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▼ Request EX File3 : ターニング・ポイント(ZERO / Blowin') 
「White Road」から7ヵ月後です
◆ プロローグ

 あなたが好き。
 あなたが見つけさせてくれた、うたが好き。
 誰にも恥じないあたしでいたい。
 誰にも恥じない、あたしになりたい。
 あなたのそばにいることを、誰からも認めてもらえるように。
 これからも歌い続けていくことを、受け入れてもらえるように――――――……。



◆ 1

「飛鳥ちゃんは、何飲む?」
 全身が熱い。
 ステージを終えた後はいつも、全身が滝のように汗で濡れて、体の芯が火照っているような気がする。
「冷たいお水下さいー」
 あたしの周囲でも、Opheriaのメンバーがどっかテンション高い顔で、だけど疲れて声も出ないみたいに、各々椅子や床に座り込んでいた。
 楽屋に戻って椅子に倒れこむようにお願いするあたしに、マネージャーの小早川さんが笑いながら冷蔵庫を開けた。中から良く冷えたペットボトルを取り出して、あたしの方まで持って来てくれる。
「ありがとう」
 お礼を言って受け取ると、あたしは蓋を捻って勢い良く水を喉の奥に流し込んだ。冷たい水が体の隅々まで行き渡るようで、火照った熱を吸い取ってくれる。
「はあッ……生き返ったーッ」
「お疲れさま。今日、凄く気合入ってたんじゃない?」
「え、は、えぇと、あはは……」
 突っ込まれて、曖昧に笑う。『彼』に、あたしのソロを初めて見てもらったからとは、ちょっと言いにくい。

 もうじき、あたしがヴォーカルを務めるバンドOpheriaは、解散する。
 その後にメンバーそれぞれがどうするかはもう決まっていて、あたしはバンドではなくソロでデビューすることが決まっていた。
 解散に先駆けてソロの活動を始めることになっていて、今日、Opheriaのライブの前座で「ソロの上原飛鳥」として3曲だけ歌わせてもらった。
 人前に、ソロとして立つのは今日が初めて。
 それが緊張したってのは、もちろんある。
 それに、今日は……。
「飛鳥〜。早くシャワー浴びてこないと、『ダーリン』が待ってるんじゃないのぉ?」
「ちょっとおおおおッ」
 からかうように言ったのは、ベースの真名ちゃんだ。その言葉に、あたしはもう一度口に運びかけたペットボトルを下ろして怒鳴った。きっとあたしの顔は今、真っ赤。
「照れることないじゃないのよぉ〜。あたしたちの知らない間にもう半年くらい付き合ってんでしょお?」
「うぅぅぅぅ」
 唸るあたしに、最初から全部知っているギターの京子ちゃんがくすくす笑う。
 あたしが自分の口で言ったわけじゃないのに、少し前くらいからあたしが付き合ってるって話が漏れ始めているらしく、真名ちゃんは時々こうしてあたしのことをからかったりする。
 もぉぉ……どこから漏れるのよぉ〜……。
「真名ちゃん、そんなにいじめないの。言えなかった気持ちは、わかるでしょ?」
「言わなかったことを責めてるわけじゃないわよ。飛鳥が彼氏を作ったことを責めてるのよッ」
 そ、そんなことを責められても……。
「そんなこと言ったら、アスカ、一生ひとりでいなさいってことじゃないのよお」
 反論するあたしに、真名ちゃんが床に座り込んだままで人差し指をびしっと突きつけた。
「そうは言わないけど。あたしより先に彼氏作るなんて、許されない」
「ひど過ぎる……」
「飛鳥ちゃん。如月さん、待ってるんじゃないの?」
 あ、そうだった。
「うううん。そうだね。シャワー浴びてこよッ」
 京子ちゃんに軽く宥められて、あたしはペットボトルを置くとようやく椅子から立ち上がった。



◆ 2

「どうだった? あたしのソロッ」
 ライブの打ち上げもちょこっと顔を出すだけに留めて速攻彼氏の部屋に飛んできたあたしが尋ねると、彼氏――彗介けいすけがキッチンからあたしのマグカップを持って来ながら、小さく笑った。
 付き合い始めて7ヶ月。
 大好き過ぎて、そこに彼がいることさえ信じられなかったあたしは、最近になってようやく彗介があたしのそばにいてくれることに慣れてきた。
 車の中で手を繋いだり。
 困った時に、抱き締めてくれたり。
 部屋の合鍵をくれたり。
 その腕の中で、朝を迎えたり。
 ……少しずつ、少しずつ、距離を縮めていくことで、知っていく。
 どれほど彼が、あたしのことを大切に想ってくれているのか。
 お互いにとってお互いが、失えない大事なものなんだなってことが、最近になってようやくわかってきた気がする。
「ソロは、良かった」
 目を伏せてちっちゃく笑いながら言う彗介の言葉の意味を悟って、あたしはそっと唇を尖らせた。
「そうやっていちいちOpheriaを落とす……」
「落としてるわけじゃない。素直に感想を言うとそうなる」
 それから彗介は、思い出したように「あ」と小さく呟いてから、しらじらしくにこやかな顔で付け足した。
「ソロの最後の曲、良かったな。あれ、誰の曲?」
「…………あなたでしょッ!?」
 怒鳴るあたしに、彗介が吹き出した。わかりきってること聞かないでッ。本当に忘れてたら記憶喪失じゃないのッ。
 笑いながらすとんとあたしの隣に腰を下ろす彗介の肩に、受け取ったマグカップを両手で包み込んでこてんと軽く寄りかかる。彗介が軽く、あたしの肩を抱き寄せた。
 でも、やっぱり、すっごいことだよなあ〜って、今も思う。
 Blowin'の如月彗介……って言ったら。
 人気バンドのギタリストで、メロディメーカーなんだもん。
 今年の冬にも日本武道館でライブをやるって聞いてるし、来年の夏には東京ドームをやるかもしれないんだって聞いた。
 その人があたしのソロデビューの為に曲を作ってくれて、そんでもって彼氏だったりする。
 まだまだ全然片想いでしかなかった頃、彗介が何気なく言った「俺が曲を作ろうか」と言う言葉は、今こうして現実になっている。
「でもやっぱ、不安だな〜。あたしにひとりで出来るのかな〜」
 マグカップを両手でさすりながら呟くと、腕を伸ばしてテレビのリモコンを引き寄せていた彗介が小首を傾げてあたしを見た。
「飛鳥なら、平気だろ」
「今日来てた人はね、Opheriaのこと好きでいてくれた人たちでしょ? だったらまだわかるんだけど、他の人とかに受け入れられなかったらどうしようって考えちゃうよぉ」
 今日はまだ、Opheriaの為に集まってくれた人たちのいる場所で歌ったから、そんなに怖くなかった。
 だって、Opheriaを好きってことは、あたしのことも好きでいてくれる可能性が高いんだし。
 だけど今度、Opheriaとは無関係に、あたし単独で……ソロとしてイベントに出させてもらうことになっている。
 それが、怖い。
「考えるなよ。どうするもこうするも、自信持って歌ってればいいんじゃないの」
 考え込んでしょげるようなあたしに、彗介は顔を覗き込んで安心させるように笑ってみせた。同時に、あたしの頭を軽く撫でてくれる。
「俺が保証するよ。飛鳥の歌は、認められる。今日見てた客だって、次も絶対に飛鳥を応援する。そんなに、不安な顔をするなよ」
「うん……」
「Opheriaより、俺はソロの方が飛鳥の力を発揮出来ると思う。広田さんもそう思ってるからこそ、飛鳥をブレインでソロデビューさせたいと思ったんだろ」
 広田さんは、あたしが……そして彗介が所属する音楽事務所ブレインの偉い人。
 いろいろ揉めたりとかもしたけど、でもきっと、あたしの力になってくれるはず。
 ……そうだよね。まだ、始める前なのに、怖がってちゃ駄目だよね。
「うんッ……。ありがと」
 彗介の言葉で少しだけ落ち着いたあたしは、マグカップをテーブルに置いて、彗介の腕にしがみついた。



 ――――――その、翌日のことだった。



◆ 3

「小早川さん、どうしたんです? 難しい顔して」
 仕事の打ち合わせがあって、彗介の部屋から直接ブレインの事務所に行く。
 事務室にいるはずの小早川さんを呼ぼうと思って受付に近付いたあたしは、中から聞こえてきた事務員の山根さんの声に、首を傾げた。
 事務室の中には人の姿はほとんどなく、奥の方にある小早川さんのデスクの方へ受付の山根さんが歩いていく背中だけが見えた。あたしには、気がついていないみたい。
「うぅん……何か、一部で変な噂が流れちゃってるみたい」
「変な噂?」
 え、何?
 思わずどきんとして、受付の窓から身を隠してしまった。一瞬静かになった事務室の中から、再び声が聞こえてくる。
「何ですか。変な噂って」
「Opheriaの掲示板に、Blowin'のファンが一部流れ込んできてるのよね」
「え? それって、もしかして……アレですか?」
「うん……」
 何? 何? 何?
 『アレ』って?
(Blowin'のファンが……?)
 どきどきしながら、小早川さんの言葉を頭の中で繰り返す。その意味を考えて、あたしは手が微かに震えた。
(――彗介のファン……?)
「これはちょっとどれも掲載出来ないなあ」
 小早川さんが言っているのは、多分、Opheriaのオフィシャルサイトに置いてある掲示板のことだと思う。
 変な誹謗中傷とか書き込まれるとOpheriaのイメージダウンに繋がるから、掲示板への書き込みは小早川さんが目を通して問題なしと判断してから、認証されて反映されるようになっているって聞いてる。
「わりと、少し前からこういうのが混ざり始めたのよね。まあもうじきOpheriaのサイトは閉鎖しちゃうからいいんだけど……飛鳥ちゃんの公式サイトには掲示板はない方が良さそうかな……」
 ど、どんな書込みがあったんだろう。
 小早川さんに認証された書き込みは掲示板に反映されるからあたしたちも見ることが出来るけど、ブロックされた書き込みはあたしたちも見ることが出来ない。
 心無い書き込みをする人もいるから、あたしたちを傷つけないようにって配慮なんだと思う。
 だけど、凄く気になる。
「どこから流れてるのかな。飛鳥ちゃんと如月くんのことって」
「そういうのって、どこからでも流れますからねえ。Blowin'の方は、どうなんですか?」
「それはわたしじゃわかんないけど。でも、男性についてる女性ファンの怖さに比べれば、ねぇ……? 同じ情報が流れてるにしたって、如月くん自身は大して飛鳥ちゃんほどには攻撃されないんじゃないかな……」
「でもそっちに飛鳥ちゃんの、何か、その……」
「ああ……。そうね。まあ一応、裏仲さんに聞いてみた方が良いかなー」
「小早川さんッ……」
 2人の声を聞きながら、物凄く悩んでいたあたしは、思い切っていきなり受付の窓から中へ声をかけた。あたしの声に、2人がぎょっとしたように同時に振り返る。
「あ、飛鳥ちゃん。いつからいたの?」
「あたしにも、見せて下さい」
「これは……」
「あたしへの、悪口が書いてあるんですよね? ……あたし、知っておくべきだと思います」
 怖い。
 本当言うと、見るのなんか嫌。
 だけど、現実にそういう人がいるんだし、知っておかないと何かあった時に心構えが出来ないじゃない?
 これからはあたし、Opheriaのみんなのいない……ひとりで、歩いていかなきゃいけないんだから。
 小早川さんの返事を待たずに、あたしは事務室のドアへと回った。扉を開けて中に入っていくあたしに、小早川さんと山根さんが困ったように顔を見合わせる。
 それから、小早川さんがため息をついた。
「すぐ、捨てるからね」
「わかってます」
「落ち込まないでね。こんなこと、誰にだってあるんだから」
 そう言って小早川さんが示した画面は、ちょっと、衝撃的だった。

 ――上原、うざいよ。大して可愛くもないくせに。
 ――ぶりっこして彗介のこと騙してる。頼むから死んで。
 ――上原だったら、高倉の方がまし。Stabilisationたぶらかしてたんじゃないの?
 ――まじつりあわない。調子にのんな。別れろ。

 ひぇぇぇぇ……。
(こ、怖い……)
 全身が、かたかたと震える。
 見てられなくて、途中で目を逸らした。
 どこからこういう話が漏れるとか、何で知ってるとか、そういう以前に悲しかった。
 何で、こんなふうに言われなきゃならないんだろう?
 あたしは、一生懸命彗介のことが好きで、誰より好きで、きっと彗介もあたしのことを大切にしてくれて……なのに。どうして何も知らない人から、こんなふうに責められなきゃならないんだろう……。
 むかつくとか、怒るとか、そういうんじゃなくて、悲しくて涙が出そうだった。
 こんなふうに思われてるんだ。彗介のファンの人からは。
 わかってる、いろんな人がいることくらい。全部が全部そう思う人じゃないって思う。
 Blowin'は元々ファン層が男性が多いし、女性も音楽好きな人が多いし、そういう意味ではアイドルの熱愛報道とかの反響より全然少ないんだと思う。大体、報道されてないし。
 だけど、こういう人も確かに、いるんだ。
「飛鳥ちゃん? ごめんね、やっぱり言われても見せるべきじゃなか……」
「……いえ」
 声が、ちょっとだけ潤んだ。
(『つりあわない』……)
 つりあわないのかな。
 端から見てて、あたしと彗介って、似合わないのかな。
 こんなふうに見られているって知ったら、彗介も嫌だなって思っちゃうのかな。
(……ごめんね)
 お似合いだよって誰もが言ってくれるような彼女じゃなくて……。
「へーきです」
 泣き出しそうなのを飲み込んで、あたしは笑顔で顔を上げた。
 もちろん内心はばればれだろうから、小早川さんと山根さんが気遣うような顔であたしを見返す。
「へーき。仕方ないです、こういうの。……はは。やだなあ。どこでバレちゃったのかなあ。彗……如月さんのファンから見たら、嫌ですよね。だから、しょーがないです」
 笑いながら、怖かった。
 こんなふうに言う人がいるのに、ソロでデビューしたりして……本当にあたし、世間に認めてもらえるんだろうか……。



◆ 4

「飛鳥ちゃーん。ママのスカートの裾、ほつれちゃったー」
「……知らない」
 仕事を終えて家に帰ってくると、珍しく家にいたおかーさんがあたしを待ち受けていたかのように玄関に出て来た。
 スカートを両手で握り締めてうるうるした目で訴えてくるけど、今日のあたしは死ぬほど落ち込んでる。相手にしてあげる気力がない。
 短く答えておかーさんの横をすり抜けて行こうとすると、がしっと腕を掴まれた。仕方なく足を止めて、唇を尖らせてやる。
「おかーさん」
「なぁに?」
「おかーさんはあなたでしょッッッ!?」
「縫い物はママがしなきゃならないって決まってるわけじゃないものッ」
 むぅっと口を尖らせて少しの間睨み合うけど、おかーさんは全く怯む様子がなかった。根負けしてがっくりと頭を落とすと、そのまま片手を差し出す。
「……貸して」
「やったぁ。あのね、ここ……ね? 糸がほどけちゃってるの」
 『ね?』じゃない。
 とりあえずスカートを受け取って自分の部屋に荷物を下ろす。部屋着に着替えてリビングに行くと、あたしが裁縫セットを取り出している間におかーさんがミルクティを入れてくれた。
「あ。ありがと」
「飛鳥ちゃん、元気ないの?」
 テーブルの横にすとんと座り込んで針と糸を取り出していると、おかーさんがカップをあたしの前に置きながら首を傾げた。一応そこに母親らしい心配そうな色を見つけて、あたしは、ため息をついた。
「……うん」
「どうしたの? お仕事で嫌なこと、あった? それとも彗介さんと喧嘩でもしたの?」
 無言で顔を横に振る。
 おかーさんは、あたしと彗介が付き合っていることは知ってるけど、そして雑誌だのテレビだので彼のことを見たことはあるけど、彗介自身に会ったことはない。「変な親」と思われそうで、連れて来れない。
 でろ〜っと糸がほつれて取れちゃってるスカートの裾をまち針で留めながら、あたしはぽつんと口を開いた。
「あたし、彗介のファンから嫌われてるみたい」
「え? 明日のワイドショーに飛鳥ちゃんと彗介さん、出る?」
 出ないわよッッッ。
「じゃなくて。何か、Blowin'のファンに噂が……流れてるみたい」
「どうして?」
「それは……わかんないけど」
 小早川さん曰く、ファンにはファンのネットワークって言うのがあって、下手なマスコミなんかより早くそのテの情報をキャッチすることもあるらしい。
 あたしと彗介のことは事務所内にはもうばれてるけど、他のところではほとんど知られていないし、だから知ってるのは一部のファンだけだと思うって言ってたけど……。
 だけど、ネットとかある今、そこから公になっていくのは時間の問題かもしれない。
「彗介さんは、何だって?」
 まち針で留め終えたあたしは、縫い針を取り上げながら顔を横に振った。
「知らないかもしれない。話してない」
「そうなの?」
「うん。……彗介に、がっかりされたら嫌だな」
「がっかり?」
「自分の彼女が、自分のファンに認められないような彼女だなんて」
 そりゃあね……そういうの、あんまり気にする人じゃないとは思う。
 あたしと付き合ってることを誰に知られても別にいいって言ってくれたりもした。
 だけどさ……だけど……。
 それきり口を閉ざして黙々と手を動かすあたしに、黙ってあたしの顔を見ていたおかーさんはやがて口を開いた。
「そんなの、きりがないんじゃないの?」
「え? ……うん。そうだけど」
「誰も彼もに好かれるのは、無理だもの。特に彗介さんのこと好きなら、尚更でしょ?」
「それはわかってるんだけど。でもね、あたし、ソロでデビューするんだよ。もうすぐ」
「うん」
「怖い。そういう風に嫌ってる人がいるのに、ソロでデビューなんかしていきなり叩かれたりしたら、怖いよ」
「馬鹿ね」
 馬鹿はないじゃないのよ。
 むぅっと顔を上げると、おかーさんが本当に呆れたような顔をしてあたしを眺めていた。
「じゃあ、やめるの?」
「え? ……ソロ?」
「そう。彗介さんのファンにこれ以上嫌われたくないからって、どうするの? デビューやめるの? それとも彗介さんと別れるの?」
「やだッ」
 反射的に叫ぶ。
 彗介と別れるなんて考えられない。これ以上エスカレートするんだとしても、誰に嫌われていくんでも、あたし、彗介と別れることだけは出来ない。
 やっとやっと……いっぱい泣いて、いっぱい悩んで、やっとそばにいてくれるようになったの。
 いなくなるなんて、考えただけで吐きそう。気が狂いそう。
 誰に嫌われても、絶対、嫌。
「だったら、ひとつしかないじゃないの」
 想像だけで泣く寸前のあたしに苦笑いしながら、おかーさんがすとんとソファに体を沈めた。手を止めたままで、おかーさんの言葉を待つ。
 ひとつしかない?
「認めさせてちょーだいよ」
「認めさせるって……」
「飛鳥ちゃんはちゃんと実力があってデビューするんだってこと。誰に何言われても、彗介さんのことが好きだってこと」
 いたずらっぽいおかーさんの笑みをぽかんと見つめる。
 認めさせる……。
「……頑張ってみる」

 『上原飛鳥ソロデビューのファーストシングル』は、今月――10月の終わりに発売することになっている。
 当然それのレコーディングはもうとっくに終わってるんだけど、今日からまた、次のシングルのレコーディングに入ることになっていた。
 そこに含める1曲はあたし自身が作詞作曲で、作曲の先生に指導を受けながらまだ作っている途中。
「どうでした?」
 ワンテイク録って、ブースからコントロールルームへ戻る。中に体を滑り込ませたあたしに、ハウスエンジニアの池林さんが笑顔を向けてくれた。
「お疲れさま。プレイバックしてみよっか」
「はい」
「じゃあ流しまーす」
 そう言ったのは、以前、Opheriaのファーストシングルでもアシスタントエンジニアをやってくれた辻川さんだった。会うのは随分久しぶりだけど、前に一緒に仕事をしているから、何となく安心。
 辻川さんの声と同時に流れ出した歌に、あたしは緊張して神経を傾けた。
 ――認めさせてちょーだいよ
 認めさせなきゃいけない。
 あたし自身のことを認めさせなきゃ、彗介とつりあわないって言われるばかり。
 そんなの嫌。
 だったら、認められるものを作らなきゃ。
「止めて下さい」
「はい」
 あたしの声にすぐに反応して、辻川さんがプレイバックを止めた。
「今の……えぇと、その前のCからもう一度流してもらえますか?」
「その前のCね……はい、流しまーす」
 ああ、駄目。こんな声。弱い。前向きな曲なのに、ここから急に声が細くなる。
 あたしの得意な帯域じゃないからだけど、そんなの駄目。細くて頼りない、そんな歌じゃないのに。
 譜面を睨んで、気になるところにチェックを入れていく。聞き直したいところはその度に止めて、もう一度辻川さんに流してもらう。2回ほど通しで流してもらった後、あたしは譜面から顔を上げた。
「池林さん、録り直しお願いします」
「通し?」
「はい。何点か気になるところがあって」
「どこ?」
 譜面を差し出しながら、あたしは気になる点を確認した。
「……で、ここ、滑舌が良くなくて、はっきりしないんです。一番大事なところなのに、これじゃあ何も伝えられない。パンチで録るんじゃあ、流れが止まっちゃうから嫌なんです。気持ち込めて、心から、もう一度頭からやらせて下さい」
 今録ってるのが、あたしのソロとして最初に世の中に出るものじゃない、わかってる。
 だけど、この先ずっとあたしを認めてもらえるように。
 少しでも良いものを、残せるように。
 きっぱりと言い切るあたしに、池林さんが少しだけ、笑った。
「気合入ってるね」
 ブースの方に足を向けかけていたあたしは、ドアの手前で足を止めて振り返った。
「自信持って、納得いくものに、仕上げたいんです」
 前回の作品よりも、今回を。
 今回の作品よりも……次回を。
 自分に出来ることを増やす為には、あたしが勉強しなきゃ……。



◆ 5

 2枚目のシングルに入れる曲を作りながら、Opheriaの仕事もラストスパートをこなしながら、気がつけばもう、10月も終わろうとしていた。
 明日あたしのソロデビューシングルが発売される。
「飛鳥ちゃーん」
 一足先にライブイベントでデビュー曲の披露をさせてもらうことになっているあたしは、自分の出順を待って、楽屋でモニターを眺めていた。
 今日は、ヴァージン・エンタテインメントと契約をしているアーティスト4組が出ることになっていて、今はあたしの前の1バンド目が演奏している。
「京子ちゃん」
 う〜〜〜、緊張するよぉ。
 既にステージ衣装を身につけて、化粧も終わって、後は本番を待つばかりでがちがちだったあたしは、楽屋に顔を出してくれた京子ちゃんの笑顔にほっとした。笑顔で椅子から立ち上がるあたしに、京子ちゃんは小さく「お邪魔しまーす」と言って中に入ってきた。
「緊張してる?」
「緊張し過ぎて、死んじゃいそう、アスカ」
「いつもと一緒だよ。あたしたちが後ろにいると思って」
「思えないよおおおお。だって楽屋がこんなに静かだったことないもん〜〜〜」
 いっつも真名ちゃんがうるさいから。
 あたしの言葉に京子ちゃんが笑った。
「でも、客席から見てるからね。応援してるから」
「うぅぅぅぅん……」
「今日は、如月さんは?」
 尋ねられて、あたしは顔を横に振った。
 彗介は今、PV撮影で伊豆七島とか行っちゃってていないんだ。ソロで初めてOpheriaのファン以外の人に見てもらう日に来てもらえないのは寂しいけど、仕事なんだから仕方がない。
 でもその代わりに、さっき、電話をくれた。――いつも通りな、って。低い優しい声がまだ耳に残ってる。
「仕事で、こっち、いないの」
「そうなんだぁ。残念だね」
「ん。大丈夫」
 『あの話』は、彗介には結局話していない。
 話したところで彗介に心配をかけるだけで、事態が変わるわけじゃないから。
 これは、あたしの問題。認めてもらえないあたしの問題だから……あたしが、頑張って、跳ね除けなきゃ。
「飛鳥ちゃん、そろそろ……あ、京子ちゃん。来てたの?」
「あ、お疲れさまですー。客席で見てますね。じゃあね、飛鳥ちゃん。頑張ってね」
「うん。ありがとう」
 迎えに来た小早川さんと入れ違いに京子ちゃんが出て行くと、あたしは楽屋を出てステージ袖に向かった。
 膝がガクガクして、内臓がみんな神経になっちゃったみたいに痛かった。
 だ、大丈夫大丈夫。今日は、ただのお披露目だもん。
 別に何があるわけじゃなし、京子ちゃんの言う通り、いつもみたいに歌って……。
 カタカタ震えながら、ステージ袖でタイミングを待った。転換の間はステージのバックにある大きなスクリーンに映像が流れている。始まるタイミングで客電が消えて、そのスクリーンにあたしの名前と明日発売されるシングルのジャケットが表示される。
「Next Presents――Asuka Uehara」
 ちょっと気取った紹介アナウンスが流れ、あたしの緊張は絶頂にまで高まった。客席から歓声と拍手が上がって、あたしはマイクを持った片手にぎゅっと力を入れた。
 大丈夫。
 ――いつも通りな。俺、飛鳥の歌、好きだよ。
「こんにちわー」
 SEが盛大に流れる中、まずはバックバンドの人たちが出て行って、その後をあたしは弾むようにステージへ出た。笑顔で言う。
「盛り上がってますかあーッ!?」
 真ん中まで辿り着いて、笑顔で元気に言ったあたしに、歓声が応えかけたその時だった。
 ――ヒュンッ……。
(えッ……!?)
 何かが飛んできた。
 そう思った瞬間、あたしは反射的に腕で顔を覆って目を瞑っていた。
 ガツッ……と、ちょっと硬い音が、あたしの後ろの方の床から、聞こえた。
(何……?)
 驚いて、目を見開く。振り返ると、そこに落ちてたのはペットボトルだった。中身の入った。
 何、これ。
 ……今、これが、飛んできたの?
 何が起こったのかわからないでいる間に、客席が少しどよめいていることに気がついた。まだわけのわからないまま顔を上げると、次の瞬間、お腹の辺りに何か当たった。
(痛ッ……)
 当たったと同時に、割れてあたしの衣装に黄色いシミがつく。そのまま、どろっとした何かが床に落ちた。……生卵。
 何これ……どういうこと……?
 考えかけて、次の瞬間、気がつく。
 ……彗介の、ファン……?
「あ、あたしは、今までOpheriaでずっと活動してたんですけど……」
 何か、何か言わなきゃ。
 変に思われる。
 だけど、何でライブで生卵が飛んでくるの?
 彗介のファンなの?
「ソロで、活動することになりましたー」
 声が震えた。
 動揺したような客席が、震える声で精一杯笑顔を取り繕うあたしにどうしたら良いかわからないみたいに、静まり返っている。
「そ、それで、明日あたしの初めてのシングルが……」
「何、彗介に曲作らせてんだよ」
 静かな客席から、キツイ声が飛ぶ。怖くて怖くて、震える手が、マイクを落としそうだった。
 どうして……Blowin'はいないのに? どうして彗介のファンがいるの? あたしが出るから? あたしに、嫌がらせをする為? その為にお金払ってチケット買ってるの? ――信じられないッ……。
 客席が、騒然としている。耳につけているイヤモニから、小早川さんの声が聞こえた。
「飛鳥ちゃん、今、SE上げて暗転するから……」
「だッ……」
 その言葉に驚いて、咄嗟に口を開いた。それから慌ててステージ袖の小早川さんに、顔を横に振る。
 そんなの、駄目。歌わなきゃ。あたし、今日、歌いに来たの。生卵投げつけられる為に来たわけじゃないッ!!
「Opheriaでも、一生懸命歌ってきました……」
 ガタガタの自分を叱咤して、何とか毅然と見えるように顔を上げて、口を開く。
「これからも、一生懸命歌っていきたいと、思ってます……。Opheriaと違って、バ、バンドじゃないけど、あたしのうた、聞いて下さい……」
 お願い。
 どうして?
 あたしは彗介が好きで、彼もあたしを好きだと言ってくれて、2人で作ったの。
 それがデビュー曲になってあたしはとっても嬉しくて、これからも彗介のそばで頑張って、歌を続けていこうと思ってるの。
 あたしの合図に、動揺していたバックバンドが、演奏を始めた。戸惑ったみたいだった客席から、たくさんの視線が集まっているのを感じた。
 それが、嘲笑っているように感じられて怖かったけど、ここで帰ったら……そんなの、ただ逃げ出しただけじゃないッ……。
 逃げ出すだけじゃ、あたしのことなんて誰も認めてなんかくれない。
 バチャッ……。
 歌い始めたあたしに、また、生卵が飛んでくる。
 どこから飛んでくるのかは、あたしには全く見当がつかなかった。
 肩に当たってどろっと崩れた卵、かしゃんと殻が落ちる。あたしは、構わずに歌い続けた。
(あたしは、駄目――?)
 認めることが、出来ない?
 実力は、まだまだかもしれない。
 彗介のファンに、嫌な女に見えているのかもしれない。
 だけどあたし、間違ったことはしてないよ……。
 だから、ちゃんと今日のステージを歌うよ。逃げないで。隠れないで。
 ――お願い、聴いて――……。

 MCを間に挟む余裕なんて、なかった。
 ただただ歌うことに必死だった。
 生卵も、ペットボトルも飛んできたけど……怖くて、怖くて、涙混じりになったけど。
 だけど、声だけは、揺れないように。
「次で、最後の、曲です……」
 ステージの上は、割れた卵がいくつも落ちている。ペットボトルもいくつか転がっている。
 客席はお客さんがいっぱい入っているからスタッフさんも多分止めに入れなくて、そもそもどこから投げられているのかもわからなくて、尚且つあたしがステージを強行してるもんだから「やめて下さい」とか「中止します」とか、そう言うアナウンスも流せなかったんだと思う。
 真っ白になった頭で、がくがくする全身でそう言ったあたしに応える客席は、しんとしていた。最後のオケが流れ出す。
 駄目なのかもしれないな。
 あたしは、認めてもらえないのかもしれない。
 嫌われて、叩かれて、いなくなっ……。
(……?)
 最後の曲を歌い始めて、演奏の合間にちらほら聞こえ始めた音に、あたしは動きを止めた。
 歌いながら良く聞いてみる。
 少しずつその音は大きくなって、やがてそれが何かわかった時、あたしは、本当に泣いていた。
 ――手拍子が、聞こえる。
 思わず歌が止まりそうになった。
 信じられなくて客席を見渡す。手拍子が、大きくなっていく。
「ありがとう、ございました……」
 歌い終わって頭を下げながら言った声は、完全に涙声になっていた。
 みんなが敵に見えたから。
 そこにいる、みんなが怖かったから。
 だけど、みんなが敵なわけじゃない。逃げないで歌ったあたしのことを、認めてくれた人がいる。
 頭を下げたまま涙が次々に頬を伝って、大きな拍手をくれたお客さんみんなに、心の底から感謝の気持ちが溢れた。
 その合間に、小さな声が聞こえた。
「ごめんね……」
 反射的に顔を上げる。
 誰が言ったのかなんて、もちろんわからない。
 だけど――『ごめんね』。

 あたしのことを嫌っていた人が、認めてくれた言葉だと思えた。



◆ エピローグ

「飛鳥ちゃん、飛鳥ちゃん」
 指のささくれが、痛い。
 事務所の会議室で小早川さんを待ちながら爪きりでささくれと格闘していたあたしは、飛び込んできた小早川さんにびっくりして顔を上げた。ついでにその背後から広田さんが現れて、もっと驚いた。
 11月。
 あたしのファーストシングルは、それなりに順調に売上を伸ばしている。
「どうしたんですか? 2人して……」
「凄いよ、飛鳥ちゃん。タイアップだ」
「は?」
 タイアップは取ってないの。
 きょとんとして意味がわからないでいるあたしに、広田さんが悪戯っぽく笑いながら、手元のクリアファイルをテーブルの上に置いた。中身を取り出して、あたしの前に広げる。
「何ですか? 化粧品……?」
「コーセー堂が、曲とあわせて飛鳥ちゃんにこのCMに出て欲しいって」
 …………………………。
「はあッ!?」
 あああああああ、アスカ!!
 あんたって奴は、何回それを広田さんに繰り返したら気が済むのよッ。
「すすすすみません……」
「いいよいいよ、そんなの。それよりこれ、こっちからじゃなくて向こうからの申し出だよ」
「凄いわ飛鳥ちゃんッ」
 小早川さんが興奮している。
 ぽか〜んと2人の顔を見つめたあたしは、そのままゆら〜っと椅子から立ち上がった。
 化粧品のタイアップ……曲とあわせて、あたしが?
「ホントですか?」
「そう。担当者が、Opheriaの時から目をつけてたって話なんだ」
 あんまりの大役に無言に陥っているあたしの肩を、小早川さんが笑顔で、軽く叩いた。
「頑張ろうね、飛鳥ちゃん。これからみんなに、認めてもらえるように」
「……はいッ」

 Opheriaとあわせたって、3年目の新人。
 知名度だって人気だって、そんなにあるわけじゃない。
 だけどあたし、一生懸命やりたいの。
 恋も、仕事も、自分に出来ることはみんな。
 彗介が好き。
 うたが好き。
 あたしの全てを懸けて頑張るから――これからのあたしを、見て下さい……。

 事務所を出て、伸びをする。
 駐車場からちょうどこちらに歩いてくる彗介が、あたしを見つけて笑顔になった。
「彗介ッ」
「メール見た。おめでとう」
 あなたがそばにいてくれるから、頑張れる。
 あなたに恥じないあたしでいたい。
「頑張れよ」
「うんッ」



 これからもずっと……大好きなあなたのそばに、いられますように。








2008/06/17
▼あとがき(別窓)
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