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◆ プロローグ 夢と、現実の狭間を彷徨っているような気がする。 ふわふわ、ふわふわ、してる。 ――上原が、好きだ。 まだ耳に残る低い声。 舞い落ちる雪と白い息……辺りを取り巻いていたはずの寒さなんて、何も覚えてない。 覚えてるのはただ、彼の声と、彼の温もり。 ……本当? 本当に、信じて良いの? あれは、夢? それとも……現実、だった――……? ◆ 1 (う〜……) ベッドの上に、正座をしてみる。 そんなあたしのまん前に置かれているのは、携帯電話。 ただただ如月さんから連絡が欲しいとのその一心で買ってみたそれは、多分あたしの恋が叶うのに一役買ってくれてたんだと思う。 思うんだけどッ。 (……う〜〜〜〜……) 手を伸ばしかける。 引っ込める。 で、また、手を伸ばす。 ……うぅぅぅぅぅ。 何をしてるかって言うと、如月さんに電話をしてみようかメールを送ってみようか、悩みに悩んで、悩み続けているところ。 あたし、彼女になったはず。多分。 如月さんが今でも瀬名さんのことが好きなんだと思い込んでいたあたしが、瀬名さんをブレインに連れて行ったのは、昨日のこと。 そして雪の中、追いかけて来てくれた彼が、あたしを好きだと言ってくれたのも、昨日のこと。 ……だと、思う。 だけど、一夜開けてみるとそれはあんまりにも夢の中の出来事みたいで、って言うか、本当にあたしの夢だったんじゃない?って気がしちゃってて、何だか凄く凄く、現実味がなかった。 あたしが彼に片想いをしていたのは、6年。 片想いとさえ言えない『妄想時代』を含めて、6年も如月さんのことばっかり考えて生きてきてる。 その彼があたしのことを好きだなんて、そんな夢みたいなことが、果たして本当に起こるもんなのか。 冷静になってみると、それはあまりにもあたしのご都合主義のような気がしてならなくて、どおおしても、如月さんがあたしのことを好きだと言うのが……ず、図々しいよあたし……。 (で、でも、夢だったらこのブレスレットだってないはずだもん) あんまりにも幸せ過ぎて今ひとつ信じられない自分の感情に、反論してみる。そのあたしの手首で、しゃらっと小さな音を立てたのは、如月さんがくれたはずのブレスレットだった。 それを指先で摘んでみて、また、どきどきする。遅れて来た、クリスマスプレゼント。 ――お前の笑う顔が好きで……買っただけ。だけどお前、俺のこと、避けてただろ。だからもう、渡せないんじゃないかって思った。 混乱状態で興奮状態のあたしに、事務所まで一緒に戻って来た如月さんが、あたしにくれた物。ぽこんってあたしの手の中にプレゼントの箱を落として、拗ねてるみたいな照れてるみたいなカオで言った如月さんの声が、耳に残ってる。 ――買うの、恥ずかしくて。何買ったら喜ぶのかも、俺、良くわからないし。 アクセサリーショップで困った顔をしてる如月さんが見えるみたいでおかしくって、嬉しくって、また泣き出したあたしに、如月さんは一層困った顔をした。 ――ああもう……すぐ泣く……。 「本当だよね?」 ブレスレットを指先でなぞりながら、ちっちゃく呟いてみる。窓の外に視線を向けると、昨夜の雪の名残がまだちらほら残っていた。 それがまた、あたしの夢のような記憶を後押しした。残る雪が、昨夜の出来事を「ホントだよ」って言ってるみたいな気がした。 携帯電話に手を伸ばして、着信履歴を表示させる。そこに浮かぶ瀬名さんの名前を見つけて、あたしは枕を引き寄せると抱き締めた。 ほら。瀬名さんから着信があったってことは、あたし、確かに昨日瀬名さんに会ってるんだもん。だったら、その後に続いたはずの記憶も、あたしの夢だとか妄想だとかじゃないはずだもん。全部事実だもん。 携帯を放り出して、枕を抱き締めて、そのままごろんとベッドに転がる。 昨日の出来事を辿れば辿るほど嘘みたいで、だけど律儀にどきどきして、ぎゅ〜っと目を瞑った。 目を閉じると、昨夜の光景が目に浮かんでくる。如月さんの、照れ臭そうな怒ったような拗ねたような……。 (きゃ〜〜〜〜〜〜〜……) 如月さん。 あたし……あたし、如月さんの彼女になったんだよね? 嘘じゃないよね? ――これからは、ずっと、そばにいるから 夢、じゃ……ないよね――……? ◆ 2 「お疲れさまでした」 「おつかれー」 ディレクターさんである横溝さんの合図でマイクがオフになると、ヘッドフォンを外す。あたしの向かいの席で双葉さんが、うーんって伸びをした。 「いやー、いいねー、飛鳥ちゃん呼ぶと」 「へ?」 「和むの、俺。飛鳥ちゃん、ダイスキだから」 TOKYO FMの人気パーソナリティである双葉さんは、40代半ばくらいのおじさん。 だけど業界人らしいノリの軽さと言うか、ライトなテンションの人で、以前GROBALの奈央さんに「気をつけなね」って言われたけど、とりあえず口は軽い感じ。 一見して年齢不詳、ラジオ番組の最中は軽快な毒舌、番組以外でも基本C調。 以前Opheriaで2回くらい出させてもらったけど、それ以降、時々あたしのことを単独でラジオゲストに呼んでくれたりする。 「あは。ありがとぉございますー」 この先、Opheriaが解散してあたしはソロ活動をすることになるんだろうから、そうなってくるとやっぱりこういうのって大事だし、あんまりラジオでしゃべったりするのが得意じゃないあたしにしてみれば、TOKYO FMで結構権力握ってる双葉さんが個人的に気に入ってちょくちょく呼んでくれるのは、素直に助かるんだろうなあって気もしたりはする。 ソロになったら、また売り直しだもんね。今度はOpheriaの時みたいにバンバン広告打ったりするんじゃなくて、もっと堅実な売り方をするって広田さんも言ってたから、それこそラジオなんかに地味に出ることになると思うし。 ブースから出て行くと、流れていたOpheriaの楽曲がフェードアウトしていくところだった。代わりにCMに切り替わって、マネージャーの小早川さんが椅子から立ち上がった。 「お疲れさま、飛鳥ちゃん」 「お疲れさまでーす」 双葉さんの番組は、基本的に生番組。 ただでさえ緊張するラジオの出演で、生番組とくるともう、終わった頃にはへろへろ。 今日は番組10周年記念で、いろんな人を入れ替わりでゲストに呼んでて、早い時間からすっごい長時間の番組になってたらしい。それこそBlowin'の亮さんだとか、GROBALだとかも、あたしより随分早い時間で出てたみたい。 おかげで、普段は22時から0時半までやってる番組なんだけど、今日の終わりは22時半だって聞いてる。ちなみに今は、22時。双葉さんはこの後、30分ひとりで締め括って終わることになるはず。 「飛鳥ちゃん、チョコあげるよ。これ、美味しいよ」 「わーい。ありがとぅ〜」 スタッフさんからチョコレートをもらってもごもごと食べていると、ディレクターの横溝さんが椅子に座ったままでくるんと体を回転させた。横溝さんも双葉さんと同世代くらいのおじさん。見てるとこの2人、仲が良いみたいだった。まあ、10周年の仕事、ずっと一緒にやって来てるみたいだしね。 「飛鳥ちゃん、この後まだ仕事?」 「ううん。今日はもうおしまい」 「じゃあさ、たまにはみんなでメシでも行こうか。今日は珍しく双葉も早いし」 「あ、はい」 頷きながら小早川さんを振り返る。小早川さんは腕時計に視線を落として、横溝さんにバレないように小さく苦笑した。 「そうですね。たまには」 「おーし。決まりー。誰行くー? マリちゃーん、いつもの店、空いてるか聞いてー」 「はいはい」 慣れっこみたいな感じで、スタッフの浅川麻里さんが立ち上がった。部屋を出て行くのを見送ってすとんと手近な椅子に腰掛けたあたしは、小早川さんに預けていたバッグを受け取った。中を漁る。 (如月さん、何してるのかな〜) 携帯電話を取り出してみる。ちょこっと期待して見てみるけど、友紀ちゃんと京子ちゃんからメールが来ているくらいで、如月さんからの連絡は影も形もない。 (……忙しいのかな〜) 付き合うことになったりしたら、翌日に連絡くれたりとかしないの? 普通。 それともやっぱり、全部あたしの妄想だったの? ……やっぱ夢だったのかなぁ。じゃあこのブレスレットは何だってゆーのよぉ……。 かけてみよっかなって思わなくもないけど、現実味が今ひとつないあたしは、自分から如月さんに連絡をする勇気がもてない。 だって!! 本当に妄想だったらどうするの!? 立ち直れない、そんなの。 明日ブレインに行くことになってるし、その時に会えるかな……って、今までとどう違うの? それ。 (電話してみようかなぁ〜……) うぇ〜ん。不安だよぉ〜。 「横溝さん、空いてますよー」 「ホント? んじゃあ先に行く人行ってて。こっち、終わったら追いかけるから」 「はーい。じゃあ飛鳥ちゃん、小早川さん、先行きましょうか。寺田さん、どうします?」 「あ、俺も今一緒に行く行く」 いつまでも携帯睨んでため息をついてるわけにもいかないし、麻里さんに促されて小早川さんと一緒にスタジオを出る。 ぞろぞろと廊下を歩いて行くと、少し先のエレベーターホールの前に知ってる人が立ってるのが見えた。GROBALだ。 「あれぇ? テラさんじゃーん。お疲れさまー」 「何だ、奈央ちゃん、まだいたの?」 「双葉さん終わった後、ウチら来週のセリナの番組のスケジュール調整してたんだもん」 「ああ、出るんだ」 奈央さんの姿を見ると、条件反射でびくっとする。 だだだって。ち、ちょっと怖い。昨日のことを知ってるわけはないけど、如月さんと付き合うことになったって言うのがもしも妄想じゃなくて現実だとしたら……首でも絞められそう。 「あ、飛鳥ちゃーん。おつー」 「お疲れさま」 微かに引きつった笑顔で挨拶を返していると、奈央さんは屈託なさそうな様子でこっちに向かって歩いて来た。 「飛鳥ちゃんも双葉さん?」 「そう」 「お疲れ。……って何? ぞろぞろと。どっか行くの?」 「うん。みんなでごはん行こうって」 「奈央ちゃんも行く?」 エレベーターが来るのを待ちながら、寺田さんが奈央さんに尋ねる。奈央さんが首を傾げて、寺田さんを振り返った。 「双葉さんとか横溝さんもこの後、来るんだ?」 「来るよ」 「ふうん……。でもごめん、今日はパス。あたしら、この後PVだもん」 「ええ? この後? 働くねえ」 「夜明けの砂浜目指してゴーゴーなんだよー」 到着したエレベーターに全員が乗り込んで、ドアが閉まる。 「麻里さん、ドコ行くの?」 「え? パターン通りですよ。とりあえず『らんぷ』行って、その後行く人は『湖鏡』じゃないですか」 「また『らんぷ』ぅー?」 奈央さんも双葉さんたちと飲んだことがあるんだろーな。 ぼそぼそと奈央さんと麻里さんが話すのを聞いている間にエレベーターが1階に到着して、下り際、奈央さんがくいっとあたしの袖を引っ張った。 「え?」 「飛鳥ちゃんさあ」 「はははい」 「気をつけなね」 「……へ?」 ぼそっと、他の人に聞こえないように、囁くみたいに言う。 ので、あたしはきょとんと足を止めて、奈央さんを見返した。 「気をつける?」 きょとーんとしているあたしに、奈央さんはふうっとため息をついて歩き始めた。 その後を慌ててついていくあたしをちらっと振り返って、もう一度奈央さんは、ため息混じりに呟いた。 「小早川さんがついてんなら、大丈夫だとは思うけどさ……」 ◆ 3 仕事の人たちとごはんを食べに行くと、イコール『飲みに行く』になるんだってことはわかってるつもり。 ライブの打ち上げだとか、イベントだとかで度々そういうのは経験しているし、お酒が相変わらず大して飲めないのは変わらないけど、酔っ払ってっちゃうみんなのテンションが面白かったりもするから、別にどうってことない。 ……と、思ってた。 「飛鳥ちゃん、俺の酒が飲めないってこと、ないよねえー」 こういう人が世の中に未だにいるなんて!! 「あ、双葉さん、飛鳥ちゃん、あんまりお酒が飲めない……」 「じゃあ俺が鍛えてあげるよ」 ひぃぃぃぃぃんッ。 飲めないんだってばああああ。 「ああああの」 「今日、番組10周年おめでとうなんだしさあ」 「はい。凄いですね」 「凄いでしょ? 凄いんだよ、俺。だからさあ、飛鳥ちゃんにも祝って欲しいんだよねえー」 タチ悪い。この飲み会。 先にお店に入ったのは、あたしや小早川さんも含めて6人。 だけどその後、双葉さんの番組がちゃんと終わってから13人増えて、気がつけば20人近い大所帯になっていた。 「ああ、前にね、亮もここに連れて来てあげたことあるんだよ」 「へえー。そうなんですか?」 「うん。『ミッドナイト・トライアル』をさ、Blowin'がやってて……あ、飛鳥ちゃんってBlowin'、知ってるんだっけ」 「は、はい」 知ってるどころの騒ぎじゃない。 その話を聞きながら、そう言えばいつだかの亮さんの不倫騒動の時、雑誌に載ってた関係者談とかって双葉さんらしいって噂を耳にしたことを思い出した。 あれって、本当なのかな? だとしたらこの人……危ないぞ。 「ああ、来た来た。懐かしいねえ。あれってもう何年前?」 「え? 亮を連れてここ来たの?」 脇合いから寺田さんが口を挟んだので、双葉さんのロックオンから解放されたあたしはちょっとほっとして、バッグの中の携帯を漁った。周りに見つからないようにこっそり画面に視線を落として、ため息。 う〜……連絡くれないよぉ〜。 如月さんの馬鹿〜〜〜……。 唇を尖らせて、手首のブレスレットを弄りながら、ため息をつく。……後で、電話してみようかな。今、何時だろ。 ……夢だったのかな。 「あれがまずかったんだろうな〜」 「まずかったって? ああ、近藤と亮?」 「仲人じゃん、俺」 「良く言うよ。調子良いなあ〜」 うわぁ、すっごい週刊誌ネタな感じ。あたし、聞いちゃいけないことを聞いてる気がするぞぉ〜……。 「飛鳥ちゃん、オレンジジュース、頼む?」 TOKYO FMの人たちが亮さんと近藤さんの不倫騒動の話から逸れて、ゲストの話とかしてるのを聞いていると、スタッフの人たちとしゃべってた小早川さんがあたしに尋ねてくれた。それを聞きとがめて、双葉さんがこっちを向く。 「飛鳥ちゃん?」 「はははい?」 「何だあ、飛鳥ちゃん、飲めないの?」 だから飲めないんだってばッ。 「双葉ちゃん、飛鳥ちゃん可哀想だから、あんまり無理に飲ませるなよー?」 横溝さんが双葉さんを窘めてくれる。それにほっとして笑みを覗かせると、横溝さんがあたしを手招きした。 「双葉ちゃんの隣にいると危ないからね。おじさんが守ってあげよう。こっちおいで」 「汚いなー、ヨコさーん。俺、飛鳥ちゃんのこと可愛がってるのに」 「だから嫌われる前に止めてやろうって言ってるんだろ? ありがたく思えよ」 横溝さんの隣に行っちゃお。 このまま双葉さんの隣にいると、本当にそのうち飲まされそう。 「じゃあアスカ、横溝さんのご指名でお隣行ってきます」 「うん、おいでおいで」 「あ、逃げる気?」 「双葉さんには麻里さんがいるじゃないですかー。ねぇ、麻里さん」 「双葉さんはマリのことを召使いだと思ってるんですよー。ね」 「そんなこと思ってないってー」 麻里さんがうまいこと絡んでくれて、あたしはのそのそと席を移動すると、まんまと双葉さんの隣を逃れて横溝さんの隣に落ち着いた。ようやく、ほっとする。横溝さんが、あたしに笑った。 「避難完了」 「はは、やだな。そんなことないですよ。だけど双葉さん、お酒好きみたいだから、飲めないあたしが隣にいてもきっとつまんないし」 「おっと、うまくかわしたね、飛鳥ちゃん。全然飲めないの?」 「うーん、全然ってわけじゃないんですけどー……。すぐ酔っ払っちゃうし」 「ふうん? これならいけるんじゃない? 甘い奴」 「うぅん……」 「せっかくみんなで飲んでるんだしね。飲んですぐ吐いちゃうとかじゃないんだったら、一杯くらいは飲んでおいた方が飛鳥ちゃんも楽しいと思うよ」 「でも」 「これ、お酒に弱い女の子にオススメ。甘くて美味いから。飲めなかったら、俺が続きを飲んであげるから試しに行ってみようよ。……おーい、すみませーん」 あああああ。 あたしの返事を待たずに横溝さんが店員さんを呼んだ。それを見て、仕方ナシに観念する。 まあ、あたしもハタチだし。一杯くらいなら大丈夫かな。それに、ビールは苦くて美味しくないから嫌だけど、甘いのだったら大丈夫かもしんないし。 「女の子も、少しくらい飲めた方が良いよ。カレシも飲む人だったりすると、飲めない女の子相手じゃつまんなかったりするし」 ぐさ。 如月さんって……お酒、飲むよね。 そりゃあそんな浴びるように飲んでるわけじゃないだろうけど、半端なく強い感じするし。……あたしみたいなんじゃあ、つまんない? かな? 「そ、そういうもんですか?」 「うーん。ひとりで飲んでても寂しいじゃない?」 「そっかぁ……」 「軽く酔っ払っちゃうくらいの方が、可愛いもん。オレンジジュースとかカルピスばっかり飲まれててもさあ……子供っぽく見えたりするじゃない?」 う。 横溝さんが、駄目押しみたいに言った。 その言葉は結構、今のあたしには効いた。 ただでさえ如月さんはあたしよりオトナで、あたしがデートでオレンジジュースばっかり飲んでたら……子供っぽいかな。子供っぽい……よね。 オトナっぽくなりたい。色っぽさのかけらもないまんまなんて、そんなの……嫌。 無言になっていると、横溝さんが頼んだお酒が運ばれて来た。目の前に置いてくれる。 「何? 飛鳥ちゃん、カレシいんの?」 「え? あ、い……」 い、い、い、い、い……。 「……いえ」 いるのかなぁ……。 ただでさえ自信がなくて、連絡なくて、現実味なくて、不安で……何だかあたしは「います」って言えなかった。 グラスに手を伸ばしながら、お父さんみたいな横溝さんを見上げると、横溝さんはあったかい感じでにっこり笑った。 「ん?」 「お酒も飲めないような子供っぽい女の子、嫌ですよね?」 「いや〜……あんまり強いのもどうかと思うけどねー。別に無理して飲まなくたっていーけど、自分に付き合う程度は飲んでくれた方が嬉しいかなあ、俺だったら」 「うぅん〜……」 「それに、少し酔ってる女の子って、色っぽいよ」 『色っぽい』。 「……いただきます」 彼につりあう、オトナの女になりたい。 ◆ 4 「飛鳥ちゃんって、本当にお酒、弱いんだなあ」 ちきゅーがまわる。 「大丈夫? ごめんね。って、俺の声、聞こえてる?」 きこえてるけど、へんじをするのが、しんどい。 横溝さんに勧められたのはカルーア・ミルクって言う奴で、甘くてビールなんかよりずっと飲みやすいのは確かだった。 だけど、しっかりお酒。 ちっちゃいグラスだから平気かなって思ったけど、のろのろと一杯空けた頃には、あたしはすっかり、ぐらぐらだった。 カルーア・ミルクで酔っ払ったあたしの舌は、もうお酒の味なんか良くわかんなくなってて、その後にオレンジジュースだよって言われて出されたグラスにも少し口をつけた。見た目はどう見てもオレンジジュースで、味はもう全くわかんなくって、だけどそれを3分の1くらい飲んだら完全に体を起こしてられなくなったから……お酒だったんだと思う、きっと。 「飛鳥ちゃーん? 寝ちゃったのー?」 体を起こしていられないあたしは、テーブルに突っ伏していた。横溝さんがさっきから、心配げに声をかけてくれる。答えなきゃと思うけど、答えられない。 「飛鳥ちゃん?」 「……はぃ……」 起きて起きて。仕事の人なんだから。ちゃんとしなきゃ。 無理矢理体を起こすと、ふにゃ〜〜って世界が回って、あたしはこてんと横溝さんに寄りかかった。 「おっと。役得だね」 「ごめんらさ……」 「いーよいーよ。おじさんは喜んでるから」 笑ってあげることが出来ない。ぐらぐら過ぎて。 周りの人がどんな状態なんだかあんまり良くわかってないんだけど、いつの間にか人数は減ってるみたいだった。小早川さんは寝ちゃってる。双葉さんや麻里さんはいなくって、全部で6人くらいになってた。 「ふたばさんは……」 「あいつは別の店に移動したよ。飛鳥ちゃん、移動は無理でしょ?」 「むりれす……」 「だから多分、ここでもうバイバイかなと思って。落ち着いたら、小早川さんと一緒に送っていくからさ」 「すみません……よこみぞさんはいかなくていーんれすか」 「何が?」 「にじかい……」 「いいよいいよ。どうせあいつらとは、しょっちゅう飲んでるんだから」 苦笑いをしながら、横溝さんがぽんぽんとあたしの頭を撫ぜた。 ……う〜。ちきゅうがまわる〜……。ちきゅ〜はもともとまわってるんだけど……あたしのまわりがまわってる〜……。 ぐらぐらの頭の中、考えなんか何もまとまる状態じゃないけど、ただ時々、如月さんの顔が浮かんで消える。 何してるのかな……連絡して欲しいよ……しようかな……いつ、会える、かな……。 「飛鳥ちゃん、少し、立てる?」 「……ふぇ……?」 「あっちの隅のテーブルが空いてるから、そっちで水もらおう。あっちなら少し、風にも当たれるよ」 おみず〜……のみたい〜……。 脳味噌が上手く回ってないあたしは、横溝さんの言いなりで、されるがままによたよたと立ち上がった。 途端、足がもつれた。横溝さんがあたしを抱き止めるようにして、支えてくれる。 「すみませんん……」 「いーよいーよ。……ちょっとさ、あっちのテーブル貸して。で、水持って来てくれる?」 後半のセリフは店員さんに言ったんだと思う。 横溝さんに抱きかかえられるみたいにして、促されるままに歩き出した。何だかもう自分がどこを歩いているのかさえ良くわかんない感じで、もたもたのろのろと席を移る。……何で席を移動してるんだっけ? あ、お水……? 風……。 連れて行かれたのはお店の隅のテラス席みたいなところで、置いてある2テーブルには誰の姿もなかった。あたしをソファに座らせて、横溝さんが窓を少し開けてくれる。 「こっちのテーブル、ソファになってるから。この方が楽でしょ」 「ぁい……」 店員さんがお水を持ってきてくれて、テーブルに置いてくれた。 「大丈夫? 水、飲める?」 「……へいきれす……」 今、何時だろ……。 くたっとソファに深く寄りかかるあたしの視界は、まだぐるんぐるん回っていた。しきりと目を擦って、何とか視界を回復しようとするけど、なかなか思い通りにいかない。 「よこみぞさん……」 「うん?」 「いま、なんじれすか……」 「今? ええと、0時半だよ」 ああ、そうなんだ……。思ってたより、遅くないんだな……。 そのことにほっとして、同時に、どうしても如月さんの声が聞きたくなった。 会いたいな。会いたいな。……会いたい。 何してるのかな。ねえ、昨日のことは、夢だったの……? 動くのがつらくて、何もしたくなくて、あたしはただ如月さんのことだけ考えながら、ソファでくてっと目を瞑っていた。自分の呼吸が浅く短いことが、何となくわかる。顔が熱い。手足に力が入らない。 そのまんまの状態で、くいっと腕を引っ張られた。 全然自分で自分を制御出来ない状態にいるあたしは、あっさりされるままに、こてんと横溝さんの肩に凭れ掛かった。 「この方が、楽でしょ?」 「れも……」 「いーんだよ。別に、何をしようってわけじゃないから大丈夫。安心していーから」 どっちにしても、力が入らないから体を起こせない。 でも、そうだよね……別に何をしようってわけじゃないよね。パパみたいな年齢の人なんだし、大体ここ、お店だもん。 視界がぐるぐる回るから、酔いが醒めない。ぎゅっと目を閉じると今度は暗い視界が回ってる感じがして一層ぐらぐらして、されるままのあたしの肩を、横溝さんが抱き寄せた。 「つらそうだなあ……ごめんね……」 ……? 顔を近づけて言いながら、肩を抱き寄せた片手で、あたしの耳たぶを撫でる。 (……え? え? え?) 何……。 「飛鳥ちゃんは、可愛いなあ……」 その指先が今度は、そっと頬に触れる。 「こんなに、酔っちゃうんだね……」 ぼんやりした頭で、考える。 何か、変。 「色っぽいよ」 (やばい……) 耳元で囁かれて、さすがに、まずいって気がした。 あたしの顔を抱え込むみたいに肩を抱き寄せて自分に凭れ掛からせながら、近付く唇がおでこに触れた。 ちょっとあたし、今、何されてんの……? 「よこみぞさん、あたし、もう、だいじょー……」 スポンジみたいな頭の中で、だけど危機感だけは感じて体を起こそうとする。 でも、ただでさえ力が入ってなくて、横溝さんに抱え込まれるみたいになってるあたしは、ろくに脱け出せる状態じゃなかった。 (ちょ……) 嘘でしょ? だって、おじさんなのにッ……。 「どこが? 全然大丈夫に見えないよ? ゆっくり休んでいーんだよ」 休めると思うッ!? 「あのほんとに……」 「可愛いね。ホント、可愛いよ、飛鳥ちゃん。キスしたくなっちゃうな……」 「らめれす……」 「駄目なの?」 駄目に決まってんでしょ!? やだやだやだ、怖い、怖い、怖い。 だけど逃げられない、動けない、力が入らない。 ここお店でしょ!? 店員さん、助けてよッ……。 「じゃあ何にもしないから、顔、上げて」 嫌。 横溝さんの腕から脱け出せないから、あたしは精一杯の抵抗として丸まるみたいに顔を俯けた。ついでにぎゅっと目を瞑る。 これなら、無理矢理押し倒しでもしない限り、何も出来ないはずだもん。 「飛鳥ちゃーん。顔、上げてよ」 「よこみぞさん、はなして……」 やだやだやだー。 誰か助けて……この人から逃げた……。 「飛鳥ちゃ……」 どかッッッ。 いきなり、ソファが、揺れた。 (……?) その衝撃にびっくりして、顔を俯けたままで目だけ見開く。 「何……」 「お疲れさまです。こいつの保護者です」 (――……え?) 頭上から降ってきたその声に、びっくりして目をまん丸にした。 頭がぐらぐらだってわかる。誰の声なのか。……え? でも、どうして? そんなはず……。 (如月さん……?) 恐る恐る顔を上げる。 ぶれるように揺れている視界の中で、横溝さんのすぐ前に立っているのは、確かに如月さんだった。 感情的とは到底言えない冷めた表情で、だけどその片足がソファの背もたれ、それも横溝さんの真横の辺りに叩き込まれている。さっきの『どかッッッ』は、多分、コレ。 えええええ? ど、どうして? どうして如月さんがいるの? 「如月さん……」 お、怒ってる? よね? どう見ても。 「何だお前……」 「いつも遠野が世話になってます。Blowin'の如月です。……それとも、上原の彼氏ですと言った方が、状況がわかりやすいですか」 どう見ても「お世話になってます」って挨拶をしていると思えない態度のまんま、如月さんが低く言った。 するするするっと、横溝さんの片手が、あたしの肩から離れていく。脱け出そうとしても自力では到底脱け出せなかったその束縛が、如月さんの言葉であっさりと、解かれた。 「え? ……え?」 横溝さんが、あたしと如月さんをあたふたと見比べる。それを受けて如月さんも、ちらっとあたしに視線を向けた。……ひぇぇぇぇ。怒ってるぅぅぅぅ……。 「立てるか」 「……た、たぶん」 「酔っ払ってご迷惑だったでしょうが、俺が連れて帰るんで、安心して下さい」 って言う態度じゃないってば、如月さん。 片足をソファの背もたれに掛けたまんま、どこからどう見ても脅しつけてるとしか思えない如月さんに、横溝さんがむっとしたような顔を上げた。 「随分失礼な態度じゃないか」 「この程度で済んで、感謝して欲しいくらいですが。……行くぞ、上原」 「……はぃ……」 ようやくソファから足をどけた如月さんの手に掴まって、何とか立ち上がる。立ち上がった途端、ぐら〜っとした。力が相変わらず入らなくて、辛うじて立ったままでこてんと如月さんに凭れ掛かる。うぅぅ……ちきゅうがまわってる……。 足元の覚束ないあたしの体を支える為に、さっきの横溝さんみたいに如月さんの腕が肩に回されたけど、あたしにとってはさっきと全然違った。全然違って、安心だった。 「セクハラするんなら、今後は相手を選んで下さい。……次は、これじゃ済まさないんで」 よろよろのあたしを支えて歩き出した如月さんの言葉に、横溝さんが唸るように言い返す。 「覚えとけよ、Blowin'」 その言葉に、ぼんやりしたままで、どきんっとした。 やだな……そうだよ、この人、ラジオ局のディレクター……。 だけど、そんなあたしの心配をよそに、足を止めた如月さんが短く言い返した。 「あんたに潰されるBlowin'じゃない」 ◆ 5 ……怒ってるかな。 怒ってる、よね……? 横溝さんの『セクハラ』からあたしを助けてくれた如月さんは、そのまま、歩くのもやっとなあたしを車に放り込んだ。 で、今、あたしは如月さんの部屋の床で、クッションに息も絶え絶えでしがみついている。 「……水。飲めるか」 ここに来るまでの車の中で吐かなかったことが奇跡的な状態のあたしに、如月さんは終始無言だった。 何であそこに如月さんがいたのかなとか、怒ってるのかなとか、聞きたいけど怖くて聞けない。 部屋にとりあえずあたしを連れて来た如月さんは、もう身動きなんか何もしたくないあたしに毛布を持ってきてくれて、次いで水のグラスを持って来てくれた。覗き込むみたいにしてすぐそばにしゃがむ顔に、泣きたくなった。 「怒ってる……?」 のそのそと体を起こしかけて、そのままぱすんとクッションに戻ってしまう。……うぅ……情けない……。 そんなあたしを見てひょこんと眉を上げた如月さんが手を貸してくれて、ようやく体を起こしたあたしは、水のグラスを受け取った。一口飲むと、少しだけ、頭が醒めるような気がした。 「気持ち悪くないか? 吐いてくるか?」 「ううん……へぇき……」 そばにしゃがみ込んだまんまだった如月さんは、あたしの答えにふうっとため息をついてそのままそこにあぐらをかいた。 「横溝さんにだったら、怒ってる」 「……」 「上原に対しても、怒りたい気は、してないわけじゃない」 「……」 しゅんとしながらグラスに口をつけるあたしに、如月さんはもう一度ため息をついて、ぽんとあたしの頭に手を乗せた。目を上げると、如月さんが心配そうにあたしを見ていた。 「だけど、あいつら、タチ悪いらしいから」 「え?」 「双葉さんと、横溝さん。上原が、こんなになるまで自分から飲むと思えないし。……何もされなかったか?」 「……うん。如月さんが来てくれたから」 「なら、良かった」 それから、あたしの頭を軽く引き寄せた。グラスを床に置いて、こてんと如月さんの肩に、おでこをぶつける。 「心配させるなよ」 「ごめんなさぃ……」 心配、してくれたの? 昨日のことは夢じゃなかったんだって思って、良いのかな。良いん、だよね。 ――それとも、上原の彼氏ですと言った方が…… 「あたし、如月さんの彼女になったの、妄想だったんじゃないかって思い始めてた」 「思い始めるなよ。何だよそれ」 おでこをこつんって押し付けたままの頭の上から、呆れたような声が降って来る。 だけど、優しく髪を撫でてくれてるから、安心してあたしは、小さく笑った。 「だって……電話も何もないし、次いつ会えるのかとか全然わかんなかったんだもん」 「かけたよ。だけどお前の電話、繋がらなかった」 「……」 えええ? 「え、かけた?」 「うん……まあ、22時を回ってたけど。多分、電波が悪かったんだろ」 目を丸くして顔を上げたあたしを、如月さんがすぐ間近で見下ろす。一瞬きょとんと見詰め合ってから、あたしはまたちっちゃく笑って、おでこをその肩に押し付けた。 何だ……連絡、くれたんだ……。 あのまんま、放っておかれたわけじゃなかったんだぁ……。 「何だ……良かった……」 「何?」 「うぅん、何でもない……」 あたしの夢じゃなかったんだ。如月さん……あたし、彼女でいーんだよね。 「……如月さん、どうしてあのお店に?」 離れたくなくて、甘えてたくて、如月さんの肩に今度は頬を押し付ける。おでこに如月さんの顎が触れて、幸せで、どきどきした。 「遠野経由で、木村に聞いた」 「奈央さん?」 「双葉さんと横溝さんってタチ悪いって話は時々聞くし、遠野も前にあの人たちと飲みに行ってるし、木村も行ったこと、あるんだろ。多分」 ああ……そうだよね。 ラジオ局で会った時に、「気をつけな」って言われたことを思い出した。 「木村は俺の連絡先知らないから、遠野に『飛鳥ちゃん、慣れてなさそうだから大丈夫かなあ』って電話が来たんだよ」 「一緒にいたの?」 「スタジオ」 そっか。亮さん、双葉さんのラジオの後、Blowin'でスタジオだったんだ。 「それ聞いてからまたお前に電話かけても、やっぱり繋がらないし。……心配してみりゃ、案の定だし」 「ごめんなさい」 「前に言ったろ。セクハラの多い世界なんだから、気をつけろって」 「うん……」 「お前に何かあったら、俺だって悲しむって、わかってる?」 拗ねるような口ぶりに、ごめんね、ちょっと嬉しくなった。 だってそれって、言葉は違うけど、あたしのことを好きだって言ってくれてる。 夢じゃないんだよね? 夢じゃ、なかったんだよね……? 「いつでも行ってやれるわけじゃないんだから……しっかりしてくれよな……」 「はぁい……」 「世話が焼ける」 今はこうしてそばにいるから、夢じゃないんだなってわかってる。 だけどきっと明日の朝にはまた、夢か現実かわからなくなる。 そのくらい、あなたのことが好き。 だから、「現実だ」って噛み締められる今の内にあたし自身に言い聞かせたくて、あたしは腕を伸ばして如月さんを抱き締めた。 「上原?」 「ありがとう」 守ってくれて。 「……横溝さんにあんなことして、大丈夫?」 「大丈夫」 如月さんの声が、近い。 優しく抱き締め返してくれる腕が、この幸せが現実なんだよって教えてくれる。 「言っただろ。あいつに潰されるようなBlowin'じゃない」 心配かけて、ごめんね。 心配してくれて、ありがとう。 まだ、嘘みたい。 まだ……夢みたい。 ずっと追いかけてたあなたが、あたしの為に飛んで来てくれるなんて、幸せ過ぎて、まだ良くわかんないの。 「あんまり、心配、させるなよな……」 「うん……」 まだどこか酔いの残る頭で、如月さんの声を、温もりをずっと感じていたくて、彼を抱き締めたまま瞳を閉じる。 いつか、あなたのそばにいることが、当たり前になれるかな? そばにいなくても、不安にならなくて済むように。 まだまだ自信はないけれど、「あたしが如月さんの彼女なのよ」って……自信、持てるようになれるかな。 (幸せ……) あなたに出会えて、良かった。 ◆ エピローグ 「こっちと……うーん。こっちも可愛い。……ねえ。どっちが良い?」 「どっちでも良い」 「一緒に選んで〜」 「じゃあこっち」 「そんな適当なの、嫌」 肌を刺す寒さが少しずつ姿を消して、気がつけばうっすらと肌が汗ばむ季節になっていく。 もうすぐ、夏。 少しずつ、少しずつ、如月さんがあたしのそばにいてくれることを実感出来るようになっていく。 「う〜〜〜〜〜〜ん。やっぱ、金魚さんかなあ……」 「これ、金魚だったの?」 「どう見ても金魚さんじゃないのよ〜。他に何に見えるの?」 「何だか良くわからなかった」 「もういい。これに決めた」 あんまり参考にならない如月さんをよそに、勝手に決断を下して風鈴をひとつレジに持っていく。 夏に向けて、どうしても如月さんの部屋に風鈴をつけたいあたしが、可愛い風鈴を見つけて機嫌良く雑貨屋さんを出ると、先に外に出ちゃってた如月さんが歩き出しながら手を差し伸べた。 その手を取って追いつきながら満面の笑みで見上げるあたしに、如月さんが呆れたみたいに呟いた。 「しっかし、風鈴なんて未だに売ってるんだな……」 「夏の風物詩だもん」 「エアコンがある今、あんまり存在意義がないんじゃないの」 「あるー。日本人の心だもん」 「しかもなぜ俺の部屋……」 「あたしの部屋にぶら下げたって、如月さん、来ないじゃない」 如月さんがあたしの隣を歩いてくれるようになってから、4ヶ月。 あたしの恋心は、困ったことに未だにきりがない。 「う、暑い……」 駐車場に停めてあった如月さんの車に乗り込むと、停めてあった間に溜め込んだ熱気がむわっと出て来た。 まだ夏には少し早いのに、天気の良い今日の太陽はもう、夏の気分。 「どっか行きたいな、夏……」 窓を全開にして、エアコンかけて、車内の暑い空気を追い出しながら、如月さんが目を細めてぼそっと言った。 「んでも、如月さん、ツアーでしょ?」 「ツアーだけどさ……。上原」 助手席に座って、がさがさと早速風鈴の紙袋を開けてみる。取り出した金魚の絵柄の風鈴は、やっぱり可愛かった。 へへ。如月さんの部屋って無愛想だから、これでちょっと可愛くなる。 「ん〜?」 「それ、やめないか?」 「は?」 それ? 「風鈴?」 「じゃなくて。止めたってぶら下げるんだろ、どうせ」 「うん」 風鈴じゃないなら、何? きょとんと如月さんを見返していると、熱気を追い出し終えた車の窓をウィーンって閉めながら、如月さんがまた、あたしに視線を戻した。 「名前」 「名前?」 「もういい加減、苗字で呼ぶの、やめても良いような気がする」 エアコンの風に煽られて、ちり〜んと風鈴が涼しい音を立てた。 「え、え、え、えええええ?」 「驚くことか?」 「だだだって、じゃあ何て呼んだら良いの?」 「……俺には苗字以外にも名前ってのがあるんだけど」 知ってるわよそんなことッ。 知ってるけどぉぉぉぉッ。 「は、恥ずかしい」 「俺の名前は口にするのを躊躇うような恥ずかしい名前か?」 「そんなこと言ってないでしょッ。いいい今更、変えられないよぉぉ」 だだだだって……き、如月さんじゃないんなら……け、彗介さん? ふにゃあああああんッ。……奥さんみたい。 考えただけで、心臓ばくばく。 「そそそれに、そんなこと言ったら、如月さんだってあたしのこと、苗字で呼んでるもんッ」 あたしの反論に、如月さんは一瞬妙な間を置いて黙った。 少し視線を彷徨わせて、またあたしに視線を戻して、で、またそっぽ向いて。 「……飛鳥」 「……」 うひゃぁぁぁぁぁぁ。 エアコンが効いて、少しずつ涼しくなってきた車内……の、はずが、何だかあたし、顔が熱い。 (『飛鳥』……) か、か、か、彼女みたい。 初めて名前で呼んでくれたことに逆上……じゃない、興奮して頭の中できゃぁきゃぁ言っていると、ハンドルに寄りかかった如月さんが無言であたしの方を見た。 ……ま、待たれてる。 「……」 「………………………………………………」 真っ赤になってコチコチになって言葉の出ないあたしに、如月さんがハンドルから体を起こした。 それから、くいってあたしを引っ張る。 「ん? ……」 そのまま、ふわっと軽く、唇を重ねた。 途端、とろ〜んってなって、ふにゃ〜っとしてるあたしに、キスしたそのままの近い場所で、如月さんが小さく笑う。 「……いつか同じ苗字になっても、『如月さん』って呼ぶの?」 「同じ苗……」 き、きゃあああああああああああああ。 こつんとおでこをぶつけられて、その言葉にあたしは完全に……オーバーヒート。 壊れそうな心臓のまんま、すぐ間近の如月さんの目を、上目遣いに見返す。 あの雪の日が、人生で最高の幸せなんだって思ってた。 だけど、幸せが、増えていく。 あなたのそばにいられることを、夢見てた。 それ以上の幸せなんて、あると思ってなかった。 だけどまだ、続きがある? だけどまだ、夢を見ても良い? ―― 一生あなたのそばにいられるんだっていう、夢。 「同じ、苗字……?」 「そうすると飛鳥も『如月さん』になっちゃうんだけど」 うぅぅぅぅぅ……。 「け、けぇすけ、さん」 「『さん』はいらない」 「………………………………………………………………彗介」 名前呼ぶだけで、どっきんどっきんしてる。 真っ赤なまんま、ちっちゃいちっちゃい声でようやく言ったあたしに、如月さ……彗介、が、小さく笑った。 「その時までに、慣れといて」 「はい……」 もう一度重ねられたキスに、瞳を閉じる。 未だにあたし、手が触れるだけで幸せになれるの。キスするたびに、どきどきするの。 触れるたびに、好きになる。 少し離れるだけで、怖くなる。 いつか、夢の続きを見せてね。 もっと、そばにいることが当たり前になった時にも。 名前で呼ぶことが、自然になったその頃にも。 あなたの隣で、終わらない夢を見ていたい。 ずっと――――……。 |
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2008/05/07 ▼あとがき(別窓) |
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