別れちゃったんです」 「え? 別れた?」 「はい……。もう、彼には新しい彼女がいます。だけど……」 話しながら、先ほど心の奥底へ隠した涙が込み上げてくる。一矢の笑顔は、もう二度と手に入らない。 「だけど、どうしても、忘れられなくて」 一矢の前では飲み込むことが出来た涙も、今は飲み込むことが出来なかった。両手で口元を押さえて嗚咽を堪える京子に、修平が困ったように片手を挙げたり下げたりしている。 「ええと、あの、すいません。余計なこと思い出させちゃったみたいで」 「ご、ごめんなさい。ずっと堪えてたから、何か、口に出したら……」 止まらなくなってしまった。 口を開くと涙が込み上げるので、京子は言葉を途切れさせた。修平もかける言葉が見つからないように黙っている。 やがて、修平が腕を伸ばした。 (え?) 気がついた時にはその胸に引き寄せられていて、パニックの余り涙が引っ込んだ。 「しゅ、修平く……」 「泣いていーすよ」 ぎゅっと京子を腕に抱き締めたまま、修平の声が耳元で聞こえる。脈打つ心臓と動揺で、正直泣くどころではない。 「え、え、え、あの……」 「ごめん。余計なこと言わせて」 「あの、あの、修平くん」 「はい?」 「……び、びっくりして、涙が収まっちゃいました」 おずおずと申告する京子に、見下ろした修平が目を瞬いた。それから困りきって真っ赤な京子の顔に、突然吹き出す。 「やだ、何で笑うの……」 「だ、だって」 肩を揺らして笑う修平にどうしたものか戸惑っていると、修平は一度緩めた腕に改めてぎゅっと力を込めた。 「あの……」 「せっかくだから、もう少しこのままでいさせて下さい」 「えっ? そそそんな。ここ困ります。ずるいわ、それ、何か」 言いながら、それほど嫌ではないのはどうしてだろう。それゆえに強く嫌がることも出来ない。体を包む修平の腕が温かかった。 「ずるいですね。でも俺、もっとずるいことも考えてます」 「え、駄目。何?」 「駄目って。……京子さん、好きな人がいるかもしれないけど、振られちゃってるんですよね」 「……」 「だから、頑張っちゃおうかなと思ったりしてます」 まるで壊れ物を抱くように大切に京子を抱き締める修平の言葉に、何だか頭が回らなくなってくる。耳元に聞こえる透明感のある声が、少しだけ、心地良かった。 「年下だけど、駄目ですか」 「……」 「そんなこと、気にならないように頑張るから」 そこでようやく修平の腕から解放されて京子がほっと息をついていると、そんな京子に修平が小さく微笑んだ。 「見てて下さいよ」 「え?」 「誇れる奴になってみせるから。だからそれまで、答えは保留にしてて下さい」 「ちょ……駄目……」 「聞こえない」 何? 京子の返事に両耳を塞いで聞こえないフリをする修平に、唖然とする。 こんな強引な奴だったのか? 抱いた繊細なイメージは何だったのだろう。 「ちょっと、修平くんっ」 「聞こえない聞こえない。まだ返事は聞きたくない」 両耳を塞いだまま歩き出した修平の背中を追って声を上げるが、修平は尚も言い張った。それからようやく耳を塞ぐのをやめる。 「だって!」 「京子さん、まだ俺のこと、良く知らないでしょ?」 「それは……」 「だったら答えを決めるのは早過ぎる。もう少し、俺のことを見てから考えて下さい」 うっと言葉に詰まった京子に、先を歩く修平が少しだけ強気な笑顔で振り返った。 「こう見えても俺、結構努力家なんです。覚悟して下さい」 ◆ 5 君のためのノクターン 春――まだ冷たい風の名残が、花の香りを乗せて来る。 南の方の地方では、ちらほら桜の花咲く噂も聞こえ始めて来た。 今年の春に高校を卒業した修平は、来月にはオーストリアへ再び留学してしまう。 ホールの扉をキィっと押し開けると、中から繊細なピアノの音が聞こえてきた。邪魔をしないようにそっと中に滑り込んだ京子は、静かに客席の一つに腰を下ろした。 会場には誰もいない。ピアニストである修平と、たった一人の観客である京子以外には、誰も。 以前はクラシック音楽などまるで知らなかった京子だが、修平と知り合ってから少しずつ知識が増えてきた。今ホールに響いているのは、メンデルスゾーンの『歌の翼に』と言う曲だ。朝を思わせるアルペジオの伴奏が流れるように美しく、穏やかな優しい気品のあるメロディが修平に似合っているような気がする。 京子が来たことに気がつかず、一心にピアノを奏でる修平を眺めながらピアノの旋律に耳を傾けていると、やがて演奏が終わった。もう間もなく、この姿を間近で見られなくなる。 誤魔化すように拍手を送ると、修平が顔を上げた。 「何だ。いつ来たの?」 「今さっき。修平くんに言われた通り、ちょうど三十分前に」 今日は、修平のコンサートがある。京子も招待をされているが、開場の三十分前には来てよと言われ、何とか仕事を抜けて駆けつけたのだ。これを最後に、修平は日本での活動が少なくなる。オーストリアの大学で本格的に学びながら、あちらでの活動が増えるかもしれないと聞いている。 ピアノの前の椅子に掛けたまま、修平がステージから京子を手招きした。応じてステージのすぐ前の客席まで下りていくと、ステージの上から修平が少しだけ寂しそうに京子を見下ろした。 「寂しいな。しばらく、京子さんに会えなくなる」 「……あっちで、可愛い彼女ぐらいすぐに出来るよ」 自分の言葉に、微かに心が騒いだ。それに気づかないフリをして笑みを浮かべると、修平が不貞腐れたように唇をへの字に曲げる。 「ずるいよな、俺の気持ち知ってるくせに」 「だって」 修平に引き摺られるように、何度か二人で会った。一矢への想いを消しきれないまま、素直な好意を向けてくる修平に心揺れなかったと言えば嘘になる。正直に言えば、惹かれているのかもしれない。 最近になってようやく、一矢のことは過去のことだと思えるようになって来た。反面、修平のことを考える時間が増え始めた。 にも関わらず、京子は修平に応えなかった。 (だって……) 修平が再び留学してしまうことは、以前から知っていたことだ。どうせ遠く離れてしまう。それに何より……。 (遠いよ) 修平のことを考える時間が増えれば、いろいろな考えが京子の気持ちを妨げた。そばで見れば見るほど、住む世界が違うような気がして仕方がない。彼がいるのは、京子には近付けない領域だ。 ツインヴォーカルとして新しいユニットを始動した京子だが、修平のやっている音楽とはその質が違う。――つり合わない。 そんなことは言えず、言葉を途切れさせてしまう京子に、修平はため息をついた。指先で軽く鍵盤を鳴らしながら、小さく呟く。 「結局……」 「え?」 「結局、応えてもらえなかったなーと思ってさ」 それが何を指しているのかがわかるので、京子は口を閉ざしたまま修平を見上げた。京子の視線を感じているだろうに、修平はこちらを見ずに寂しい笑顔で続けた。 「やーっぱ駄目だったんだなー、俺じゃ。でもさあ」 「……でも?」 「でも俺、来月から日本いなくなるけど、でもさあ……」 「うん」 「……諦めらんねーよ」 胸が苦しくなってくる。修平の切実な想いが、押し殺した声と苦しげな横顔に滲んでいる。 「どうしたらいーのかなー……」 独白のような呟きに答える言葉を、京子は持っていなかった。代わりに、自分自身に問いかける。 このままで、本当に良いのだろうか。 (いいのよ、それで) 修平はまだ若い。若いだけではなく、未来に可能性を持っている。海外で心置きなく音楽を学び、刺激を受け、伸び伸びと成長すれば良い。受ける刺激の中には、きっと恋愛も入るだろう。中途半端に日本に、それも『売る為の』音楽なんてやっている自分への未練など持たない方が良いに決まっている。修平に似合うのは、もっと上品で可愛らしい女の子だ。 クラシックが一番で、ロックやポップスがその下だなどとは言わない。けれど京子のやっているものは、修平と比べれば音楽などと言えないような気さえする。恥ずかしくなる。 (これで、いーのよ) 下手に応えたりすれば、その分修平の傷が深くなる。それは京子自身が身を持って知っている。忘れるのは、何の関係も持たないただの片想いのままの方が一番楽なのだ。一時的にも特別な存在になってしまうと、忘れるまでの道のりは長くなるのだから。 修平がどう言ってくれても、京子は彼とはつり合わない。 無邪気な好意をぶつけてくる修平に引き寄せられそうな気持ちを、京子は自分で押し殺して来た。 「何か、リクエストある?」 吹っ切るように、修平が京子に笑いかけた。長く綺麗な指が鍵盤の上を軽く踊る。京子は少し考えて、初めて修平がピアノを弾く姿を見た曲を口にした。 「ショパンの、ノクターン」 「夜想曲第2番 変ホ長調でございますね。かしこまりました」 おどけるように言って、修平はピアノに向かった。 「京子さんの為だけに」 指が緩やかに優しく鍵盤の上を滑り出す。 名曲の多いショパンの曲の中でも、多くの人に愛される有名な楽曲だ。タイトル通り、優しい月の光が零れる澄んだ夜を思わせる、叙情溢れる静かな優しい旋律が胸に響く。 ゆったりとした心安らいでいくような音……なのに、なぜだろう。 (どうして……) 涙が、零れるのは。 こうしてピアノを弾く姿を見るのは、きっと最後になるだろう。海外に行って離れてしまえば、再び日本に戻ってきた時にはもう他人に戻ってしまうに違いない。 もうこんなふうに、二人だけの優しい時間が訪れることはないだろう。 (嫌……) 涙を拭うと、音を追う意識さえも途切れてしまいそうで、京子は頬を拭うことも出来ずにピアノを弾く修平を見つめていた。 (遠くに行かないで……) それは無理だ。彼には彼の夢がある。海外で本格的に勉強することが必要だと判断したのなら、それを止める権利は誰にもない。 足を引っ張るわけにはいかない。心残りになりたくない。京子のことなど忘れて、足枷など何もなくやりたいように自由に――……。 (嫌……) まだ彼は、若いのだから。 一際力強い旋律を経て、再び優しく静かに演奏が終わる。 「どう……」 手を止めて息をついた修平は、顔を上げて京子に笑顔を向け、そして笑顔を飲み込んだ。京子の頬を、幾筋もの涙が伝わり落ちた。 「京子さん」 言葉が出ない。口を開いたら「行かないで」と言ってしまいそうだ。涙を堪える努力は全く無意味だった。 「何で泣いてるの……」 戸惑ったように修平が立ち上がる。ステージからすとんと飛び降りて、京子の前に覗き込むように膝をついた。 口を開けば足を引っ張る言葉しか出てこない。黙ったまま、顔を横に振る。――もう、会えなくなるのだ。 それを痛感することが、これほど苦しいとは思わなかった。 寂しくなるなと思ってはいたけれど、どうしてこれほど……。 「か、感動、かな」 しばらく声もなく涙を落としていた京子に、修平も無言のままそばにいた。やがて気持ちを落ち着かせて、京子は冗談めかした笑いを作り上げながら、そう言葉を押し出した。 「感動、しちゃったのかな」 修平は微かに眉根を寄せたまま答えない。心を見透かされているようで、京子は目を逸らした。 もしかすると、ようやく見つけた幸せだったのかもしれない。ようやく見つけた、次の恋だったのかもしれない。 だけど、手が届かない。 「京子さん」 京子の前に膝をついたまま、修平の片手が髪を撫でる。触れないで……また泣き出してしまう。 「日本に帰ってきたら、京子さんに真っ先に会いに来ていい?」 「駄目……」 「だってさ」 顔を上げられなくて、辛うじて上目遣いで修平を見ると、修平がきゅっと顔を歪めた。そのまま、髪を撫でていた片手で京子を抱き寄せる。 「京子さん、寂しい顔してる」 「そんなこと、ないもん」 「自惚れ? 泣いてる理由は、寂しがってくれてるわけじゃないの?」 「……」 額を押し付けた修平の肩から体温が伝わる。微かな匂いが、もう会えなくなるのだと言う想いを一層強くさせた。 「……って」 もう駄目だ。言ってはいけない。けれど意思に反して、京子の口は言葉を押し出した。 「だって、わたしと修平くんじゃつり合わないよ」 「何言ってんの?」 「オーストリアで、同じ道を目指す素敵なコ、見つけて。わたしじゃあ、修平くんの世界を理解してあげられないよ」 掠れた途切れ途切れの言葉に修平が黙る。京子の気持ちを理解してくれたかと、苦しさ混じりの安堵を覚えていると、頭のすぐ真上から呆れたような声が聞こえた。 「馬鹿」 「ば、馬鹿っ?」 「そんなこと、考えてたの?」 顔を上げると、修平は声だけではなく顔まで呆れていた。 「だって修平くん、まだ若いじゃない。今からたくさん勉強して、いっぱい恋愛して……日本でわたしなんかが待ってても、足枷にしか……」 「馬鹿」 「……繰り返さないで」 唇を尖らせて抗議をするが、修平は京子を改めて抱き寄せながらため息混じりの言葉を吐き出した。 「俺は、京子さんが好き。三歳くらいの年の差も気にならない。他の恋愛がしたいなんて思ってない。他の誰かに気持ちが揺れることもない」 「そんなのわからない……」 「わからないよ。わからないかもしれないけど、わかるよ」 「……」 「俺の世界を理解して欲しいわけじゃない。俺のことをわかってくれればいい。それじゃ、駄目なの?」 理屈も何もない強引な言葉に、京子は思わず黙った。理屈抜きの真っ直ぐな気持ちが、却って胸に痛かった。 「ねえ。待っててよ」 しばらくの沈黙を置いて、やがて修平がぽつりと言った。答えない京子に、もう一度繰り返す。 「俺が帰って来るのを、待っててよ」 腕を緩めて京子の顔を覗き込む瞳は真剣そのものだ。また涙が込み上げる。 「馬鹿」 「え、今の俺、どこが馬鹿だった?」 「涙が、止まらなくなるじゃない……」 そんなふうに言われたら、待ってて良いのかと思ってしまう。 修平の為を思って、このまま離れようと思っていたのに。 「待っていたくなるじゃない……」 拗ねるような京子の抗議に、修平が笑った。そのまま、コツンと京子の額に自分の額を押し付ける。 「……待ってて、いいの?」 「待ってて下さい」 「本当に? 足枷に、ならない?」 「ならない。なるわけがない」 本当に良いのだろうか。待っていても良いのだろうか。 「京子さん」 「はい」 「俺のこと、好きだって言ってよ」 額をくっつけたままの間近な場所で言われて、京子は耳まで赤くなった。涙でぐちゃぐちゃの上に火照っていては、もう何だか見せられたものではない。 「な……」 「言って。そしたら俺、京子さんが待っててくれるからこそ頑張れる」 「強引ね」 やや呆れて呟くと、修平がくしゃりと笑った。 「だって少しぐらい強引に出ないと、京子さん、駄目だもんね」 「……」 「待っててくれる?」 「……待ってる」 「俺のこと、好き?」 心臓がとくんとくんと音を立てている。 速い鼓動、でもそれは決して悪いものじゃない。 ――幸せへの、カウントダウンのようだ。 「……好き」 「やったっ!」 無邪気な笑みを浮かべると、修平の唇がそのまま素早く京子に重ねられた。 「ちょっ……」 「やったあ!」 まるで盗むようなキスの後、修平ははしゃぐように飛び跳ねている。クールな正装が形無しだ。 真っ赤なまま唇を抑えて声を上げた京子は、その姿に思わず小さく笑ってしまった。ピアノを弾いている時とは別人のような姿――これではまるで、子供である。 (ま、いっか) その背中を呆れ半分で見つめていると、修平がくるりと振り返った。 「頑張ってくる。そして、京子さんのところに帰るから」 待っていることが許されるのなら。 それを修平が心から望んでくれているのなら。 「うん。……待ってる、からね」 この先もずっと成長していく姿を、誰より近くで――……。 ◆ エピローグ 成田空港は、帰省客で混雑していた。 南ゲートの付近にあるソファに腰を下ろし、京子はそわそわと電光掲示板と時計を見比べていた。 オーストリアのウィーン国際空港を発った飛行機は、三十分ほど前に到着しているはずだ。しかしながら一向に乗車客がゲートを出て来る様子がない。 修平がオーストリアへ留学して一年と九ヶ月。もう少し頻繁に日本へ帰るかと思ったが、向こうへ行ってしばらくは勉強と生活に追いまくられていて、なかなか帰国出来ないと言っていた。日本とオーストリアでは時差が八時間もあるから、電話の一本もなかなか大変である。 その修平が、ようやく日本へ帰ってくる。もちろんまだ留学中ではあるが、今年の正月には一度帰省をすると連絡があった。今日の九時半に到着する便で、修平は帰国してきたはずだ。 修平は早くから京子に気持ちを伝えてくれていたのに、京子が戸惑っていたせいで付き合うまでに無駄な時間を必要とした。 お互いの想いを確認しあってからは、ほんの数週間足らずで修平がオーストリアへ行ってしまった。 以降、二年近くの歳月のほとんどは離れ離れで過ごしている。長期の休みに京子が一度オーストリアへ遊びに行った以外は、電話やメールに頼る以外になかった。 (き、緊張する……) どきどきする心臓を押さえながら、椅子に座っていても落ち着かなくて立ったり座ったりしてしまう。 出国ゲートをちらちらと見ていた京子は、吐き出されてきた日本人客の姿に椅子から跳ね上がった。 海外旅行客の中では一際浮く、リュックだけの軽装――修平だ。 「修平っ」 駆け寄る京子に修平が気づく。次の瞬間の笑顔を、京子は胸に刻んだ。 「京子」 「おかえりっ」 広い胸に抱き締められて、京子も精一杯抱き締め返す。 「十二時間の空の旅の疲れが吹き飛ぶ」 「ねえ、また身長伸びた?」 「まさか。さすがにもう成長期は終わって……京子、縮んだ?」 「……縮むはずがないじゃないの」 離れていた時間の前に、人目など何の障害にもならない。短く唇を重ね合わせた後の会話に、お互い顔を見合わせてくすくすと笑う。 歩き出しながら、繋いだ手から修平の存在を感じて、京子は幸せに目を細めた。 「ピアノ、聴かせてね」 「うん。腕上げてるよ。驚くなよな」 「言うなあ。楽しみにしてる」 不安は、ないわけじゃない。けれど、今の自分は知っている。修平が、自分のことをどれほど大切に想ってくれているのか。 「何が聴きたい?」 「修平のオリジナルの曲」 「おっけぃ」 育ちは違うかもしれない。見ている世界は違うかもしれない。 でも、お互いが望んでいれば歩み寄っていける。近付いていける。理解し合える。 「あ、でもその前に」 「うん?」 「やっぱりショパンのノクターンが聴きたいな」 恋は、悲しみも切なさも連れて来るかもしれない。時に心をずたずたに引き裂くものなのかもしれない。 でも、他では得られない至上の幸せも与えてくれる。 あの頃は、こんな幸せがあるとは知らなかった。明日と言う日を呪いたくなった。 だけど今は、生まれたことに感謝をしよう。出会えたことに感謝をしよう。 世の中の誰より、自分の幸せを信じられる。 「じゃあ、京子の為だけに」 夜を迎えることがあっても、その後には必ず朝日が射す。 絶望を感じても、目を閉じなければ何かが見える。 もう膝を抱えて泣いているだけの自分には戻りたくない。 遠くても、離れていても、信じあえる幸せをくれたあなたに――。 「……ありがとう」 |
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2008/12/20 ▼あとがき(別窓) |
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